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今回のブログを読んだ方はタイトルとの整合性が取れてなく、話が飛んで分からないと指摘されそうだが、私のブログは毎度同様なのでご容赦願いたい。タイトルに関して結論的に言えば、経済が良くなければ国家の税収は増えず失業者が増えて政府や官僚が非難されるので経済に注力するのは当然だが、問題は企業家の発想で経済の再生を進めることが間違いだと指摘したいのである。日本は経済大国になって久しいのに、企業の経済活動に対して干渉しすぎる点である。最近は労働に関しても必要以上に干渉し、残業時間を少なくすれば余った時間を余暇に使い消費に繋がると言った馬鹿な政策を実施している。尤も、今回の時短に関しては、政策の本音が残業時間を少なくして余った時間を余所の会社で働いて労働力不足を補わせると共に増えない給与を補填させると言った穿った見方もしたくなる。更に、インバウンド推進の為に飲食店の全面禁煙を打ち出しているが、この政策など喫煙による罹患率を下げて医療費を低減させることも狙いとしてあり、一石二鳥どころか、一石三鳥を考えているのではないかと疑ってしまう。最近の官僚は姑息なことを考えて折角のアイデアも元の木阿弥にしてしまうことも度々見受けられる。

何れにしても政治家や官僚は企業家になるのではなく、企業活動にプラスになる税法の改正や新設、企業活動の自由を阻害する規制の撤廃、国土保全と食糧の自給率の確保、国民の生活・安全の追求など正に政治の役割を行う事だ。農林水産業が国土保全の役割を果たしていることを省みない輸出重視の政策など企業家の考えだ。九州の北部で起きた水害は正に農林の衰退による山林の脆弱さから起きている事を懸念した政治家や官僚は居るのかと言いたい。日本国土は平野が少なく大部分は急峻な地形に囲まれている。自然はその様な国土を維持するために雑木林で構成されていた。しかし、住宅政策もあり、山は成長が早い杉などが植林されて多くの雑木林を失った。それでも農林業が盛んであれば山林の手入れがなされて台風や集中豪雨などに耐えうるのであるが、昨今は営林署もなくなり、動物も生息できなくなるような荒れた山林になってしまった。その結果が山の脆弱さが露呈し、今回の様な水害被害となっている。農地も同様だ。農地があるからこそ多くの生物が生息し、自然再生のサイクルが維持されて来ているのである。農林水産業は単に国民に食糧を供給しているだけでなく、国土の保全を維持しているのである。その事を省みないで今後も優位に立てるかどうか分からない自動車の輸出の為に国土保全を捨てる政策を推進しているのである。企業家なら分かるが政治家や官僚が考えることではない。

新規に農業に参入した企業が植物工場は既存農家の様な固定資産税などで優遇されていないので不公平だと優遇税制の撤廃を求めている。先ほどの国土保全の役割を担っている農林業を分からなければ不公平に腹が立つ人も多いと思われる。しかし、国土保全の役割を行っていると言う付加価値を認めれば、その付加価値を持たない植物工場に対して優遇税制を施す意味がないことに気が付く筈だ。しかし、昨今の政治家は農業の効率化と言った話題にしか考えが及ばず間違った議論を進めている。私は農村に育ち父が県の農業委員の要職に就いていたこともあり、農業に関しては子供の頃から問題点を熟知している。農林水産業は労働集約産業であり、人手不足を機械化によって克服してきても自然や販売など多くの難しい問題を抱えているのが実情だ。然も、工業立国として農林水産業を鬼っ子扱いされてきた歴史がある。日本の国土は米国とは異なることを考慮して農業を考えないと取り返しがつかい事になる。政治家も官僚も企業家になりたいなら早く転職すべきだ。真の政治家と官僚が出現しなければ日本の再生は実現しない。

 

 

