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標題を見て何で今更と思われる方も多いと推察するが、マンションの所有者の方とお会いすると本当に知識不足を痛感する。多数の所有者の方の集まりであるマンション管理組合は殆んどが管理会社に業務を全部任せているのが実情と思われる。

マンション管理に関しては区分所有法による法的な整備が主たるもので、マンションの維持修繕などの現場管理に関しては行政的には対応して来なかった。しかし、管理会社の管理費流用事件や管理組合の役員の業者との癒着や管理費の横領などが生じたことにより、行政では管理組合をサポートする専門家として国家資格の「マンション管理士」創設や、管理会社に対しては国家資格者の「管理業務主任者」制度の導入で不正などを排除する体制を整えている。

一応、マンションを維持管理するための法的な整備は十分かと思ったが、今度は修繕工事などで設計コンサル会社と管理会社や建設会社との癒着が指摘されている。癒着の原因は修繕工事を建設会社に一括して発注しているから起きるので、工事単価が明確となるコンストラクションマネジメント(CM)方式を導入すべきだと主張し、行政側が従来CM普及に注力してこなかったので、今後は取り組むことを促している内容の記事も目にする。弊社も管理組合業務や設計コンサル会社としてマンションの運営や修繕工事に携わってきたので、CM方式の問題点も熟知してきており、それ以前にマンション管理士を無視した専門家と言われる人達の言動には疑いの目を向けざるを得ない。

弊社の行っている管理組合業務代行サービスの業務は未だ認知されてなく、殆どが管理会社と混同される。その理由は管理会社が日常のマンション管理業務の中に管理組合業務を含んでおり、業務が一体化していることにある。本来は管理組合と管理会社とは区分する必要があるのだが、その指摘をしないで業者同士の癒着を囃したてるのは論理のすり替えを目的としているからだ。上記の設計コンサル会社が建設会社と癒着して法外なバックマージンを得ているなどの指摘は設計コンサル会社に失礼な話だ。修繕工事に関して設計コンサル会社に委託して適正な発注価格で業者を選定するのは妥当な事例であり、設計コンサル会社に成功フィーを支払えば不正など起きる訳がない。CM方式を普及させるために設計コンサル会社に対する不正疑惑を取り上げる行為は正しいマンション管理に水を差すものと言える。ちなみに、CM方式で発注するにはCM会社の能力が問われるものだが、日本で普及しないのは理由があり、行政が導入に前向きで無かったからとの指摘は全く当たっていない。翻って、不正や知識の欠如を補う存在としてマンション管理士の国家資格を導入しており、管理会社もマンション管理士と同格の国家資格の業務主任者を置いているので、癒着をチェックできる体制になっている。

それでは"正しいマンション管理"とは何かと言えば、管理会社から管理組合業務を切り離し、利益相反体制を無くすことに尽きる。マンションの管理は従来の様に管理会社にお任せでは修繕積立金が幾らあっても足りなくなる。建物の管理は日常的な修繕を細目に行う事で、大規模修繕の支出を下げることが可能となる。特に、マンションの運営は駐車場の外部貸出し、携帯用アンテナの収入など税金問題もあり、会社経営的な考え方も必要な状況が生まれている。最近はマンションの管理会社を変えると費用が削減できるとの広告が目立つが、マンションはオフィスビルや商業ビルとは違い費用の節減規模は限られているので、目先の事に惑わされずに長期的な視点で資産価値を減少させない事に目を向ける必要がある。更に、正しいマンション管理に付け加えると「所有資産価値の維持」と言える。

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積水ハウスが西五反田の土地購入で詐欺にあって60億円もの大金を搾取された事件のニュースを見てやはりそうだったのかと言う思いであった。詐欺の舞台になった当該地には古い木造の旅館が建っている。ニュースでは4~5年前に営業を止めたと報道されていたが、最近まで営業を遣っていたのかと感慨深いものがある。当該旅館は親から相続した女性が経営しており、当社は今から37~38年前に向かい側の角地で共同開発を進めていたので、当該旅館に関しても共同開発を提案した経緯がある。当社は都心を中心に共同再開発事業を展開し、西五反田の共同マンションが開発案件の第1号であった。

