政治家を始めとして経済界、官界、教育界の何処を見渡しても指導者と言える人物がいない。今の社会の悲劇は指導者の器でない人物がその地位を得ているからに他ならない。指導者とは頭が良いだけではない。指導者の資質は、人を纏める力量や人が付いてくる器量があり、私心を持たないことである。何時の間にか総ての価値観を金銭的に置き換えて判断する悪しき習慣が蔓延してしまったからか。更に言えば、指導者となる人は個性が強いが、社会道徳を尊ぶ余り、角を矯めて牛を殺す様な小人物しか産まない土壌を作ってしまったのかもしれない。ここ30年の日本を振り返ると、良いと思われて実施されてきた政策や改革が視野が欠けていたものであったために反作用が起きた事例は枚挙に暇がない。教育現場で言えば、「内申書」の重視であろう。受験勉強の弊害をなくすはずが、新たに学校に担任と言う権力者を生んでしまった。小選挙制度の導入でも単一民族で発想に差がないので、常時選挙運動を行う必要が起きてしまったことである。医療制度においては改革どころか改悪ばかりである。これは大局観を持った指導者がいないために、枝葉末節的な議論に終始して決めた弊害である。この現象は政策の現場ばかりでなく、全ての業界に言えることでもあり、100年に一度と言われる難局を乗り切るには、真の指導者の出現が不可欠である。米国のオバマ大統領の真価はこれからだが、日本にもオバマの様な政治家の出現が欲しいと思う。
非正規労働者の犠牲の上に成り立った砂上の楼閣
工場や建築現場の季節労働者は昔から存在し、彼らには帰る故郷があったから悲壮感は少なかった。しかし、昨今の工場の非正規労働者の存在は全く性格が違う。正規労働者の豊かさを維持するために安い給料で犠牲を強いられているだけの存在である。今回の金融不安から全世界的な需要の落ち込みを想定した非正規労働者の雇用打ち切りが相次いで通告されている。企業論理としては必要なくなった非正規労働者の雇用を打ち切るのは、今回の様な需要調整の社員としての位置づけとして当然と看做すであろう。非正規労働者が何故生まれたのかを考えると、バブル経済崩壊後に資産デフレとなり企業はバランスシートを改善するために経費を削減する必要に迫られたことが主たる原因と思える。尤も、このモデルは長く景気低迷していた欧米の企業が採用していた雇用方法でもあった。このモデルの長所は、従来の様に好不況によって正規労働者の人員整理を行う必要はなくなり、労働組合との対立も少なくなると言うことの様に思える。同時に、輸出に対して為替の変動によるコストを非正規労働者の雇用で調整できるメリットもあった様に思える。しかし、非正規労働者の出現は、正規労働者との間で格差を産み、秋葉原事件も引き起こしたのである。同じ仕事を強いられて給料が違う理不尽さが何を社会にもたらすか企業経営者も官僚も政治家も考えていないに違いない。極端に言えば、雇用を保全された正規労働者が怠けて非正規労働者に必要以上に労働を強いた会社もあったに違いないと推測する。為替変動と正規労働者の給料を保全するために犠牲を強いる社会に未来の展望はない。マスメディアも矛盾に満ちた報道姿勢を続けている。日本には既に競争力がある技術の工場しか残っていないのにである。一方で、非正規労働者に利益還元しないで株主優先とする配当率を引き上げていたが、今回の金融危機で分かったことは幾ら高配当をしても株主は状況によっては株を売却して避難してしまうと言う事である。今回の金融危機で分かった様に欧米の社会経済システムの方が優れているなどと言うのは幻想である。心の豊かさを追求したアジア文明に戻って再度社会経済システムの構築を目指すべきである。
非常事態の財政出動にも財政健全化を主張する恵まれた者達