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行政に効率は必要ないとは何事かと言われそうだが、行政に必要なのは効率と言う一言ではなく、「業務のスピード化」と「無駄を省く」と言うことだ。しかし、この様に書くとそれが効率だと反論が出ると思うので付け加えると、本来の意味の効率とは「機械が有効に働いてなした仕事量とそれに供給したエネルギーの比率」のことであり、コストパフォーマンスを指している。これに対して、私が指摘する行政の問題は能率と言った方が分かりやすい。勿論、能率だけでなく、無駄を省くと言う視点が大事だ。尤も、無駄を省くと言うと、直ぐに公共事業の縮小や補助金打ち切り、更には平等の大義名分により弱者切り捨てと誤解されるが、日本文化を再認識すれば、「無駄を省く」という事が理解できる。日本の建築美と言われる「桂離宮」然り、日本語の俳句然り、必要最低限で機能させることである。

日本の行政でも見習う企業はある。メーカーではなくサービス業の星野リゾートだ。行政はある意味ではサービス産業である。その様な意味では、星野リゾートの考え方を見習う必要があるが、日本の場合は工業立国の意識が抜けないので、政治家も官僚もメーカーに範を求めてしまう。勿論、メーカーにも参考になる点はあるのだが、行政の人の使い方を星野リゾートを参考にしろと言いたい。理由は、行政は予算編成を中心に人員を無駄に配置しているからだ。また、ピークの仕事に合わせて人員を配置しているからだ。星野リゾートの業界も過っては行政と同じような無駄な人員配置を行っていた。否、未だ旧態依然のやり方で行っている旅館等も多いと思われる。勿論、民間の旅館業は行政と同じでは潰れるので、パートやアルバイトなど低賃金の雇用者と正社員を組み合わせているのであはるが。なお、行政も事務職の女性はアルバイトで業務の多忙部分を補っているので、似た側面はあるのは否定しない。

では何を行政は参考にするかと言うと、星のリゾートは誰もがどの職分の仕事も出来るようにし、人の無駄を無くし、会社に責任を持つ全員の正社員化を図ったことである。この様な組織運営を行えなえるのは労働組合が存在しないので出来ることを承知の上で指摘するのである。1000兆円の赤字国債、地方債を含めると1250兆円を超える負債を行政が抱えているのである。行政はメーカーの様に業績不振に陥って人員整理や選択と集中の様に将来性がない部門を売却して資金を得て将来の事業の再構築などは出来ないからである。省庁を超えた人の異動は現在でも行っているが、それは「無駄を省く」ことを前提としたものではなく、省庁間の交流位の役割しか果たしていない。

一方で、行政は民活を旗印に民間委託を進めているが、民間委託の実態は利益を民間企業に与えてインフラの負担は税金で行うモデルから出ていない。この様なことを続けていると更に赤字が増大することになる。勿論、過去に比べると政治家がダメになったが、官僚は危機感を持って模索しているのは否定しないものの、如何せん参考にしているのは欧米の物真似ばかりであり、日本の足下に目を向けて知恵を出していない。

<続く>

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現代社会は過去に経験したことがない時代に入った。テクノロジーの進歩は革命的な社会変化を遂げるが、テクノロジーの進化のスピードに人の脳は付いてゆけるのか気になる所だ。もう一つの気になる点は政治と経済がイコールで結ばれて、今や政治家も官僚も経済だけしか考えない風潮になった事だ。経済と言う言葉は、「経世済民」から取ったので民を救うのは経済だけと思い込むのは仕方がないが、政治は政事を治めるのであり、経済中心の考え方とは異なる。豊な社会になって心に飢餓感が生じるのは何故かを問う必要があるのに答えがないことに社会が苛立っている様に思える。

勿論、満足に食事を摂れない社会では、豊かになることが先決であり、何事にも経済が優先されることは否定しないが、少子高齢化社会を迎え、グローバル経済で格差社会となり、国家が予測していなかった問題に直面して国の仕組み自体に問題が生じ始めてきた日本に関しては、従来の様な欧米追従主義で乗り切れる様な安易な状況ではないことは確かだ。しかし、政治家も官僚も答えは経済成長一辺倒で、解決策には新自由主義と言われる関税をフラットにすることしか考えられないでいる。

