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マスコミ各社は政府の今回の金融危機に対する企業への公的金融支援を単なる一時的な延命策として効果がないことを報道している。警鐘の理由としては、この様な公的支援は企業に必要な競争力を阻害し、グローバル社会に通用する企業の成長には役立たないと言うことである。しかし、私から見れば優遇税制の恩恵を受け、記者クラブの談合制度で競争社会から程遠いマスコミなど笑止千万である。日本のマスコミは権益の弊害を指摘するが、同様な権益に守られて高い広告掲載料を取っているのは誰だと言いたい。消費者は高い広告料が加算された商品を購入しているのである。企業努力を言うなら先ずマスコミが高い給料を維持するために守っている記者クラブ制度を放棄しろと言いたい。実務経験のない耳学問の連中が何も分からず書いている記事など価値がない。企業合併による競争力の強化を言うならば新聞社も合併して広告掲載料を下げる努力をするのが説得力のある報道である。経済や社会が大変なときに芸能人が泥酔した裸の報道に価値観を置いているマスコミは国民総白痴化の功労者と言える。日本のマスコミは情けないの一言である。

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長谷工が、「下駄箱」、「電子レンジ」、「棚」などの設置を省いて販売価格を10-15%下げたマンションの売れ行きが好調との記事を見た。記事にはマンション業界に新風を吹き込んだと書かれていたが、良く考えると 仕様変更だから購入者は別に安い買い物であったわけではない。確かに、最初から設置されていると自由度が低いので、自由度を高める効果はあると思うが、この販売は錯覚商法の類であるので、マンション業界に新風と言う程でもない。この販売方式を極端化すれば中国のマンション販売と同様なスケルトン仕様に到る事になる。日本の不動産は外国と比較すると土地が高いので、マンション販売業者は建築工事費で利益を出す傾向が強い。このため、内装部分を減らす事は減益となりかねないために、従来は内装のオプションが可能位に止めていた。しかし、購入者にとってはマンションの内装仕上げはそれでも個人で発注するよりは間違いなく安いことを忘れると後で多額の出費を招く事になる。また、後から仕上げようとしても規格品で納まらない場合もあり、思っているより簡単ではない。我々業界の話だが、工事見積りを取って価格交渉に入ると、仕様を変更して価格を下げるケースが多いが、実は仕様変更しての価格の引き下げは発注主が得した訳ではない。今回のマンション販売も同様で、付帯設備の一部を削除しているのであるから別に購入者は得した訳ではないので、そのまま使用するのであれば問題ないが、購入後に自分で付帯設備を設置する考えならば購入前に業者から見積りを取るか、設計事務所にコンサルタント料を支払っても意見を聞いたほうが良いと思われる。本来ならば、購入者の希望を入れて内装仕上げを行なう販売方法がベターであり、勝手に付帯設備を削除して販売価格が安いと思わせるのは錯覚商法以外のなにものでもない。

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東京都の千代田区ではビル内に分煙エリアを設置する場合に補助金を出すと言う記事が掲載されていた。手前味噌になるが、当社が管理している虎ノ門ビルでは、既に10年以上前に1階エントランスの空きスペースに分煙エリアに排気ファンとダクトを設置してテナントの従業員に提供している。千代田区は他の地方自治体に先駆けて路上の喫煙禁止を条例で定めるなど環境や健康などに対して前向きな役所である。千代田区の政策を考えると、以前書いた神奈川県の飲食店等に対する禁煙条例には能がないのに驚かされる。企業も役所も人材が必要であることは分かるが、千代田区は人材が揃っているのであろう。当社の分煙エリアの設置も全部の管理ビルで実施できているわけではない。問題は、オーナーの理解と分煙エリアの確保が可能かどうかが決め手となる。最近のファンドの所有物件や大手企業の貸ビルなどを見ると、見た目は良いが利用者を考えての配慮は少ないと思われる。確かに、新しい大規模ビルは最新の省エネ設備などを導入しているが、逆に無駄な一面も相当あるのが分かる。貸しビル業はサービス業である事を理解しているビルのオーナーは少ない。高い賃料を取りたいならばサービス体制や省エネ設備を強化する必要があるのに、単に賃貸市場の相場しか見ていない。当社の管理ビルは共同開発した区分所有建物が多いのだが、最近は区分所有建物にもファンドのオーナーが増えてきて収益を上げるためにサービスの基本である管理費の削減を要求して来るので質の良いサービスを維持するのが難しくなってきている。ファンドのオーナーの所有期間は長くて5年であるので、無責任な遣り方が多い。今回の百年に一度の大不況では、貸ビル業がサービス業と認識していないオーナーのビルは空き室が目立つようになると予測できる。