地権者との面談で頻繁と当該地に行き来したので、目黒川を背にした古い旅館は共同開発に最適と思われた。しかし、何度も訪問しても現状を維持したいと言う所有者の気持ちを共同開発に切り返ることがかなわず断念した。当社は多くの開発案件を進めたが、多くは実現に到らないで終わった。その後年月が経ち、開発案件の場所に行くと全部と言って良い位に再開発されていた。当社の再開発の提案が呼び水になったのは確かであり、当社の手でなくても街づくりの切っ掛けになったことで社会に貢献できたと思ったものである。しかし、西五反田の木造旅館だけは当社が訪問した状態で年月が推移し、周辺の景観と時代に取り残された様に存在していたのには驚きもあり、感心もしていた。

当該旅館に関して再度当社が動いて見ようかと思ったのは、赤坂でゲストハウスを運営している知人が当該旅館に関心を持っており、彼の手法は外観を温存してゲストハウスに利用することでもあったので、売買や共同開発ではなく、現状を維持する利用の賃貸しなら可能性があるかもしれないと考えたからであった。後から思うと昨年に動けばよかったが、他の仕事が忙しくて動けたのは漸く今春だった。今年4月に土地建物謄本を取り付けたら直近で積水ハウスの売買予約の仮登記が記載されていた。遅かりしと昨年に動かなかったのを後悔したが、謄本を見ると仮登記には所有者から直接ではなく、間に会社が介在しており、然も当該敷地の一部には仮登記がなされていないのが不自然だった。勿論、所有者名義が同じ一族でも違っていたので、その一部に関しては同意が取れていない為に合意した大部分の土地にだけ売買予約の仮登記を付けたのかと推測していた。しかし、不動産に係る仕事に長年携わってきた私の直観では何か不自然であったが、一度に取引出来ないように仕組んで、時間稼ぎをする必要があったのかもしれない。当事者にしか分からない理由があったのだと思われる。

今回の詐欺事件で分かったことは所有者の女性に成りすました女を含む一味がパスポートを偽造して所有者本人になりすまして印鑑証明など公的書類を作成したことであった。所有者の女性が病気で入院していることの間隙を突いた詐欺事件だと推測するが、今日の科学技術の発達で容易くパスポートが偽造され、所有者本人に成りすますことが出来ることが分かり、今後は公的書類と言えども信用できないのかと思うと同時に取引には司法書士など多くの人達が絡んでいる事件なので、社会の正義に関しても希薄になりつつあるのかとも思った次第だ。何れにしても地面師の犯罪は科学技術と伴に本物と偽者が判別しにくくなってきたので、基本に戻り現場調査を行うと同時に、初心に帰って旨い話には気を付けることだと思った。当社案件は所有者の女性が亡くなり、相続が発生した様なので、相続税から考えると今回は売却になる可能性が高く、当社にとっては二度目の敗戦になると思われる。

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ヤルタ.jpg
日本のエリートと言われる人達が国民にとって信頼できない存在だと言う事実を突き付けられた本だ。書かれているのは戦前の出来事だが、著者は東日本大震災時の二次被害となった福島原子力発電所の事故対策にも相似した現象を見て相も変わらない日本人のインテリジェンス欠如を憂いている。否、日本人にも外国のインテリジェンス・オフィサーに負けない人材がいたのだが、日本の危機的状況時に指導者として地位にいる人達が臨機応変に対応できないと言う現実だ。確かに、福島原子力発電所の事故は人災と言われるほど思い込みで対処した結果がメルトダウンを引き起こし、今でも故郷に帰れない多くの人達を作った。その反省も誰も責任も取らないないままで原子力発電所を再稼働させる日本人は馬鹿と言っても良い民族と世界から嘲笑される存在だ。知人の会計コンサルタントがフランス人に日本人は哲学を知らない国民だから原発など持つべきではないと言う屈辱的な言葉を吐かれたと言っていた。

