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安倍政府は消費税増税について来年四月の実施時期を断行すべきか繰り延べすべきかの判断に迫られている。有識者会議の意見などを参考に最終的には安倍首相が決断することになるが、消費税増税で思い出すのは今から16年前の自民党の故橋本龍太郎首相の増税決断である。この時にも旧社会党の村山首相の消費税増税決議を受けての橋本首相の実施決断であった。今回は民主党の野田首相の消費税増税決議を受けて安倍首相の実施決断と歴史は繰り返すかと思われるほど状況は似ている。勿論、消費税増税の決断における経済情勢も判断材料的にもデジャビ感がある。

今回の決断で懸念されるのは前回同様に国内の指標で決める判断と言える。前回は実施を決めた1997年4月の後にタイから始まった同年7月のアジア通貨危機がその後の日本経済の運命を決めてしまった。橋本元首相は死ぬまで財務官僚に騙されたと言っていたらしいが、財務官僚も海外から起きた問題までは予想しえなかったものと推測できる。

今回の国内経済は橋本元首相の時より良くないのは明らかだが、それ以上に怖いのは中国経済のバブル崩壊や欧州経済の動向である。又、韓国経済の動向も気になる点である。消費税の増税後に世界経済を脅かす危機が生じたら前回の状況の比ではない。最良の方法は1%ずつ段階的に様子を見ながら引き上げる方法だが、この意見に関しては導入コストがかかると言う事で財務官僚は否定的な見方を取っている。しかし、前回と違ってIT社会になりプログラム社会では消費税アップは既に織り込み済みと思われるので、導入コスト云々には疑問がある。

何れにしても、前回の橋本前首相は実施後にアジア通貨危機が起こったので不運としか言いようがないが、今回の安倍首相の運は如何なるものであろうか。天は味方ををしてくれるのであろうか。如何なる意見を聞こうが増税実施の判断にはならない。国民が願うのは安倍首相に天が運を授けているかである。企業経営者が良く指摘することだが、経営者は能力だけでは選べないと言う点である。確か記憶では、経団連会長になり名声を博した土光敏夫が石川島播磨重工業(IHI)か東芝の社長を選ぶときの話だが、能力的には同等の二人であるが、最終的に運の強い者を選んだことである。経営者として能力を搾り取るほど考えた後の決断には運が必要だという事であろう。大手企業ならば社員の家族を含めて何十万人もの生活者がいる。その人たちの運命を社長の決断で決まってしまう不条理な世界がある。況してや、一国の宰相ともなれば更に決断には重みが加わる。消費税増税は必要だが、問題は橋本元首相の嘆きではなく、宰相の決断には運が必要だという事である。この様に述べると、二度の宰相に就く人物が運がないとは言えないと反論されるかもしれないが、天が国民を奈落の底に引きずる宰相を選んだかもしれないことも歴史を見ると否定できない。二度の国会選挙で自民党を勝たした国民はまな板の鯉である。橋本元首相の悪夢が再来しない様に祈るだけだ。