世論に多くの意見があるのは健全な民主主義の証かもしれないが、非常事態に遭遇しようとしている経済に対して財政出動に対する懸念を表明する者達は、不景気に関係ない官僚や政治家、そして金持ちだけだろう。中国の古典に確か似たような比喩があるのを思い出した。記憶では、洪水で道路の水溜りに残された魚が、通行人に川へ戻してくれる様に頼んだら、その通行人は今は急いでいるので、3日後の帰りに川に戻してあげると言った話である。イソップ童話の中国版と言った所である。昔からこの様な比喩があると言う事は人間は成長してないか、自分の問題しか理解できない人間の宿命と言える。先の話は蛇足となるが、3日後には魚は日干しになっていたと言う落ちが付いている。バブル経済崩壊後の対応が悪くて失わなくても良い国富が多く失われた。結果的に、景気回復に財政を小出しにしたため余計に赤字国債を増大させてしまった。諺に"二兎を追うもの一兎を得ず"があるのは承知の事実である。景気回復と財政健全化が両立しないことは自明である。それなのにそれを唱える輩は景気回復より財政健全化を優先していると言う事である。この意見を言えるのは生活に困らない官僚と2世・3世の政治家だけである。財政難なら、「政党助成金の廃止」、「公設秘書の廃止」、「公務員の給与を中小企業の社員の平均給料にダウン」を断行すべきである。少なくても、健全財政論を主張するなら自ら痛みを受けるべきである。来年は確実に30%の経済ダウンが予想され、未曾有の不景気が起きようとしている中で「政党助成金制度」に保護された政治家の党利党略の政争で貴重な時間を失っている。政治の浄化を得た代わりに、国民の声が聞こえなくなった政治家が多くなった。やはり中国の諺「水清ければ魚住まず」を思い出した。
個人の金融資産が投資に向かわない理由
政治家、官僚、更に企業経営者までが1500兆円の個人金融資産の活用と言う馬鹿の一つ覚えで日本再生を唱えている。小泉政権時の竹中平蔵が日本が良くならないのは改革を中断したからと性懲りもなく又出てきた。国民が何故投資に資金を投じないのか、これ等の者達は考えた事があるのだろうか。バブル経済崩壊後の政治家、官僚、企業経営者の行動によって国民は日本の指導者達を信用しなくなったからである。政策の失敗を企業や民衆に転化した姿勢や、バブル経済崩壊後の企業経営者の人情味のないリストラや意味のない成果主義の推進で日本の良い社会システムが破壊されたからである。極めつけは、小泉内閣のインチキ改革であろう。米国と財務省の筋書き通りに踊った小泉改革が一層人間不信の社会を構築したのである。日本道路公団の民営化に何故首都高速道路公団や阪神高速道路公団が合併して民営化を行わなかったのか不思議であろう。効率よい道路システムを考えるならば、日本道路公団と首都高速道路公団と阪神高速道路公団の一括民営化は不可欠であった。この道路公団民営化一つとっても小泉改革は全て本当に日本を良くするために行ったものではないことが良く分かる。しかし、この小泉が国民の首相にしたい人物として最も多くの支持率を得ている新聞報道があった。この支持率の調査自体信用出来るかどうか分からないが、百歩譲ったとして国民が真の改革を期待していることは間違いない。政治家も官僚も企業経営者の輩も国民の金融資産の活用を望むなら、日本国の大改造計画を立案し、将来的に国民が安心して暮らせる社会を作るために私欲を捨てろと言いたい。先頃、米国の自動車産業のビックスリーの経営者が、公的支援を仰ぐのに自家用ジェット機でワシントンに乗り込んで顰蹙を買ったと言うニュースを目にした。米英流の資本主義の無責任さが今の日本にも入り込んで、多くの企業経営者は自己保身ばかりである。この様な会社の株を買える訳がないことにも気づくべきである。
国民のために何も行っていない政治家ばかり
私の故郷に国会の政治活動に熱意を燃やした政治家がいた。その名前は"大森創造"と言い、旧社会党の参議院議員であった。年配の方なら記憶している方がいると思うが、昭和41年(1966年)に起きた共和製糖事件を綿密な調査で不正を国会で暴いた事件である。この他に、この年は色々な政治家が関係した不正事件が起き、国会の解散となった。何故今頃になってこの事件を取り上げたかと言うと、今の政治家は当時と比べて国から遥かに潤沢な政治資金を税金で得ているにも拘わらず、週刊誌記事から援用した材料位しか持たず、またインチキな材料に踊らされて政治生命を失っている情けない姿を見るからである。