掲題の本では正に的確な情報を入手しているにも拘わらず不都合な真実ゆえに葬り去られた結果、太平洋戦争で防げたかもしれない沖縄戦以降の無謀な戦いと被害を拡大したと指摘している。本の中で「ヤルタ密約緊急電」を握りつぶしたと推測された元大日本帝国陸軍大本営参謀であった瀬島龍三のことが取り上げられている。瀬島龍三は陸軍大学をトップで卒業した軍刀組の一握りのエリートだった。このエリートは戦後ソ連に10年以上抑留されて帰国した為に山崎豊子の小説「不毛地帯」のモデルと言われて戦後英雄視された。伊藤忠商事で出世を遂げて財界人の仲間入りをし、政府の委員会の要職も歴任している。瀬島龍三の実像は抑留時代にソ連のスパイとして教育されたエリート軍人の一人であったのは今では承知の事実だ。その様な人物が戦後の日本で政府の要職に就いていたのだから山崎豊子に「不毛地帯」の題材を与えたのもソ連の協力者だった可能性も推測できる。ソ連は大物スパイとして瀬島龍三を育てて日本に送り込んだのに日本人は能天気に何らの疑いもせずに瀬島を英雄視して政府の秘密にまで近づける存在にした。中曽根康弘元首相はその一人だ。

翻って、今の日本を見ると本で指摘している日本人エリート層の欠陥を倍増している安倍お友達内閣と人事で動かされている官僚の姿を見ると国家に生命財産を預ける状態にはないと思われる。特に、安倍内閣に呼応して突っ走る日銀の姿を戦前の大本営発表と二重写しに見えるのは私だけではないと思いたい。戦後70年を経て日本人のエリート層が間違った選択を只管変えないで国民を奈落の底に引きずり降ろそうとする図は見たくないものである。特に、戦前の軍人達が国家社会主義に憧れを抱いたことがソ連と言う信頼できない国家を盲信し和平交渉を委ねた訳だが、現在は新自由主義と言うグローバル経済主義を信奉する経済産業省の官僚が似たような盲信する姿を見ると慄然とする。掲題書は正に憂国の本であり、是非一読をお勧めしたい。

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今回のブログを読んだ方はタイトルとの整合性が取れてなく、話が飛んで分からないと指摘されそうだが、私のブログは毎度同様なのでご容赦願いたい。タイトルに関して結論的に言えば、経済が良くなければ国家の税収は増えず失業者が増えて政府や官僚が非難されるので経済に注力するのは当然だが、問題は企業家の発想で経済の再生を進めることが間違いだと指摘したいのである。日本は経済大国になって久しいのに、企業の経済活動に対して干渉しすぎる点である。最近は労働に関しても必要以上に干渉し、残業時間を少なくすれば余った時間を余暇に使い消費に繋がると言った馬鹿な政策を実施している。尤も、今回の時短に関しては、政策の本音が残業時間を少なくして余った時間を余所の会社で働いて労働力不足を補わせると共に増えない給与を補填させると言った穿った見方もしたくなる。更に、インバウンド推進の為に飲食店の全面禁煙を打ち出しているが、この政策など喫煙による罹患率を下げて医療費を低減させることも狙いとしてあり、一石二鳥どころか、一石三鳥を考えているのではないかと疑ってしまう。最近の官僚は姑息なことを考えて折角のアイデアも元の木阿弥にしてしまうことも度々見受けられる。