標題に書いた国会議員も官僚も企業家になった弊害とは、企業とは収益を求めて最大限の価値を創造するために効率を考え、場合によっては選択と集中により事業の再編成を断行するのが事業資本を投資してくれた資本家に対する責任だが、同様に国家を企業の様に効率的に運用すれば少子高齢化社会やグローバル経済とそれにより発生した格差社会などで生じた問題などを解決できて国民に対して責任を果たせるかと言えば不可能だ。何が論理的に間違っているかと言えば、国家は企業が労働者や下請け企業を経済状況によって切り捨てる様には国民を切り捨てる訳には行かないと言う単純な事だ。

日本が今日の迷路に入った分岐点は日本が変わると思った小泉政権からだという事だ。小泉内閣は郵政民営化を旗印に構造改革と称して規制緩和を行ったとされているが、小泉改革と歩調を合わせるように日本のベンチャーキャピタル投資が横ばいから減少してきている事実だ。確かに規制緩和は行われてきているが、規制緩和の実態は政府がお荷物になっている部分の規制緩和であり、国民が行ってほしい規制緩和とは程遠いのが真実だからだ。何故その様な事が起きたのかは、先ほど述べたように政治家も官僚も企業家になったからである。

話は変わるが、金融庁が地方銀行の再編成を進めているのを見るにつけ過っての都市銀行のメガバンクに誘導する政策を想起するが、メガバンクにする理由は世界の金融自由化の波に日本の都市銀行規模では生き残ることが難しいなど言われたが、この考え方は金融機関の役割を度外視した考え方であった。メガバンクになって都市銀行が減少した為に企業の資金の借入先が減少し、企業にとってはマイナスになったことだ。この様に書くと、地銀や第二地銀や多くの金融機関があると指摘されると思うが、再編成前の都市銀行は企業を育てる使命感の様なものが存在していた。一方の地銀などは収益を稼ぐ事しか念頭になかったと記憶している。様々な都市銀行が色々な視点から企業を評価してくれたことが日本経済にもプラスに働いていたと思われる。現在、金融庁が進めている地銀や第二地銀の再編成もメガバンクと時と同様に借り手企業のことや再編後の競争欠如を度外視した一方通行の政策で部分最適の考え方だ。

<続く>

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先日、NYの友人から奥能登国際芸術祭に関係した内容のメールが届いた。開催地の石川県珠洲市には宿泊施設が少ないのでテントを利用することにし、そのスポンサー企業を探しているとの内容だったが、情報の元は建築家の伊藤朱子さんで、友人はその情報を私に流してきたものであった。偶然だが、私は伊東朱子さんと静岡県御殿場市に所在するレンブラントゴルフ倶楽部御殿場コースの花植栽プロジェクトでチームを組んでいたので、昨日の現地調査の昼食時にその話題に出した。

伊藤さんは知人を介して珠洲市長と今回の芸術祭で交流する機会を得て何度も珠洲市を訪問して自然豊かな地域に魅せられたとの事であった。珠洲市には900家屋が空き家になっており、空家の造りは木造で立派なのに驚いたそうだ。伊藤さんは芸術祭のプロジェクトに関わることになったので、出来れば空き家を宿泊施設に改修したいとの思いからNYの友人に投資家の相談をしたとのことであった。珠洲市は交通的には不便な場所に位置し、金沢からは車で2時間、東京からは能登空港を利用すれば空港から1時間だそうだが、便数が少ないとのことであった。

私は珠洲市の名前を聞いた時に最初に思い浮かんだのは、若い時分にエネルギー関係の仕事をしていた頃に北陸電力が原子力発電所の建設地として計画していたことであった。同時に、此方は比較的新しい話だが、能登空港に併設された高等学校にも多少縁があったことで、改めて珠洲市について思いを寄せた。能登空港に併設された高等学校に関しては、山梨県に本校がある学校法人日本航空学園の能登校舎のことであり、弊社は山梨県内の学生寮建替えプロジェクトの件で何度か本校にお邪魔していた。