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皮肉だが、グローバル経済と情報社会に相応しい理想社会は、明治維新ではなく江戸時代の幕藩体制の分権社会と再生社会だと考える。安倍ノミクスは相変わらず金融資本主義の経済成長を進めているが、本末転倒と考えざるを得ない。19世のクラフト(手工業)の時代、20世紀のマス・プロダクション(大量生産)の時代であったが、21世紀はマス・カスタマイゼーションの時代と指摘されている。マス・カスタマイゼーションを実現するには、情報伝達の形を考えれば中央主権や道州制度の導入でないことが理解できる。江戸時代には小規模な藩が貨幣まで製造して他藩との貿易や藩内の殖産を行っていたのである。その社会は消費社会ではなく正に再生産社会であった。小規模の藩が独立して立地にあった経済運営を行ったのだが、情報化社会とは正に小さな行政体が機動的に動くことが必要と思われる。江戸時代の幕府は外交と通貨の基準と防衛を司っていたのである。灌漑事業など土木事業などには豊かな藩を起用して行わせたのである。明治維新後の中央集権社会は産業革命後の時代には必要であったが、資本の移動が自由になり、情報の発達により世界が狭くなった今は、中央集権国家ではなく、分権国家の集合体が理想的と思われる。その点から、日本で言えば江戸時代こそ見習うべきシステムが存在したのである。特に、江戸時代は人と動物と植物が共棲する社会であった。近代資本主義の様に略奪社会でなかったのである。良く人間は爪と歯を持っているので競争社会こそ自然だと唱える理論が横行しているが、必要以上に競争して急激に社会を発展させ、地球のバランスを壊したらどうなるかは触れていない。勿論、急激に発展した科学技術が齎した現代社会を否定することは出来ないので、問題はグローバル経済と情報社会がもたらした効率が生み出した縮小社会を如何に軟着陸させることが出来るかであろう。世界がフラット化する中でどの様に社会が繋がって行くのかを考えて新たな国家像を構築する必要があると思われる。然しながら、最近の政治を見ると、明治維新や戦前の軍国主義的な先祖帰りを唱える人達が多くなってきている。未来が見えない人達に政治を任すわけにはゆかない。冷静に周りを見渡せば、スモールワールドが広がっているのが分かるのである。冒頭に書いた江戸時代のことは、極論を唱えて多くの人に改めて未来の国家像を考えて貰う意図であった。中央集権の強化や道州制の導入は情報化社会には過去の遺物の考え方である。大規模原子力発電もその意味から言えば恐竜であろう。マス・カスタマイゼーションの社会では大規模な装置は不必要なのである。行政も然りである。

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今回の参議院選挙の争点にもなっている憲法改正議論で一つ忘れている点があることだ。馬鹿な国会議員などには分からないと思われるが、日本のサラ金財政は近隣との戦争などを前提にしていないで構築されたものだという事だ。1000兆円もの国債発行残高がいみじくもそのことを物語っている。平和憲法が日本豊かにし、日本国民が戦争にも行かずに済んだのは平和憲法があったからだ。確かに、戦後に米国の関与で日本国憲法は作られたのだが、逆に米国が他国に対して行った戦争の手伝いを防いできた事実も忘れてはならない。昨今は米国の要請で憲法の解釈を拡大して無理矢理に自衛隊の海外派遣しているが、憲法を改正すれば米国の圧力で代理戦争も行う可能性が出る来るのである。日本財政が破たん状態でも国民が資産を持っていると思われているので、戦争国債を発行させて戦争を行わせる意図は明瞭だ。然し、実際問題として、サラ金財政の仕組みを変えないで近隣とも戦争など財政的には出来ない事は確かだ。若し、近隣との紛争で多額の戦費が生じれば、現行の保健医療制度など吹き飛んでしまう。憲法改正を単なる日本人としての自覚だけを持たせるためだけなら意味がないどころか、社会的には大きなマイナスになる。憲法改正で高齢少子化がなくなるわけでもなく、非正規雇用者が減少する訳でもない。逆に、近隣との紛争のリスクや海外派兵で財政支出が増大し、日本国の財政が悪化する要因を作ることになる。

憲法改正に目を向けさせて経済回復の遅れを誤魔化そうとする意図も見栄見栄だ。国民は騙されてはいけない。北朝鮮のミサイルは米軍が日本に駐留しておるから飛んでくるのだ。北朝鮮のミサイルが怖いなら米軍の撤退が先だ。又、日本人の生存権は憲法を超えたものであることを認識する必要がある。憲法があるから生存権も否定するような官僚の法非の輩など無視すれば良い。他国が日本に戦争を仕掛ける準備をしているのが分かれば、超法規的な扱いで事前に攻撃は出来るのである。憲法を守って日本人が滅びるなどの考えなどないのである。憲法の改正より、経済社会の再生とサラ金財政の脱却が先である。