何れにしても政治家や官僚は企業家になるのではなく、企業活動にプラスになる税法の改正や新設、企業活動の自由を阻害する規制の撤廃、国土保全と食糧の自給率の確保、国民の生活・安全の追求など正に政治の役割を行う事だ。農林水産業が国土保全の役割を果たしていることを省みない輸出重視の政策など企業家の考えだ。九州の北部で起きた水害は正に農林の衰退による山林の脆弱さから起きている事を懸念した政治家や官僚は居るのかと言いたい。日本国土は平野が少なく大部分は急峻な地形に囲まれている。自然はその様な国土を維持するために雑木林で構成されていた。しかし、住宅政策もあり、山は成長が早い杉などが植林されて多くの雑木林を失った。それでも農林業が盛んであれば山林の手入れがなされて台風や集中豪雨などに耐えうるのであるが、昨今は営林署もなくなり、動物も生息できなくなるような荒れた山林になってしまった。その結果が山の脆弱さが露呈し、今回の様な水害被害となっている。農地も同様だ。農地があるからこそ多くの生物が生息し、自然再生のサイクルが維持されて来ているのである。農林水産業は単に国民に食糧を供給しているだけでなく、国土の保全を維持しているのである。その事を省みないで今後も優位に立てるかどうか分からない自動車の輸出の為に国土保全を捨てる政策を推進しているのである。企業家なら分かるが政治家や官僚が考えることではない。

新規に農業に参入した企業が植物工場は既存農家の様な固定資産税などで優遇されていないので不公平だと優遇税制の撤廃を求めている。先ほどの国土保全の役割を担っている農林業を分からなければ不公平に腹が立つ人も多いと思われる。しかし、国土保全の役割を行っていると言う付加価値を認めれば、その付加価値を持たない植物工場に対して優遇税制を施す意味がないことに気が付く筈だ。しかし、昨今の政治家は農業の効率化と言った話題にしか考えが及ばず間違った議論を進めている。私は農村に育ち父が県の農業委員の要職に就いていたこともあり、農業に関しては子供の頃から問題点を熟知している。農林水産業は労働集約産業であり、人手不足を機械化によって克服してきても自然や販売など多くの難しい問題を抱えているのが実情だ。然も、工業立国として農林水産業を鬼っ子扱いされてきた歴史がある。日本の国土は米国とは異なることを考慮して農業を考えないと取り返しがつかい事になる。政治家も官僚も企業家になりたいなら早く転職すべきだ。真の政治家と官僚が出現しなければ日本の再生は実現しない。

 

 

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行政に効率は必要ないとは何事かと言われそうだが、行政に必要なのは効率と言う一言ではなく、「業務のスピード化」と「無駄を省く」と言うことだ。しかし、この様に書くとそれが効率だと反論が出ると思うので付け加えると、本来の意味の効率とは「機械が有効に働いてなした仕事量とそれに供給したエネルギーの比率」のことであり、コストパフォーマンスを指している。これに対して、私が指摘する行政の問題は能率と言った方が分かりやすい。勿論、能率だけでなく、無駄を省くと言う視点が大事だ。尤も、無駄を省くと言うと、直ぐに公共事業の縮小や補助金打ち切り、更には平等の大義名分により弱者切り捨てと誤解されるが、日本文化を再認識すれば、「無駄を省く」という事が理解できる。日本の建築美と言われる「桂離宮」然り、日本語の俳句然り、必要最低限で機能させることである。

日本の行政でも見習う企業はある。メーカーではなくサービス業の星野リゾートだ。行政はある意味ではサービス産業である。その様な意味では、星野リゾートの考え方を見習う必要があるが、日本の場合は工業立国の意識が抜けないので、政治家も官僚もメーカーに範を求めてしまう。勿論、メーカーにも参考になる点はあるのだが、行政の人の使い方を星野リゾートを参考にしろと言いたい。理由は、行政は予算編成を中心に人員を無駄に配置しているからだ。また、ピークの仕事に合わせて人員を配置しているからだ。星野リゾートの業界も過っては行政と同じような無駄な人員配置を行っていた。否、未だ旧態依然のやり方で行っている旅館等も多いと思われる。勿論、民間の旅館業は行政と同じでは潰れるので、パートやアルバイトなど低賃金の雇用者と正社員を組み合わせているのであはるが。なお、行政も事務職の女性はアルバイトで業務の多忙部分を補っているので、似た側面はあるのは否定しない。