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全国的には分からないが、少なくても東京都内のタクシー運転手の運転技術は危ないほど低下した。特に、タクシーの運転手は地方出身者が増えており、幹線道路さえ覚えていない方が多いので、お客が道を知らないと遠回りの料金が請求される事になる。規制緩和の前には、タクシー運転手の資格は普通乗用車の2種免許が必要であった。私も自動車免許を取得する時に自動車学校で2種免許の試験について聞いた事があるが、バックでクランクを走行する技術など初心者の私にとっては驚くべき運転技術であった。しかし、現在では5年くらい事故や違反がなければタクシードライバーにばれると言う事を聞いた。悪く言えば、ペーパードライバーでもなれるということである。また、東京の様な交通が混雑しない田舎の運転経験でも都内のタクシードライバーになれるのである。尤も、最近の車にはカーナビが付いているので道を知らなくても問題ないだろうと反論する方がいるかもしれないが、その様な者は自分でカーナビを使って運転した事がない人と思われる。カーナビは便利だが、所詮有通の利かない機械である。規制前のタクシードライバーは経験で裏道や渋滞の場所、距離が遠いが渋滞を避けられる方法など知っていたので、急いでいる時には何度も助かったものである。しかし、今のタクシードライバーにその様なことは期待できない。タクシードライバーはプロの職場でなくなったからである。タクシー業界の規制緩和は、競争原理主義を導入して料金をリーズナブルにすることと、失業対策を狙ったものと推測される。ところが、実際にはタクシードライバーの生活が厳しくなり、その上タクシーの事故率が高くなっただけである。この理由は、表面的な規制緩和だけで根本的な問題を避けたからである。他と同様、タクシー運転手も小泉政権時代の薄っぺらな似非構造改革の犠牲と言える。経営者だけが潤ってタクシードライバーだけが割りを喰う改革であったからである。この結果、今日、安全性の面で問題が浮上しているが、それ以上に問題なのは個人タクシーの運手手に年齢制限がなく、自主廃業しない限りは営業できる事である。本来、規制緩和とは、利用者に便利な様にすることであると考えられるが、その事(タクシー営業の自由度)に関しては何等規制緩和していなく、利用者は不便を蒙っているのである。小泉政権の似非改革は国民の為におこなったのではなく「百害あって一利なし」である。

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市町村の合併を見ると、正に行政組織のスリム化と議員数の大幅削減が実現している。ニュース記者や評論家が国会議員数の定数の適正さに言及する時に国民一人当りの議員数で日本は決して議員数は多くないと指摘しているが、この判断は必要条件だけで十分条件に言及していない。然るに、十分条件とは議員一人当りに係る報酬・経費総額はどうかということである。以前にも指摘した事だが、国会議員や地方議員の数は人口に対して決められている。戦前には井戸塀政治家と言う言葉のとおり、議員職はボランティアの性格が大きかった。戦後も高度成長時代前は議員の報酬は国会議員は知らないが、地方議員は日当制であったので、議員数が多くても財政負担は少なかったのである。それが何時の間にか月給制となり、無用な視察旅行が増え、財政に多くの負担を掛けるような制度に改悪してしまったのである。また、公務員においても然りである。何時の間にか大企業の優良企業並みの水準になり、公務員としての行政サービスの意義を考えない安定だけを求める職員が増え、財政難を引き起こしている。公務員の給料は日本の全ての労働者の報酬の平均以下であるのが望ましい。給料が安くても行政の仕事に関わりたいと言う有意な人を職員として採用するべきと考えある。良く給料が安いと悪い事をすると指摘する人がいるが、全くナンセンスな意見である。また、政治家に関してもお金が掛かると言うが、これに関しても遣り方次第と思える。国会議員に関して言えば、「報酬」の他に、「公的助成金」、「秘書報酬」、「政策費」など多額な費用を受領しているのである。個人献金も受けられるので現在でも多すぎると思われ、お金が掛かる政治活動しなければ当選しない議員など必要でないのである。大分前に政治改革を行なったが、この時には田中角栄と言う金権政治家の事だけを考慮したため、クリーンだけが強調されて政治家の活動に多額の資金を与え、財政負担がましただけであった。強欲な政治家共はそれでも足りない嘯いて贅沢な暮らしをしている。市町村合併の内、県議会議員の定数だけが削減されない問題は残ったので、道州制の導入では国会議員の削減を含めて議論する必要がある。なお、行政組織も然りである。農水省の様に農業人口が劇的に減少し、自給率も40%を割ったのに役人の数や出先機関の削減が行なわれていない現実がある。行政組織もフラット化を進め、忙しい部署と暇な部署の人的交流が出来るような人材と組織つくりを行なう必要がある。この様な変更は、道州制導入の様な一大イベントで行なわなければ出来ないと考えられ、道州制の導入は絶好の機会である。