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朴韓国大統領の中国接近に対して日本のマスメディアは皮相的な見方しかしていない。尤も、今の記者や編集員などの若さでは無理もないかもしれないが、大多数の日本国民が読む新聞や雑誌に歴史的な背景を加味しない記事を読まされることは百害あって一利なせであろう。

40年前の激動の韓国を知る者にとっては今回の韓中接近に関して、朴大統領は過去を忘れていなかったと思わざるを得ない。特に、今の米国の政権は当時と同じ民主党政権だ。その民主党政権は北朝鮮に元大統領のカーターを何度も特使扱いで派遣している。これを見るにつけ、朴槿恵の思いは如何なるもであったかは想像できる。

朴大統領の誕生で私が興味があったのは、父親である故朴正煕大統領の影響と過去の忌まわしい出来事に対する記憶である。勿論、韓国民の幸せを第一義とする朴槿恵さんが個人的な問題に影響されるとは思わないが、中国の経済的な台頭による地政学的な観点と過去の記憶とが絡み合って中国に接近することは自然なことと考えられる。馬鹿な日本のマスメディアは朴大統領に対し今回の中国接近を"ネギを背負った鴨"と言う侮蔑的な表現で書いているが、全く的を外した見方と思われる。朴大統領が就任後一番先の訪問国に米国を選んだのだが、本音は中国を一番先に訪問したかったと推察できる。

朴大統領が日本を軽視していることはないと思われるが、朴槿恵さんの立場からすれば日本にすり寄ることが出来ないのは至極当然であり、それを理解しない日本外交は失敗すると思われる。日本としては、明治維新後にアジアの覇者となった過去を忘れ、中国の明の時代まで歴史を遡って考える必要がある。勿論、その時代には米国の存在はなかったのでその点を加味して考えることは重要だが、今後の日中韓及び北朝鮮を考える上では不可欠である。

日本は明治維新後に作り上げた国家で大きな誤りを犯した。欧米の植民地からアジアの同胞を解放するのではなく、自らが植民地主義に陥り自滅してしまった。岡倉天心が「アジアは一つなり」と言った言葉が身に染みる。今こそ、アジア人同士の対立でなく協調して新しい時代に向けて日本人が何が出来るかを問われている。明治維新後の国家で日本人が誤ったことを現代で再現してはならない。

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日本経済新聞の元記者である佐々木実氏が上梓した「市場と権力」を読んだ。著者は8年間の取材をベースに竹中平蔵の人生の軌跡を辿ったレポートである。著者は「改革」のメンターの地位を築いた竹中平蔵の実像を明らかにし、この人物に日本の将来が左右される是非を日本人に問いかけたものだ。竹中平蔵が小泉政権の時に大きな力を得て「構造改革」と称して日本を弱体化したことは明白だが、今度は安倍政権にも関与し、再び日本社会と日本人を外圧を利用して企みを進めている。著者は竹中の幼少時代から高校、大学の軌跡を追い、大学時代の同級生の父親の大蔵官僚を利用してインチキ人生を歩んだことを明らかにしてる。人との共作を誤魔化して個人の著作にする類は竹中の真骨頂の様だ。詭弁を弄して他者の発言を封じる天才的な才能に多くの者たちが誤魔化された。著作の中では触れられていないが、歪んだ性格と弱い者に対する冷酷さは、現大阪市長の橋下徹と同様の出身出自の問題だろう。みんなの党の党首の渡邉も同様だ。日本社会を壊す理由が存在する。竹中平蔵は現在、人材派遣会社のパソナの会長に就いている。このことで分かるのは、竹中平蔵は安倍政権ではパソナが目指している農業分野進出に有利な改革を企むということだ。この改革には不良債権処理や郵政民営化に用いた外圧の利用だ。そう言えば、橋下徹大阪市長も農協の解体などを日本維新の会の選挙公約に上げてきた。パソナの南部社長の出自は同じだからそれぞれが同じ思いで日本の農業を壊すことを最終目標にしてきたわけだ。何故農業なのかと言えば、憎き差別をもたらしたのは閉鎖的な農業社会だからだ。小泉政権時には利権屋が集まり、日本を食い物にした。安倍政権でも利権屋の影がちらついているが、安倍は政争政治屋で政策を全く勉強していなかった小泉と違うと思われるので、小泉の時の様には利権屋に利用されないかもしれない。しかし、秋に内閣の改造を行うことになるとみられ、その人事を見れば小泉との同様な道を歩むのかどうかが分かる。何れにしても、「市場と権力」を読むと日本社会が変遷してきた理由が分かると同時に今後の日本の将来についても示唆に富んでいるので一読に値する本と言える。