では何を行政は参考にするかと言うと、星のリゾートは誰もがどの職分の仕事も出来るようにし、人の無駄を無くし、会社に責任を持つ全員の正社員化を図ったことである。この様な組織運営を行えなえるのは労働組合が存在しないので出来ることを承知の上で指摘するのである。1000兆円の赤字国債、地方債を含めると1250兆円を超える負債を行政が抱えているのである。行政はメーカーの様に業績不振に陥って人員整理や選択と集中の様に将来性がない部門を売却して資金を得て将来の事業の再構築などは出来ないからである。省庁を超えた人の異動は現在でも行っているが、それは「無駄を省く」ことを前提としたものではなく、省庁間の交流位の役割しか果たしていない。

一方で、行政は民活を旗印に民間委託を進めているが、民間委託の実態は利益を民間企業に与えてインフラの負担は税金で行うモデルから出ていない。この様なことを続けていると更に赤字が増大することになる。勿論、過去に比べると政治家がダメになったが、官僚は危機感を持って模索しているのは否定しないものの、如何せん参考にしているのは欧米の物真似ばかりであり、日本の足下に目を向けて知恵を出していない。

<続く>

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現代社会は過去に経験したことがない時代に入った。テクノロジーの進歩は革命的な社会変化を遂げるが、テクノロジーの進化のスピードに人の脳は付いてゆけるのか気になる所だ。もう一つの気になる点は政治と経済がイコールで結ばれて、今や政治家も官僚も経済だけしか考えない風潮になった事だ。経済と言う言葉は、「経世済民」から取ったので民を救うのは経済だけと思い込むのは仕方がないが、政治は政事を治めるのであり、経済中心の考え方とは異なる。豊な社会になって心に飢餓感が生じるのは何故かを問う必要があるのに答えがないことに社会が苛立っている様に思える。

勿論、満足に食事を摂れない社会では、豊かになることが先決であり、何事にも経済が優先されることは否定しないが、少子高齢化社会を迎え、グローバル経済で格差社会となり、国家が予測していなかった問題に直面して国の仕組み自体に問題が生じ始めてきた日本に関しては、従来の様な欧米追従主義で乗り切れる様な安易な状況ではないことは確かだ。しかし、政治家も官僚も答えは経済成長一辺倒で、解決策には新自由主義と言われる関税をフラットにすることしか考えられないでいる。

標題に書いた国会議員も官僚も企業家になった弊害とは、企業とは収益を求めて最大限の価値を創造するために効率を考え、場合によっては選択と集中により事業の再編成を断行するのが事業資本を投資してくれた資本家に対する責任だが、同様に国家を企業の様に効率的に運用すれば少子高齢化社会やグローバル経済とそれにより発生した格差社会などで生じた問題などを解決できて国民に対して責任を果たせるかと言えば不可能だ。何が論理的に間違っているかと言えば、国家は企業が労働者や下請け企業を経済状況によって切り捨てる様には国民を切り捨てる訳には行かないと言う単純な事だ。

日本が今日の迷路に入った分岐点は日本が変わると思った小泉政権からだという事だ。小泉内閣は郵政民営化を旗印に構造改革と称して規制緩和を行ったとされているが、小泉改革と歩調を合わせるように日本のベンチャーキャピタル投資が横ばいから減少してきている事実だ。確かに規制緩和は行われてきているが、規制緩和の実態は政府がお荷物になっている部分の規制緩和であり、国民が行ってほしい規制緩和とは程遠いのが真実だからだ。何故その様な事が起きたのかは、先ほど述べたように政治家も官僚も企業家になったからである。

話は変わるが、金融庁が地方銀行の再編成を進めているのを見るにつけ過っての都市銀行のメガバンクに誘導する政策を想起するが、メガバンクにする理由は世界の金融自由化の波に日本の都市銀行規模では生き残ることが難しいなど言われたが、この考え方は金融機関の役割を度外視した考え方であった。メガバンクになって都市銀行が減少した為に企業の資金の借入先が減少し、企業にとってはマイナスになったことだ。この様に書くと、地銀や第二地銀や多くの金融機関があると指摘されると思うが、再編成前の都市銀行は企業を育てる使命感の様なものが存在していた。一方の地銀などは収益を稼ぐ事しか念頭になかったと記憶している。様々な都市銀行が色々な視点から企業を評価してくれたことが日本経済にもプラスに働いていたと思われる。現在、金融庁が進めている地銀や第二地銀の再編成もメガバンクと時と同様に借り手企業のことや再編後の競争欠如を度外視した一方通行の政策で部分最適の考え方だ。