同芸術祭のトリエンナーレは「瀬戸内」、「新潟」に続く3番目の芸術祭とのことで、私も雑誌等でその芸術祭自体の存在は知っていたが、知り合いの方が関係しているのは奥能登国際芸術祭が初めてである。この為、弊社の様な小企業でも何かお手伝いすることが出来ればと思っており、古い木造の立派な空き家の再生で伊藤朱子さんに協力できればと思っている。人の縁と言うのは不思議なもので、NYの友人から数年前に伊藤朱子さんを紹介され、その縁で現在ゴルフ場の植栽プロジェクトにチームとして取り組んでいるが、私自身は奥能登に行った事がないのだが、今回に結びつくような過去の記憶と数年前のプロジェクトが交差する縁を感じる。なお、芸術祭に向けての古民家再生プロジェクトに協力する人達に声を掛けたいと思っている。

 

 

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インバウンドか何だか分からないが、日本は制度的には宿泊施設に対しての許可は民泊以前は「ホテル営業」、「旅館営業」、「簡易宿泊所及び下宿営業」の3分類で認可を取った。しかし、現実的には、民泊と競合する宿泊施設として①ユースホステル、②ゲストハウス、③簡易宿泊所、④下宿屋、⑤ウィクリーマンション・マンスリーマンション、⑥民宿、⑦宿坊に種類分け出来る程多様性で溢れている。

昨今、人種的な垣根を超えることをダイバーシティなどと表現されてるが、日本社会はある意味形式主義の国なので、形式を整えていればある意味黙認される傾向が強い。日本人は創造性が欠如しているとかガラパゴスとか指摘されているが、日本人ほど創造性が豊かで柔軟性がある国民は世界的に見ても少ないのではないかと私は思っている。先入観なしで考えれば、日本は地震、台風、雷、火山などの災害が頻発し、然も四季が明確なので、頭が固くては生き延びて行けなかった地域と思われる。上記の宿泊施設は一部が旅館業法で規制された宿泊施設ではないが、競合施設なのは変わりがない。これに次は民泊が加わるのだから一層競争が激しくなる。競争と言えば、この言葉も日本に関しては欧米と比較して競争に晒されていないので考えが甘いと言う指摘も言い古されているが、何の世迷言かと言いたい。

更に、昨今は効率と言う言葉が我意を得たりとばかり跳梁跋扈している。勿論、効率が重要な業界においては必要と思われるので良いが、サービス産業までに効率と言う言葉が入ってくると、"おもてなし"と言う日本的なサービスとの間で整合性が取れるのか疑問が湧いてくる。尤も、民泊レベルの宿泊施設では"おもてなし"など不要と言われてしまいそうだが。効率とは意味が異なるが、日本文化とは本来無駄を究極までも削ぎ落としたものであるので、その意味から言えば効率を超えた世界観を構築しているものと考える。先の競争と言う意味では、日本人は上下大小の区別なく、良いと思ったことにベクトルが一斉に向くので、常に過当競争に晒されてきた。競争などないと言うのは全くの嘘八百だ。過当競争があるからこそ世界に通用する技術が出来るのであり、消費者の目も肥えているから本物でないと継続できない。

欧米諸国は日本は規制で進出できないと言うが、規制で進出できないのは何も海外企業だけではない事を理解していない。国内企業も然りだ。だが、上記の宿泊施設の様に色々な知恵を使って上手くグレーゾーンを探して対応するのである。尤も、この考え方は日本人特有のものと最近まで思っていたら、中国でビジネスを行っている方と話をしたときに、中国人は上に規制があると下は解決策を講じる国民と聞き、極東アジア文化なのかとも考え直した。

何れにしても、宿泊施設が絶対的に足りないので旅館業を規制緩和して民泊制度を作って対応すると言う触れ込みには疑問を呈してしまう。上記の宿坊などは民泊制度によって今後は大きく施設を拡大する計画があると言われ、思わぬ伏兵が民泊制度にはある。「敵は本能寺にあり」かも知れず、もし民泊を始めるならば日本には既に十分ある宿泊施設があることを念頭に入れて置くべきと心得えて付加価値を取り入れた事業にすることをお勧めしたい。