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 サクソフォン奏者の塙美里さんは私の高校の後輩だ。来る7月6日(土)に渋谷のアクタス ノナカ・アンナホールにて「パリの屋根裏部屋」と称する演奏会を開く案内が送られてきた。13時30分開場で、14時00分に開演だ。料金は3000円とリーズナブルで、然も紅茶、フランス菓子付を謳っている。

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昨年の東京の同窓会でフランスの留学を終えて帰国した塙さんの短い演奏会があり、その時に名刺を差し上げた。その縁で演奏会のご案内を貰ったのだが、私にとっては別な意味で感慨深いものがある。私の高校は私の時代には男子校であり、それでも女子は居たのだが数的には2%にも満たなかった。聞けば母親も同窓という事なので、その時点でも女子は少なかったと思われた。卒業25周年の母校の行事に参加したのだが、その時には既に男女共学の学校に変わっており、女子の比率は全体の40%を超えていた記憶がある。母校は今年で創立113年を迎え、卒業生は3万名を超えているのだが、女子の卒業生は15%位の比率と推測できる。女子が活躍する時代なので母校が名実ともに男女共学に

のなったのは嬉しい限りだ。私にとっては女子の後輩の演奏を聴けるなどとは若い頃には夢にも思わなかった。特に、塙さんのサクスフォンの音色は身びいきかもしれないが哀愁を帯びていて、聴く者を不思議な世界に誘い込む魅力がある。7月6日が今から待ち遠しい。

 

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先日、知人を介して歓談した斎藤さんから著作「ザ・チーム」を贈呈された。名刺を交換した時にミドルネームのウィリアムを見て日系人の方と思ったのだが、本を読んで米国生まれでIT業界で若くして大成功者になった人物と分かり驚いた。驚いた理由は紳士で、成功者特有の偉ぶった所が少しもなかったからであった。

本を読むと実に明快に日本の教育の問題点と親が子供をダメにしているのが良くわかる。斎藤さんは福島原発事故の国会事故調査委員会にも委員として参加していたことが分かったのだが、事故調には調査された側に知人がいたので、不思議な偶然も感じた。

両親の故郷である日本に対して愛情を持ち、停滞している日本の活性化に寄与したいと来日したことは本当に感謝したいと思った。それにしても、本に書かれた現代の日本及び日本人の姿には恥ずかしいの一言だ。

本を頂いた後にも斎藤さんを囲む会に出席の機会を得たのだが、日本でのアントレプレナーの支援会社「株式会社インテカー」の経営を行いながら政府の委員でも活躍するなどお忙しい様だ。ザ・チームは是非若い方に読んでほしい本であるのは言うまでもない。特に、斎藤さんが強調しているのは失敗は人生のつきもので、失敗した人こそ多くの知見を有し、将来の成功に繋がると言う言葉だ。又、人の質をかなり重視しており、幾ら才能があっても人間としての質が悪ければ支援しない姿勢には凄みさえ感じられる。子供の頃から人を見る目を養う機会があったと書いており、正に現代日本で社会的成功だけで、人間的成功を重視しない点を厳しく批判している。過去の日本でも社会的成功者は人間的成功者も併せ持って初めて成功者と呼ばれたのだが、何時の間にか風化してしまった。斎藤さんには古き良き日本人の血が流れているのかと感慨深かった。私財を投じて日本が元気になるように起業家を育成する姿勢には頭が下がる。私より遥かに年下の方ではあるが、師と呼ぶにふさわしい人である。