<続く>

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先日、NYの友人から奥能登国際芸術祭に関係した内容のメールが届いた。開催地の石川県珠洲市には宿泊施設が少ないのでテントを利用することにし、そのスポンサー企業を探しているとの内容だったが、情報の元は建築家の伊藤朱子さんで、友人はその情報を私に流してきたものであった。偶然だが、私は伊東朱子さんと静岡県御殿場市に所在するレンブラントゴルフ倶楽部御殿場コースの花植栽プロジェクトでチームを組んでいたので、昨日の現地調査の昼食時にその話題に出した。

伊藤さんは知人を介して珠洲市長と今回の芸術祭で交流する機会を得て何度も珠洲市を訪問して自然豊かな地域に魅せられたとの事であった。珠洲市には900家屋が空き家になっており、空家の造りは木造で立派なのに驚いたそうだ。伊藤さんは芸術祭のプロジェクトに関わることになったので、出来れば空き家を宿泊施設に改修したいとの思いからNYの友人に投資家の相談をしたとのことであった。珠洲市は交通的には不便な場所に位置し、金沢からは車で2時間、東京からは能登空港を利用すれば空港から1時間だそうだが、便数が少ないとのことであった。

私は珠洲市の名前を聞いた時に最初に思い浮かんだのは、若い時分にエネルギー関係の仕事をしていた頃に北陸電力が原子力発電所の建設地として計画していたことであった。同時に、此方は比較的新しい話だが、能登空港に併設された高等学校にも多少縁があったことで、改めて珠洲市について思いを寄せた。能登空港に併設された高等学校に関しては、山梨県に本校がある学校法人日本航空学園の能登校舎のことであり、弊社は山梨県内の学生寮建替えプロジェクトの件で何度か本校にお邪魔していた。

同芸術祭のトリエンナーレは「瀬戸内」、「新潟」に続く3番目の芸術祭とのことで、私も雑誌等でその芸術祭自体の存在は知っていたが、知り合いの方が関係しているのは奥能登国際芸術祭が初めてである。この為、弊社の様な小企業でも何かお手伝いすることが出来ればと思っており、古い木造の立派な空き家の再生で伊藤朱子さんに協力できればと思っている。人の縁と言うのは不思議なもので、NYの友人から数年前に伊藤朱子さんを紹介され、その縁で現在ゴルフ場の植栽プロジェクトにチームとして取り組んでいるが、私自身は奥能登に行った事がないのだが、今回に結びつくような過去の記憶と数年前のプロジェクトが交差する縁を感じる。なお、芸術祭に向けての古民家再生プロジェクトに協力する人達に声を掛けたいと思っている。

 

 

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インバウンドか何だか分からないが、日本は制度的には宿泊施設に対しての許可は民泊以前は「ホテル営業」、「旅館営業」、「簡易宿泊所及び下宿営業」の3分類で認可を取った。しかし、現実的には、民泊と競合する宿泊施設として①ユースホステル、②ゲストハウス、③簡易宿泊所、④下宿屋、⑤ウィクリーマンション・マンスリーマンション、⑥民宿、⑦宿坊に種類分け出来る程多様性で溢れている。

昨今、人種的な垣根を超えることをダイバーシティなどと表現されてるが、日本社会はある意味形式主義の国なので、形式を整えていればある意味黙認される傾向が強い。日本人は創造性が欠如しているとかガラパゴスとか指摘されているが、日本人ほど創造性が豊かで柔軟性がある国民は世界的に見ても少ないのではないかと私は思っている。先入観なしで考えれば、日本は地震、台風、雷、火山などの災害が頻発し、然も四季が明確なので、頭が固くては生き延びて行けなかった地域と思われる。上記の宿泊施設は一部が旅館業法で規制された宿泊施設ではないが、競合施設なのは変わりがない。これに次は民泊が加わるのだから一層競争が激しくなる。競争と言えば、この言葉も日本に関しては欧米と比較して競争に晒されていないので考えが甘いと言う指摘も言い古されているが、何の世迷言かと言いたい。