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現代の社会はソフトとハードともコスト削減などの成果を重視する余り、「無用の用」で支えられてきた非常時の備えに対して次第に脆弱になってきていると感じる。良く製造業界に関しては、在庫を抱えない事が短期利益を生み出す最上の方法と考えられ、トヨタの製造方式に習う企業も多い。しかし、製造現場は合理的に行なっても販売現場ではお客は待ってくれないので販売在庫を持つ事で機能している。一方、流通業界などでは倉庫に一定規模の在庫を持つのが普通だが、これに関してもIT技術の在庫管理や問屋を通さないシステムの拡大などで次第に倉庫に物資が保管される量が減少して来ている。一企業から見れば、在庫を多く抱えるのは無駄なので、経営的に利益を上げるのに在庫を少なくする考えは基本的な考え方なので否定はしない。問題は、現代の社会経済システムでは非常時に対する考え方が、無駄と言う一言で考慮されていない怖さである。勿論、行政が企業の経済合理的活動で減少する非常時に機能する目に見えない備えの部分を補完するなら何等問題がない。しかし、現実は小さな政府と言う事で民間のいわゆる無駄な部分を補填する政策は出てこない。何が主張したいのかと言うと、分かりやすく言えば最近の建築物は水道の圧力が強くなったこともあり、多くが直結方式で貯水槽を持たない中小ビルが多くなってきた。その上、トイレなどもスペースや衛生面などからタンクを持たない方式に変わってきている。此処まで書くとお分かりの様に、突然水道水が供給されなくなったら、トイレは直ぐに使えなくなるし、飲料水も建物内の配管内の分だけとなる。現代社会における経済合理性から見た無駄は、実は非常時には一時的ではあるが有用な働きをすることになるのである。食糧にしても同様である。流通における在庫は、非常時の備蓄分として計算できるのである。もちろん、経営者や経済コンサルタントは政治家でないのでこの様な事を考える必要はないが、当社の様に建築物の計画や建設に携わっている会社としては無駄な部分の必要なのが痛いほど分かるからである。社会は矛盾があって当たり前なのだが、頭の良い人達はその様には考えない。特に、IT社会は容易く情報が入るからか、それとも情報入手の課程で脳に障害がおきるのかは知らないが、物事を探求したり、多面的に考えることが出来なくなってきたと思われる。金融危機で分かったことは、現代の社会システムの全てが非常時に対して無力であり、逆に助長してしまったことである。現代IT社会は知識はあっても知恵がない人が多くなった。