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4月9日pm6:00開始の学堂会の勉強会に参加しました。今回は第4回とのことで、第1回目は2013年1月31日で講師はオランダ人ジャーナリストのカレル・ヴァン・ウォルフレン氏で演題は「日本にとり主権とは何か」、第2回目は2013年2月22日で講師は元ロシア大使の丹波實氏で演題は「戦略なき日本ーその将来を憂慮する」、第3回目は3月13日で講師は国連訓練調査研究所(ユニタール)顧問のナスリーン・アジム女史で演題は「ベアテ・シロタ・ゴードンー女性と憲法」でした。第4回目の今回は、講師が元スイス大使の村田光平氏で演題は「父性文明から母性文明へー地球倫理の確立を求めて」でした。この勉強会を主催しているのは、株式会社ディプロマット内の学堂会ですが、主催者は同社の社長である原不二子女史です。

先ず「学堂会について」は添付ファイルをご覧ください。
学堂会について.pdf


政治家 尾崎行雄の生き方に倣って尾崎家の子孫の原不二子女史が立ち上げた勉強会が、尾崎行雄の最初の雅号「学堂」を取って「学堂会」としたそうです。ちなみに、その後雅号は「愕堂」、「咢堂」と変わったそうですので、この勉強会も年月を経過して変える意図があるのかもしれません。尾崎行雄は一生勉強する心がけを大事にし、90歳になっても「人生の本舞台は常に将来にあり」とし、市民の立場として官閥、軍閥に対し信念と情熱を持って戦い抜いた方です。


子孫の原不二子女史は憲法に書かれている主権在民に鑑み、政治家や官僚を非難するだけでなく、主権を持つ庶民がしっかり勉強して自分たちの生活やこどもの未来、国の将来を左右する事柄に関わってゆくことを決めて勉強会を開くことにしたそうです。


私の長年の友人が原家の方とお知り合いの為に原不二子女史の謦咳に触れる機会を得ているが、今回の勉強会に参加して改めて尾崎行雄という人物が残した遺伝子に思いを寄せています。歴史を振り返ると、小さな偶然が大戦を引き起こし、独裁者を出現させたことに驚愕するが、それを阻止するのは主権在民である庶民の我々が常に勉強して歴史が誤った方向に進むのを止めることが重要と思われます。正に、原不二子女史が勉強会を思い立った理由が理解できるのです。


今回初めて参加する機会を得て会場に行ったのだが、学堂会は知的レベルの高い人の集まりらしく、私が受付で名刺を出して受付名簿に記名しようとしたら、私の顔を見て親切に訪問先の会場が間違っているのではと確認された。一緒に参加した友人が原家の知り合いという事を説明したので受付の方も安心した顔をしたのが印象的だった。確かに、会場に入ると私は自分自身が場違いの様な気分がしたことは確かであった。しかし、講演の内容はマスコミが報道しない裏話もあり、非常に有意義なものでした。


私は王陽明の「知行合一」の信奉者なので、顔にも剣呑さが出ているのかもしれない。今後とも時間が合えば「学堂会」に参加して勉強したいと思ったが、尾崎行雄は政治家であったので、私としては勉強会を発展させて政治家養成塾として生まれ変わり、尾崎行雄の意思を継ぐ有意の政治家を出現させて欲しいと思う。過去に松下政経塾があり、多くの政治家を要請したが、松下幸之助がビジネスマン(商売人)であったので、松下政経塾出身の政治家の多くは間違った方向に日本を導いています。今は弁護士タレント上がりの橋下徹が日本維新の会の勉強会をとおして政党を作り、政治家を輩出しているが、中身は米国金融主義の追従であり、カジノ法案提出など庶民とかけ離れた政治家集団となっています。この様な現状を見ると、今こそ尾崎行雄の思いを継いだ勉強会の重要さが際立ち、何とか日本や世界の為に立つ政治家を育てて欲しいしと願うばかりだ。この様に書くとお前が政治家になれと言われるが、私の年齢では政治家になるのは遅いことは知りすぎています。石原慎太郎の様な老害を目にしては尚更だ。