大森創造と言う人物は、地主の長男として生まれ、学歴は旧制中学から日本国が中国大陸に設立した難関の東亜同文書院大学(中国・上海)を卒業し、戦後は20代の若さで村長になり、30歳で県議会議員、40歳で国会議員(旧社会党参議院)となった故郷では立志伝中の人物であった。私の父も地方議員であり、思想的にも大森氏と近かったので支援者の1人であった。大森氏は不正を特捜するチームを設立して証拠となる材料を見つけて国会で爆弾発言を行ったのである。この特捜チームに参加したスタッフの中にはその後週刊誌の記者として活躍した者達もいた。この捜査は身銭を切って行ったと言う事を聞いた。また、事件を追及する過程で同じ旧社会党に所属する国会議員の加担も明らかになり、党から捜査の中止を求める圧力もあったと言う事であった。大森氏はこの様な圧力にも屈せず、事件を糾弾したのだが、これには後日談がある。大森氏は天才肌の人だったので、行動には常人離れした所があった。地元では誰もが理解している事で何等問題がなかったが、当時某週刊誌の記者が悪意で以って大森氏の行動の一部分を取り上げて狂人扱いにしたのであった。また、旧社会党からはこの狂人扱いの記事を利用して党の指導に従わなかった大森氏を次期の参議院選挙において公認しなかったのである。この様に、与野党とも国会議員は腐りきっていたのである。大森氏のその後ついてはブログに書き切れない程の話があるが、私の亡父が大森氏の政治家としての能力を惜しんで水戸市の市長選に担ぎ上げたことがあった。この時の水戸市の市長選は茨城国体を控え、水戸市長が水戸駅に天皇陛下を迎える役目と言うことで、自民党が負ける訳には行かないと言う背水の陣で臨んできたため僅かな票で届かなかった。実に惜しい結果であった。この様な故郷の政治家を思うにつけ、最近の政治家には失望するばかりである。作家のように本を出版する政治家も多いが、理想を語る前に政治生命を掛けて政治の場に臨めと言いたい。出来ないのを官僚や国民を言い訳に使う政治家は必要ないと思う。世界が金融危機で非常事態で臨んでいるのに、国民不在の党利党略に終始している国会議員を見ると、株価が下がる理由が分かる。株価下落は企業の問題でなく政治の問題である。麻生総理も棚からぼた餅的に総理になったのだから思い切って政治を行うのかと思ったら早くも官僚に丸め込まれてしまった。尤も、国税調査権を持つ財務官僚に麻生グループの件で恫喝されたのかも知れないが。それにしても胆力のない政治家と自己中の政治家ばかりであることに嫌気がさす。
デフレ経済の対応
世界経済は否応なくデフレ経済の渦に巻き込まれるであろう事を予測するのは難しい判断ではない。日本は戦後インフレ経済を実感してきたためにデフレの怖さを忘れ、バブル経済後の失政に繋がった。日本経済も漸く長い資産デフレから立ち直りかけた矢先、米国発サブプライム問題で一転して世界経済の信用収縮の波を被ることになり、再度資産デフレに戻すような金融機関の融資規制によって先行きが不透明になって来ている。この様な状況では朝令暮改など状況によって判断を変え、逸早く手を打つことが損失を少なくする方法である。バブル経済崩壊後に嫌と言うほど経験させられた事である。特に、今度のデフレは先進国を含めた多くの地域で起きるデフレ現象であるので更に強烈と思われる。来年1月20日の米国のオバマ大統領就任後に打ち出す経済政策が世界経済の行方を示す羅針盤になることは間違いない。当社の毎年の年賀状で干支的に20世紀末から21世紀初頭に掛けては大転換期にあると指摘してきた。今年1月の年賀状では大きな経済変動の可能性を予測した。正に、当社の予測が的中したのだが手放しでは喜べない。多くの日本企業がサブプライム問題から起きる大きな経済変動に対して楽観視過ぎていたからである。これは今の経営者の大半が、バブル経済崩壊後にチャンスを貰った人達だけであったからである。その様な甘い経営者は本格的な嵐の前に続々と退陣することになろうが、ひとつ言える事は非常事態の経済下では非常事態の遣り方が必要であることと、決断の早い会社が生き残ることである。
不安を煽る社会