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偶然、ケーブルTVで鹿児島県立鹿児島工業高等学校の100周年記念の行事を放映していたのを見た。行事には工業立国の日本の尖兵として活躍した方々も多く、鹿工(ロクコウ)卒業生として誇りを持った顔が素晴らしかった。校舎の真ん中に立つ古い大きな煙突が学校の象徴的な存在らしい。この番組を見ながら、日本の高校は何時頃から普通高校重視となり、実業高校の入学を敬遠する様になったのかと考えた。少なくても、私の年代は優秀な中学生が実業学校に入学し、卒業後は銀行や造船会社、自動車会社などに入社している。推測するに、大学進学率のアップとともに入試に不利な実業学校が次第に敬遠されるようになったのは理解できる。大学入学に関し入試一辺倒の文部科学省の行政の考え方が実業学校の魅力を損ねたと思われる。本来ならば、実業学校の生徒の大学入試に関しては、推薦入学制度を拡充して大学進学の不利をカバーすべきであったのである。この一例も工業化のために安い労働力を得るために農家から働き手を奪った政策と同じく、若年労働者を産業界に送り出すために実業学校の生徒のカリキュラムを大学進学用に設定しなかったのであろう。過去を遡って非難しても仕方がないので止めるが、良く考えると地域振興には実業学校の活用が必要と思えてきた。勿論、現在の実業学校の専攻課程を今の様に全国的に同じ様なものでなく、地元が必要とする産業や仕事、更には後継者が少ない伝統的な職業にすることである。この専攻課程の改革には、ドイツの様なマイスター制度を取り入れれば有効と思われる。地域再生には先ず働き手の確保が必要で、これには地域ごとに必要な知識を与える実業学校の活用が重要であるのではないかと思う。そう言えば、野球界に三原監督という名将がいたが、監督自身は慶応大学出身にも拘わらず、ご子息は板前になったとのことであった。勝負の世界に身を置いた監督のご子息が実業の世界に進んだのは「言い訳が聞かない世界」の共通性があると思った。

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規制緩和が新たな需要を創出すると言われて久しい。確かに、資金的な裏づけがあれば開発が促進され、有効需要は創出されるであろう。しかし、規制緩和が引き起こすマイナス部分の乱開発に伴うインフレ整備の遅れや競争激化による不正な建築などの面に目を向けた議論は少ない。私が指摘したいのは行政の既得権利を守る事ではないので誤解しないで欲しい。森ビルの社長が都内の高層化の妨げ要因として羽田空港の存在を上げているが、一方で温暖化の対策として地上を緑化するには地下を利用すること提言している。どちらも土地の有効活用を唱えた意見ではあるが、「利用者の基準を何処においている」のか、「地震国の日本で現在の耐震レベルがどの程度有効と考えている」のか、「都内の下水道などのインフラ整備の対応を把握している」のか、大規模開発発言に関して色々と疑問が湧く。もちろん、私も地価の上昇に抑制効果がある建物の高層化に反対ではないが、昨今の大規模開発は地価の安定供給には貢献していないどころか、逆に採算性が見えない土地投機を招いているだけである。デベロッパーとして最も大事なのは、急激な資産価値の上昇ではなく、バランスのとれた開発による建物の供給であり、その供給に基づく経済成長に見合った地価と賃料の上昇を促す事である。もし、建物安全性の強化や温暖化対策にコストが掛かるのであれば一企業の問題ではないので、そのコストに見合う分を行政側に容積と言うボーナスを要求することである。大分前から指摘しているが、森ビルの六本木開発や三井不動産のミッドタウン開発など大手デベロッパーの市街地の開発手法は、クローズド開発である。オープン開発でなけれな地域が潤う事は少ない。日本の行政が作成した都市開発計画は未来志向でなく、現状優先の考え方であるので、今日の様な都内の乱開発は仕方ない面があるが、再度全国の市街地に関しては未来志向で都市計画を立案して適正な規制の下で開発を行なわせる事が重要と思われる。元来、不動産開発は規制の網の中で創意工夫を行なって事業化してきたのである。土地の有効活用を規制緩和だけに依存して行なった結果が金太郎飴的な開発であり、荒唐無稽な需要創出を生み出した。不動産業界には再販で儲ける考え方もあるが、この様な考え方はデフレ経済から抜け出せない危険なものと思われる。市街地開発には金太郎飴的な開発を排除するために適正な規制が必要なのである。