原不二子女史のご子息も勉強会を手伝っており、正に尾崎行雄の遺伝子が動き出したので、学堂会には大いに期待を寄せたい。


なお、学堂会についての添付ファイルを読んでいただくと第5回、第6回の勉強会の予定が記載されているので、興味がある方はぜひ参加してください。ちなみに、参加費は2千円で、講演終了後には軽食と飲み物が出ます。

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安倍ノミクス効果で円安が進み、株高は止まらない。本来なら諸手を挙げて喜ぶことなのだろうが、浮かれる気分にならないのは何故だろうと自問自答してみた。証券会社からノンバンクで定年まで働いて長年個人的に株の売買を行ってる友人も今回の得体のしれない株高には一抹の不安を持っている。現行の株高は実体が伴わない金融相場であるので、安倍政権が実体が伴う政策を打ち出さないとあっと言う間に株高も失速すると言う懸念は誰もが持っているのは確かだ。しかし、先行きに対する漠然とした不安はありきたりの説明では答えにならないもの真実だ。安倍政権はデフレ脱却を目指して企業に賃金アップの要請をしているが、それに答えられる企業は少ないと思われるし、兎にも角にも国民の気分をデフレからインフレに持ってゆくことで一生懸命なのが手に取るように分かる。グローバル経済の中で企業が収益を向上したからと言って過去の様に国内に工場などを造ることなどは望むべくもない状況なのは安倍政権も理解していることなので、国民は次の一手をじっと見守っている筈だ。3年間の民主党政権が余りにも酷かったので、安倍政権の普通に行っている政権運営が眩しく見えるほど頑張っていると国民の目には写る。

しかし、少子高齢化社会、地方疲弊、財政難に関しては何ら有効な手は未だ打たれていない。金融相場だけで目前に迫る消費税増税を乗り切れるほど甘くはないのが現状だ。不動産業界も地価は上がってきたと言っているが、今後も上昇するのに必要な賃料などの収益の上昇の目途は立っていない。幾らデフレからインフレに転換しても需給バランスが改善されなければ一時的な現象で終わってしまう可能性が高い。過去を振り返っても意味がないと言われるかもしれないが、日本経済が戦後の幾度かの試練を乗り越えられてきたのは国内の消費力が強かったからと考えられる。社会主義国家と言われた程貧富の差が縮まり、国民の80%が中流意識を持った社会が旺盛な消費を支えたのであった。勿論、これ以外にも色々な原因があってのことではあるが、金融資本主義が主流になり、収益の向上よりコスト削減が経営者の優先意識になっている現在では、口で言うほど消費を回復させるのは難しい。

時間を過去に戻すことは出来ないので、新たな仕組みを構築する必要があることは間違いはないが、明確なのは米国の仕組みでは日本の経済が復活することがないという事だ。シュンペンターの創造的破壊などと言う言葉が流布されているが、グローバル経済と情報化社会がデフレを引き起こし、多くの雇用を奪っていることを考えれば、規制緩和だけで解決しないのは自明の理だ。大阪維新の会などはカジノを政策提案しているが、ギャンブルを財源にする案など枝葉末節の類だ。国鉄が民営化されてJRになって収益が生まれているので、民営化すればすべて良くなると思われがちだが、国鉄のままで今日の様な業務の拡大をさせたならば、地方の疲弊を促進させた廃線を防ぐことが出来たのではないのか。今更仮の話をしても仕方がないが、企業経営が分からない官僚どもが経済に口出ししていることが問題なのだ。