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タイトルをご覧になった方は食の関係と思われるかもしれないが、今回は人のことです。先日、株式会社ジャパン・アセット・アドバイザーズが発行するJAA通信と言う定期刊行物に記載されていた南一弘代表の「賞味期限をよく考えて自分作造りに励みます」と言う一文を目にした後に、元KPMG出身でその後トーマツでコンサルタントに従事し、現在リタイア生活を楽しんでいる方とご一緒する機会があり、再就職を話題にした時に人の賞味期限を感じさせる言葉を聞いたことが印象的だったのでブログに書くことにした。

人の賞味期限について最初に聞いたのは、私が世話になった方が事業で挫折し、再起を期す為に頑張っている時に、「賞味期限がある内に何とかしたい」と話された時である。私はその時には深く意識しなかったが、今回は偶然にもいくつもが重なり合って意識せざるを得なかった。同じ時期にリタイアしている友人から有効求人倍率の労働者は15-64歳の働く意欲がある者なので、私は完全に対象外だとメールが来たことにも感傷的になった面もある。しかし、働く意欲だけでは越えられない問題があるのは確かだ。少子高齢化社会なので、現在は65歳まで働かないと年金が貰えないが、今後は70歳に引き上げようとする動きがある。財政だけを見て人を全く見ていない動きには腹が立つし、若い時に一生懸命仕事をした人は年齢を経て働くと言う言葉の重さが身に染みるのである。

先のトーマツの方はCPAの資格を有する優秀な方であり、常に体を鍛えて心身の鍛錬に励んでいる姿を見て来ているので、現在の変化に対する知識の更新に追いついて行けない不安を抱き、もし間違ったらクライアントに迷惑を掛けるので再就職を敢えて行わないと言う話には我が身を振り返った。豊富な経験を拠り所にし、知識の更新も行っていると自負していたが、確かに経験の記憶も勘違いしている事があるかもしれないし、知識の更新も必要な全部を網羅していない可能性も否定できず、クライアントに迷惑を掛けていないだろうかと不安になった。

政府が主導する働き改革では高齢者も含まれているかどうかは勉強不足で不明だが、高齢者が働くのは当然と主張する連中は高齢者の不安など眼中にない様に思われ、知識の更新に不安があるなら肉体労働者にでもなれということなのかと考えてしまう。南氏も人の賞味期限は他者から無視されなければ未だ大丈夫と書いているが、それには自分造りに励むという条件付きなのは確かであろう。AIの発達で専門職が急激に奪われて行く中で、それぞれが自分造りに励むのは容易ではない。今の社会は多額の報酬を得られる時代になったが、賞味期限を過ぎた所か消費期限を過ぎても地位に拘っている人達も多く、企業の破たんを招く現象も起きてきている。経験が浅くても高額の報酬を手にすることが出来、経験があるものの知識の更新に不安を覚える良心的な人がリタイアしてしまう社会になったのは何故かと自問自答をする。

尤も、個人情報保護法も改正され、民法も改正され、消費契約法も改正され、建築基準法も改正されたり過去20年の間に多くの法律が現代社会に対応するために改正されてきている。今後も急速に変わる時代に合わせるために法律を変えざる得ないと思うが、法律の中には進歩によって改正するのではなく、逆に社会の劣化と思われる法の退行改正もある。規制の緩和と言いながら一方で規制強化も日常茶飯事だ。幾ら優秀な人でも場当たり的に法律や欧米主導の国際基準に従った制度の改正が行われたりでは知識の更新などに努力した所で賞味期限が到来するのは目に見えていると考えるざるを得ない。しかし、幾らITの時代でも更新作業は必要なのだが、更新で不具合が起きるのも確かなので、クライアントに迷惑を掛けないことを最初に心掛けていれば未だ大丈夫と思う事にした。

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東京都杉並区内の容積率違反となった底地の一部売却事件に関しては①と②で終わりにしたくない部分があったから後記として記述する。