日本のマスメディアは良くここまで人々に不安を起こすニュースや記事を報道するのかと驚く。不安や三面記事が多くの人々の関心を引き付け、新聞・雑誌などの売上げ増やTV視聴率のアップに繋がるので必要以上に煽り立てるのであろうが、現在のような世界的な金融危機の場合には社会にとって大きなマイナスしか生まない。然もこれ等の報道にはバイアスが掛かっており、報道を鵜呑みにすると危険性が高い。翻って、この様な報道姿勢を取り続けると、最終的には広告の減少と言う形で自分の身に振り返って来ると言うのにである。私は真実を隠せと言っているのではなく、報道にはバランス感覚が必要と言っているのである。この様な不安な時代には希望を見出せる話題も積極的に報道する必要があるのではないかと言いたいのである。昨今、問題となっている食品関係の汚染や賞味期限の改竄などは、食料不足で餓死者が出る時代では問題にならない筈である。本来はこの様な事が起きた背景に対して鋭いメスを入れるのが、社会の木鐸を自認するマスメディアの姿勢ではないかと思う。今の社会は情報化社会と言いながら個人個人は仕事や興味のある事柄以外には意外と知識が少ないのが現実である。このため、自分が知る範囲の情報以外は、新聞・雑誌、TVニュースを無批判に受け入れている。日本のマスメディアの情報の出処を思うと報道を鵜呑みにするのは危険なことと理解するべきである。良く新年に経済予測を各界の有識者が立てるが当った試がない。今回の金融危機に対してマスメディアの報道は悲観的た立場を貫いているが、先の事など分かりもしないのに無責任な報道などするなと言いたい。先日の元厚生事務次官夫妻に対するテロ行為もマスメディアが必要以上に年金問題を報道したから起きたことである。建築業界に起きた構造偽造事件も然りである。この事が起きた原因は建築士の問題でないのに、結局は官の情報操作によって建築士の問題にされ、一件落着としてしまったメスメディアの責任は重い。グローバルな社会と言いながら報道内容だけは世界標準がないのは不思議である。
建築基準法の規制緩和後の建物の危険性
2000年以降の建築基準法の改正に伴う規制緩和後から構造偽造事件後の再改正迄の建物については、悪意でなくともプロセスにおいて間違いが生じやすいシステムで建築されているので、この期間の建物を購入する場合には十分に図面等をチェックする必要がある。小泉政権の置き土産の建築基準法の改正は、建築確認手続きの短縮化が目玉であった。この目玉が、建築に至る過程で間違いを生じさせる原因となっているのに気づいている者は少ない。改正前の確認申請手続きについては、建築に必要な詳細図を添付して審査を受けたのだが、確認手続きが民間委託されると同時に、確認申請図面も従来の様に必要な全ての詳細図を添付しないでも良い様になった。このため、確認通知後に、詳細図を作成する事に変わったのだが、問題はこの時に工事費の削減などの作業を入れる様な段取りとなり、変更の変更などを繰り返し、現場が混乱して最終的な図面でないもので建築してしまった建物が多い事が分かってきた。この間違いは建築偽造事件の様な悪意から生じたものではないかもしれないが、その業界でも経験者が少なくなっている現在では誤りに気が付かないケースが増えていると思われ、日本の建築業界も信頼性の低下を著しく生じさせている。何の準備も行わないで場当たり的に施行した建築基準法の改正のマイナスが生じてきている。建築基準法は過去の出来事を踏まえて改正してきたのだから、その点を考慮して規制緩和をすれば良いが、その視点を欠くと安全性に関して大きな問題が起きる事を官民とも理解すべきである。日本の建築基準法は厳しいのは有名だが、それは施行誤差や熟練作業員の不足などを考慮して安全性を見ているからである。昨今の様に熟練作業員が少なくなっている時こそ気をつける必要があるのに、それに逆行している規制緩和は国民不在の政治である。この規制緩和を進めた小泉を始めとして竹中平蔵や国会議員の責任を追及すべきである。
田母上前航空幕僚長対するマスメディアと政治家のお粗末な反応