何れにしても、現在の日本はマスコミを動員してポジティブキャンペーンを行っているので、先行きが明るい様に錯覚しているが、実際は財務省が消費税値上げを実施する環境つくりと、TPP交渉参加で米国の支持を取り付けた円安で動いているだけの見せかけ景気に過ぎない。尤も、見せかけが本当にならないとも限らないので取り敢えずは安倍政権のお手並み拝見だろう。

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日本人は何時から完全主義者になったのだろうかと思う。日本列島は厳しい自然環境にあり、そこから生まれた日本人の死生観は西欧文明にはないものであった。しかし、高度経済成長を得て物資的に豊かになったが、反対に心の貧しさは増加している。以前にBlogで、アップルの創業者のスティーブ・ジョブスがすい臓がんで余命を知った時点から人生が変わったことが書かれた文章を目にしたことをお知らせした。彼は死を意識した時から必要な事だけを行ったらしい。アップル製品のシンプルさと彼が作り上げたシンプルな考え方は、死との背中合わせであったことが今だから分かることである。この様に書くと、タイトルと違う展開かと思われるかもしれないが、今朝のニュースで小学校の給食でアレルギーの子供にチーズ入りのフードを誤って食べさせて亡くなったことによる改善策の対応を耳にしたからであった。茨城の田舎で育ち、給食も幼稚園も経験していない私であるので、余計に過保護な社会が気になるのである。福島原子力第一発電所の事故を教訓としないヒューマンエラーを考えない社会が未だ続いているのにはうんざりする。今の日本人は何が起きようと全て他人ごとにしか映らないのかと思わざるを得ない。到る所で同じ繰り返しだ。事故が起きると事故調査委員会が設置される。ここまでは良いが、その報告書には事故を起こさない体制やマニュアルの強化が書かれ、現場の意見など無視した安全性だけを強調される。アレルギーの子供まで他の生徒と同じように給食を出すことが当然と考える社会は健全かと考える。最近、文部科学省が"食育"などを打ち出したので、給食が余計に重要視されているが、給食を経験していない私からすれば、"食育"などは学校教育で教えるものかと考えてしまう。豊かな社会になり、給食の必要性が指摘される中で"食育"の言葉を聞くと、給食に関わる既得権者の策謀と思って仕方がない。アレルギーの子供が誤って出されたチーズ入りフードを食べて亡くなったが、死亡に至る過程では情報伝達の不足と医師の経験不足が死に至らせた様だ。亡くなった子供の家族には怒られるかもしれないが、アレルギー体質を持った我が子を今の無責任社会の中で良く全幅の信頼を置いて預けられるのかと思って仕方がない。それと同時にヒューマンエラーは避けることが出来ないと言うスタンスに立って考えられない社会システムは危険だという事だ。平等という美名のもとで学校教育が行われており、給食に至るまで完璧さを求めている。勿論、貧しかった時代の責任ある社会が存在した過去ならばヒューマンエラーを最大限防ぐ神がかりの現象があったのかもしれないが、現代社会は死を忘れてお金と自己保身に走る他人の社会でどの様なマニュアルや責任体制を敷いても安全が守られる保障など存在しない。勿論、東日本大震災で見られた様に日本人の遺伝子には共同コミュニティによる絆や助け合い精神が残されてはいるが、その発動は誰もが命の危機を迎えた限定された時にだけ起きるものと考えた方が無難だ。多くの自治体が財政赤字に陥っている現状においては、行政になんでも任せるのではなく、一人一人が何をやることが大事かを考えて行動するすべきと考える。自分の子供守る為には何ができるかを先ず考えるべきだろう。いじめ事件も同様だが、倫理観を欠如した社会に安全な場所などないと考えた方が良い。警察官が強盗殺人者になる社会という事を肝に銘じるべきだ。