底地を取得した不動産会社が杉並区役所の底地の売買に関して二度に亘り勧告を出したにも拘わらずに無視して関連会社の1700㎡の内420㎡を敷地を住宅販売業者に転売し、その販売業者が再度指定確認検査機関に建築確認を提出したのだが、指定確認検査機関は住宅設計に関しては問題がないので建築確認を交付したと言う記事の部分だ。

1971年に建築された3000㎡の敷地の一部420㎡に戸建て住宅が建築されて既存マンションが容積不足になったと言うからには、既存マンションが3000㎡の敷地でマンション建築の確認認可を得た時には余剰容積率はなかったという事だ。既に容積率を使ってしまった420㎡の土地に対して戸建て住宅建築の設計に問題はなかったとは摩訶不思議な事だ。もし、土地の分筆を行えば容積率に関する問題が白紙になるのが法的に可能ならば、大きな法的な不備と言える。容積率を売買できることは法的には可能だ。しかし、容積を売買して使用しない容積分を移転した場合には、売った土地の所有者は売ったよう積分を差し引いた残りの分しか使えないのは当然だ。それが逆のケースでは認められると言うのは可笑しい事だ。

指定確認検査機関が既に容積率を全部使って仕舞って余剰容積率のない土地に対して設計上問題ないから建築確認を交付したとは驚きだ。勿論、既存マンションの敷地に過去に利用されたのは分からないために建築確認を交付してしまうケースはあるのかもしれないが、建築確認の交付は単なる建物に関してだけでなく、周辺との観点からも審査するのは当然ではないか。この様な愚かな社会を作り上げたのは誰なのかと言いたい。裁判官も専門知識など知らないだろうが、法律だけしか判断しない判決など愚かのひと言だ。裁判官の劣化と出世だけしか頭にならない判事などに判決など認めたくはない。経済成長と言う幻想の為に必要な規制まで緩和して不正義な者が徳をする社会など存続する必要がないと思うのは私一人か。

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当該マンションは1971年竣工なので当時購入して現在でも居住している方はリタイア組であり、中古物件として購入した方は取得時期によっては未だ償却が終わっていない可能性もあります。底地部分の所有者の経済的破綻に対する対応は当然に管理組合を通して全組合員に知らされていると推定され、総会で対応を議論してきたと思われる。この辺りは全て推定だが、当たらずとも遠からずと思われるので推定をを続けるとして、底地権の購入金額は1戸当たり400万円前後、総額約2億5千万円と考えられる。総会で結論が出なかったので競売になった訳だが、マンションの底地など誰も見向きもしないと言う楽観論が支配したためかと思われる。底地の深刻な問題は全員が賛成でないと結論が出せないと言う厄介なことだ。その為に折角のチャンスを逃したと思われるが、残念なのは当該マンションは現行の許容容積率が少なかったことだろう。若し許容容積率が大きかったらデベロッパーに持ち込んで底地を買い上げて貰って再開発に持ち込めた可能性もあった。

何れにしても組合員の予想を裏切って底地を競売で落札した不動産会社があり、その不動産会社は当該マンションの容積率違反になるのを承知の上で戸建て住宅としての1700㎡の内420㎡の土地売却を企てたことだ。停止条件付で売買契約を締結した戸建て住宅販売業者は建築確認申請を指定確認検査機関に提出したことから特定行政庁の杉並区役所が容積率違反になることを発見し、区役所では競売取得した不動産会社と当該マンション管理組合とで土地の売買で解決を図るように書面で通知し、指定確認検査機関には建築確認を保留するように行政指導したとのことであった。杉並区役所としては適正に行政としての役割を果たしたと言えよう。問題はこの先で起きた。競売で購入した不動産業者は二度の行政指導に従わずに対象土地の内420㎡をを関連会社に転売し、戸建て販売業者はこの関連会社から420㎡の土地を購入して再度建築確認申請を提出した。計画した住宅の設計自体が適法だったので、指定確認検査期間は建築確認を交付し、結局問題の戸建て住居が全棟完成した。