田母上前航空幕僚長に対して買い被っているかもしれないが、彼が投じた一石に対するマスメディアと政治家の反応が低級なのに驚くばかりである。今の何でもお金の世の中にあって、2年の任期を残し、且つ天下りも出来ない様な生涯賃金を大幅に損なう論文を書いた理由は、単なる"日本は侵略国家でなかった"など過去だけに目を向けたものであったのか良く考えるべきではないかと思う。自衛隊には海上自衛隊、航空自衛隊、陸上自衛隊の3部隊があるが、一番危険な任務に携わっているのは航空自衛隊と思われる。昨今、政治の世界では自衛隊の海外派遣の拡大が議論されているが、自衛隊員に対する最も重要な点が等閑にされている。何が重要な点かといえば、海外派遣の当初の頃の話であるが、海外に派遣された自衛隊員の殉死に対して何の特別な補償制度もなかったことである。私の友人が防衛大学を出て自衛官に就任していたので聞けた話だが、警察官は職務中に殉死すると残された家族が困らない様な何千万かの遺族金が支払われるが、海外派遣の自衛隊員が殉死しても7百~8百万しか出ないので、隊員は誰も行きたくないと言っているとのことであった。今は改善されていると思うが、全てが後手に回って処理されている。武器の使用でも自衛権の行使ということで限られた武器の携行しか許さないなど馬鹿げた話である。隊員の安全と言う視点から考えたら法律を改正して行かせるべきだが、政治家は保身のために誰も動こうとしない。全てが棚上げされて海外派遣の自衛隊員はますます危険な地域に送られようとしている。航空自衛隊員はイラクの輸送に当っていたが、この任務は日本で報道されている以上に危険な任務であったと思われる。田母神前航空幕僚長が言いたいのは、軍隊であるにも拘わらず自衛隊と言う鬼っ子扱いされているのは歴史観から生じてきていると考え、今後の国際貢献に自衛隊が積極的に活用されるなら、他国と同様に国軍としての名誉と尊敬を得られる存在にして欲しいと言うことではないかと思われる。国のために危険な地域に送られるのに現場を何もしらない事務官僚のシビリアンコントロールが有効に機能するかも検証すべきである。田母神氏の自己犠牲による問題提起を政争の具にすべきでないし、単なるシビリアンコントロール問題にすり替えて誤魔化すべきではないと思うのは私一人であろうか。ちなみに、田母神氏の論文を読んだが、論拠の資料を例示しながら説を展開しており、一読に値するものであった。私は右翼主義者でないし、亡父が革新政治家として地方政治に貢献した姿に共感しているので保守主義でもない。国の自衛隊員海外派遣の無責任さが、戦前に中国大陸に軍隊を送った姿とオーバーラップするからこの様な主張をするのである。
非常事態に必要なのは経験知
1929年の大恐慌時の日本は、財閥の新興財閥潰しと政争、更に理論先行の官僚によって多くの企業が破綻した。5.15事件を起こした軍人の三上卓が書いた"青年日本の唄「別名:昭和維新の唄」"にもある様に、当時の大財閥は国家を思う心もなく、国会議員は国民のことなど眼中になく権力闘争に明け暮れていた。官僚は世界情勢を考えずに金解禁と金融機関の整理統合に邁進していた。歴史を見ると、全く昨今と大して変わらないのに驚く。また、この時に多くの銀行を整理統合した結果、多くの中小企業が破綻し、且つその後の企業の設立にブレーキが掛かり、日本経済は活性化が失われて行ったと言われている。この事を考えると、数年前に日本では大手銀行が過剰であるので整理統合が必要として3都市銀行+1準都市銀行に編成してしまった事が、今回の世界金融危機にマイナスに作用しなければ良いと思われる。本当に、日本では都市銀行が多すぎたのか今となっては疑問に感じざるを得ない。理論先行型の官僚が金解禁と同様に間違った舵取りを行ったかどうかは今後証明されるであろう。少なくても、現状の大手銀行の貸し渋りを見る限りは間違った選択をしたと思われる。大恐慌に関しては、人生のこれ以上ないと言う辛酸を嘗め尽くした「高橋是清」が大蔵大臣となって危機を脱した。彼の考えは理論でなく、経験知から導き出した政策であった。非常時代には小賢しい知恵など役には立たない。本当に役に立つのは禅で言う「行動」と「体験」である。今回の難局に苦労していない2世、3世の議員に委ねなくてはならない日本は先が危ぶまれる。