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政府が景気回復刺激策のひとつとして自動車の新車購入に必要な取得税などの軽減に対する予算を計上した。これ以外にデジタルTVなどの購入に対しても購入支援金も出るらしい。経済評論家や野党の国会議員などは購入時期に不公平な政策だと非難しているが、どの様な政策でも平等であるわけがないので、先に購入した人は運がなかったと思うほかないが、問題は自動車税の取得税の課税方法に対する問題点を指摘する人はいない。今回、景気回復に対して自動車税の軽減が話題になったのでこの点に関してグローバル経済に必要なのは何かを問いたい。私が日本と米国の自動車に係る取得税の違いを知ったのは11年前のことであった。不動産ファンドのアドバイザリーで一緒に仕事をする事になった相手が長く米国に滞在していた人で、彼が久し振りに帰国して知人から中古自動車を安く買った話を聞いてからである。彼は、「日本の取得税は自動車の排気量で課税するので中古自動車の購入金額より高い」と怒っていた。私は初めて日米の自動車取得税の違いをその時知り、米国と言う国の課税方式は合理的に出来ていると思った。その後、私の専門である不動産の取得税・固定資産税を調べたら、やはり日本と異なり、基本的に売買価格に対する課税方式であった。勿論、税率には色々な要素が加味されているので金額的には米国も安くないが、売買価格に対する課税方式は現実的であると評価した。日本では不動産取得に際してはデスカウントキャッシュフローの考え方が主流になったが、良く考えるとこの方式は不動産の課税に関して売買価格での課税コストで組み立てられており、時価会計には売買価格での課税方式が不可欠ではないかと思った。米国の方式を単純に導入すると、格言にある様に「仏を作って魂入れず」になる恐れがある。構造改革とは本来課税方式も含めなければ効果が発揮できないと考えるが、どの様な理由があるのか小泉・竹中の似非改革にも触れられてはいない。ちなみに、彼の中古自動車の購入金額は6万円であったが、取得税は10数万とのことであった。彼の怒りは当然と思われる。日本の構造改革は"木を見て森を見ず"の類であり、真の構造改革など行なってはいない。そう言えば、最近竹中平蔵がやたらTV出演して見苦しい自己弁護を行なっている。今日の不況が小泉・竹中以降の政権が構造改革を遣らなくなった事が原因と指摘しているが、そう言えば海の向こうでも前FRB長官のグリンスパンが自己弁護に奔走している。人は正しい事を行った自負があれば自分に対する評価は歴史に委ねるものである。両人とも、何か疚しいことがあるので必死になって自己弁護を行なっているのであろう。この様な人物が重要な地位を得ていた時代とは何か考えさせられる。兎に角、景気回復は企業に委ねるしかないので、企業の足を引っ張る様な法律・制度を改善する事が緊急の課題であると考える。

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昨日、投資家を訪問して雑談していた時である。その投資家の本業は建築機材の製造販売リースなのだが、最近米国企業と大きな取引を行なった話が出た時のことである。この米国企業とは初めての取引で金額も大きかったので最初は心配したとのことであった。受注に到った経緯は、米国で展開している日本の大手ゼネコンに建築機材を提供していたのに注目され、その米国企業はその製品が他国の物より性能が良いので発注して来た様だ。本題は此処からである。その米国企業は投資家の企業を訪問してきた訳でもなく、工場を見学した訳でもないのに前渡し金として発注金額の20%を振り込んできたとのことであった。投資家の初めての取引の不安を一掃するかの様な行動はそれに止まらず、中間金、最終金の支払方法も見事であった様だ。正に、グローバルに展開する米国企業の真骨頂を見た思いがしたと同時に、日本人の疑い深さを改めて思い起こした。日本社会では信頼感が欠如する故に発注先の信頼性を企業規模に置いている。我々の不動産業界は特にそうだ。我々からすれば大手企業はコスト的に同じ依頼を行なっても高く付くのは自明の通りである。然し、日本では安心料が優先して知名度が低い企業は同じ事を提案しても相手にされない。良く考えると、この違いは「狩猟民族」と「農耕民族」の違いであり、米国人は日本人と異なり、外見でなく中味を評価する能力に長けていることに帰結する。良い製品や良い仕事を行っている会社に対する信頼である。米国は金融危機で苦しんでいるが、投資家から今回の商談を聞き、改めて米国企業の凄さが分かり、米国経済が遠くない内に復活する予感を感じた。もちろん、これは個人レベルの話であり、国家が信頼できるかは別の次元の問題であるが。