この為、管理組合では関係不動産3社に対して「住宅によって眺望や日照を侵害された」などとして完成した6棟の住宅の撤去や慰謝料の請求の支払いなどを求めて提訴した訳だ。結果的には、慰謝料33万円の支払いを不動産業者に命じたものの、戸建て住宅の撤去は認められなかった。訴状の内容は知らないが、戸建て住居の撤去以外に慰謝料などを求めたのは最初から住宅の撤去は難しいとの判断が管理組合側の弁護士にあったと推定できる。WEB雑誌では1984年の改正区分所有法の成立以前は建物と土地を切り離して売却できたので、1983年以前の建物には今回と同様のトラブルの懸念があると指摘していた。しかし、今回の事件は指定確認検査機関が生まれていなければ戸建て住居の建築確認の交付はあり得ない事を考えると、1983年以前と言うより、規制緩和が生み出した法の網を抜けた悪質な不動産業者に利益をもたらす仕掛けとと言える。正直者で納税を怠らないものが不利益を生じる社会とは何だと言いたい。裁判官も法律論でしか物を見ない社会経験も少ない者が一連の流れの悪質さも判断出来ないで判決を下す社会には愚かさ以上に絶望的になる。

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偶然に目にしたWEB雑誌の記事に目を惹かれた。

タイトルは"敷地に戸建て、マンション容積率違反に"でした。東京都内の杉並区の分譲マンションの敷地内に戸建て住宅が建築され、マンションが容積率違反の違法状態になっているとの記事に最初はあり得ない話と思い、記事が間違っているんではないかと疑った。しかし、読み進んで行くに伴い、この様な事が他の事でも起きていたらと気になりだした。小泉内閣時代の建築基準法の改正により、建築確認申請の審査が民間会社でも可能となり、指定確認検査機関が出現した。行政庁でも建築物の巨大化で対応してきれなくなったのに採算性が求められる民間の検査機関に出来るのかと言うのが私の率直な感想であった。民間検査会社の出現はその後に構造偽装事件と業務発注の変化の二つの面で現れ、今後が懸念される代物であった。不祥事が起きると行政は待ってましたとばかり今度は別な方法で規制強化を行うが、先の構造偽装事件後の規制強化と業務発注の変化は弊社の様な設計事務所に関しては色々な面でマイナス効果が大きく働いている。

然し、今回のマンションの容積率違反は規制緩和以前ならば起こり得ない事件だから余計に愚かな社会を作り出したことに腹が立った。私も知らなかったが、指定確認検査機関は業者から申請書が提出されると概要書を特定行政庁に送付する仕組みになっていることだ。今回はその送付で杉並区役所がマンション敷地内に建築される戸建て住宅でマンションの容積率違反になる懸念に気が付いた。同マンションは1971年と古く現行許容容積率/建蔽率は150%/60%だそうだ。約3000㎡の敷地として建築確認を取得し、鉄骨鉄筋コンクリート造地上11階建のマンションが建築されている。問題は敷地3000㎡の内、1700㎡が借地であり、その借地部分が競売に出されて所有権が不動産会社に移転したことだ。競売の経緯等は書かれていないので、今回の事件とは別に幾つかの疑問点はある。それに言及しないで今回の件だけを取り上げても意味をなさないと思うので、先ずはその点から述べるとする。一般的には底地である土地の所有者が経済的に破たんした場合には推測の域をでないが、債権者は借地権者に底地の購入を勧める筈だ。なお、当該マンションは敷地の約57%が借地であり、所有権と借地権がマンションの敷地権としてどの様に対応していたのかが不明だが、一部のマンションには所有権の敷地が付いており、一部のマンションには借地権の敷地である様な分け方はしないので、考え方としては共有持分(所有権)と準共有持ち分(借地権)の両方の持分で全戸成り立っていたと推定するしかない。

<以下次に続く>

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昨今は資産運用のパンフレットで資産購入を勧誘する会社が多いが、その中でビルのフロア購入を勧めるものがあった。1棟の建物を購入するよりいわゆる区分建物の方が資産価値が高いことを謳ったものであった。区分所有建物とは分かりやすく言えばマンションなどの住戸が代表的なものだが、ビルのフロア購入を勧める案件はオフィスとしての活用を目的としている。簡単に言えば、賃借でオフィスを利用している会社や個人に区分所有建物のオフィスを購入すると賃料分を購入に要する借入金の返済に充当させて資産を得られますよ、という事だ。共同所有のマンションの為の法律として区分所有法が成立したのだが、法律制定当初から長い間は専らマンション法と呼ばれる位に住戸を目的としていた。その後、共同建物は住居として住まいに使用する以外にビジネスマンションなるものが考案されて仕様は居住用だが、オフィスとして使う物件も出現した。今から40年以上前なので未だオフィスビルは少なく、個人事業者が賃借するには保証金も高かったので、少人数のオフィスとしてビジネスマンションは好評だった。

更に、ビジネスマンションにヒントを得たと思われるのが弁護士ビルなるものの出現だった。弁護士ビルはビジネスマンションよりは通常のオフィスビルに近く、弁護士と言う職業からオフィスを借り難いと言う問題と弁護士と言う個人事業主にはサラリーマンの様に退職金がないので、引退時に弟子に事務所を購入してもらう事で退職金代わりにもなるので多くのメリットがあった。なお、共同開発での副産物である店舗の区分所有建物は早くから存在したが、問題は流動性に難点があり、店舗用途に関しては飽く迄も意図的ではなく開発から生まれたものであった。尤も、超高層ビルの建築では、複数の企業が共同参加したことから数フロア単位での区分所有建物が存在しているが、一般的にはマンションと同じとは理解されていなかった様だ。

過去の区分建物のオフィスには流動性に問題があったことを述べたが、その最大の理由は当時の金融機関が担保価値として区分建物オフィスを見てくれなかったことだ。担保主義の時代であったので担保と評価してくれないので、区分建物のオフィスの需要があっても流動性に欠陥があったことになる。その後、徐々に区分建物オフィスにも担保価値を求める金融機関も現れてきたが、実際の不動産取引においては評価の80%が一般的であった。

弊社は都内に共同事業でマンション建築を行っていたが、共同事業なので1階は店舗を配置し、所謂下駄ばきマンションであった。共同事業で早期の資金回収にはマンションを分譲することであり、弊社はマンション専業大手に取得分を卸すことによって販売リスクを避けた。今の若い世代には理解できないと思われるが、当時は高金利なので販売戸数の10%が売れ残ると利益がなくなるとまで言われた時代だ。エンドユーザーに販売できれば利益が多いのが分かっていても弊社規模では出来ないのが実情だった。

区分建物のオフィスが金融機関に認知され、利用者や投資家にも一般的になったのは何時頃かと言うと、1985年以降のバブル経済になってからだと思われる。都心にビル需要が増加し、多くの場所で地上げと称される再開発が進められたことから地価が急上昇し、都心で1棟ビルを所有するのが価格的に大変になったことが背景にある。弊社でも都心の共同再開発で大型ビルを建築することになるのだが、開発当初は未だバブル経済にはなっていなく、ビルの仕様が従前と大きく変わることが予想されたので、弊社は付加価値が生まれる今では死語かもしれない「インテリジェントビル」の希少価値で勝負に出た。紆余曲折を経て1987年に完成した時にはバブル経済絶頂期であり、大型ビルの区分建物のフロアも担保価値としては1棟ビルのフロアと変わらない金融機関の評価であった。

長々と区分建物に関して推移を述べてきたが、今後予想される都心のビルの供給過剰にあって区分建物のオフィスの資産価値がどの様に推移するのか興味を持っていた時に、冒頭の様な区分建物のオフィスを積極的に資産価値が高い案件として推奨する不動産業者が居たので驚いたのは確かだ。区分建物の資産価値とは何かとひと言で述べると区分所有者の団体である管理組合が機能してるかどうかだ。そのことを触れずに売買の仲介や販売して終わりでは無責任になる。何れにしても、区部建物のオフィス販売では先駆者といえる弊社が積極的に出来なかったのを専業として大きく伸びている会社が出てきたことを思うと隔世の感がある。弊社は今でも区分所有建物では多くの知見を有しているので、今後は区分建物のオフィス販売にも乗り出そうかと考えている。