更に、昨今は効率と言う言葉が我意を得たりとばかり跳梁跋扈している。勿論、効率が重要な業界においては必要と思われるので良いが、サービス産業までに効率と言う言葉が入ってくると、"おもてなし"と言う日本的なサービスとの間で整合性が取れるのか疑問が湧いてくる。尤も、民泊レベルの宿泊施設では"おもてなし"など不要と言われてしまいそうだが。効率とは意味が異なるが、日本文化とは本来無駄を究極までも削ぎ落としたものであるので、その意味から言えば効率を超えた世界観を構築しているものと考える。先の競争と言う意味では、日本人は上下大小の区別なく、良いと思ったことにベクトルが一斉に向くので、常に過当競争に晒されてきた。競争などないと言うのは全くの嘘八百だ。過当競争があるからこそ世界に通用する技術が出来るのであり、消費者の目も肥えているから本物でないと継続できない。

欧米諸国は日本は規制で進出できないと言うが、規制で進出できないのは何も海外企業だけではない事を理解していない。国内企業も然りだ。だが、上記の宿泊施設の様に色々な知恵を使って上手くグレーゾーンを探して対応するのである。尤も、この考え方は日本人特有のものと最近まで思っていたら、中国でビジネスを行っている方と話をしたときに、中国人は上に規制があると下は解決策を講じる国民と聞き、極東アジア文化なのかとも考え直した。

何れにしても、宿泊施設が絶対的に足りないので旅館業を規制緩和して民泊制度を作って対応すると言う触れ込みには疑問を呈してしまう。上記の宿坊などは民泊制度によって今後は大きく施設を拡大する計画があると言われ、思わぬ伏兵が民泊制度にはある。「敵は本能寺にあり」かも知れず、もし民泊を始めるならば日本には既に十分ある宿泊施設があることを念頭に入れて置くべきと心得えて付加価値を取り入れた事業にすることをお勧めしたい。

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タイトルをご覧になった方は食の関係と思われるかもしれないが、今回は人のことです。先日、株式会社ジャパン・アセット・アドバイザーズが発行するJAA通信と言う定期刊行物に記載されていた南一弘代表の「賞味期限をよく考えて自分作造りに励みます」と言う一文を目にした後に、元KPMG出身でその後トーマツでコンサルタントに従事し、現在リタイア生活を楽しんでいる方とご一緒する機会があり、再就職を話題にした時に人の賞味期限を感じさせる言葉を聞いたことが印象的だったのでブログに書くことにした。

人の賞味期限について最初に聞いたのは、私が世話になった方が事業で挫折し、再起を期す為に頑張っている時に、「賞味期限がある内に何とかしたい」と話された時である。私はその時には深く意識しなかったが、今回は偶然にもいくつもが重なり合って意識せざるを得なかった。同じ時期にリタイアしている友人から有効求人倍率の労働者は15-64歳の働く意欲がある者なので、私は完全に対象外だとメールが来たことにも感傷的になった面もある。しかし、働く意欲だけでは越えられない問題があるのは確かだ。少子高齢化社会なので、現在は65歳まで働かないと年金が貰えないが、今後は70歳に引き上げようとする動きがある。財政だけを見て人を全く見ていない動きには腹が立つし、若い時に一生懸命仕事をした人は年齢を経て働くと言う言葉の重さが身に染みるのである。

先のトーマツの方はCPAの資格を有する優秀な方であり、常に体を鍛えて心身の鍛錬に励んでいる姿を見て来ているので、現在の変化に対する知識の更新に追いついて行けない不安を抱き、もし間違ったらクライアントに迷惑を掛けるので再就職を敢えて行わないと言う話には我が身を振り返った。豊富な経験を拠り所にし、知識の更新も行っていると自負していたが、確かに経験の記憶も勘違いしている事があるかもしれないし、知識の更新も必要な全部を網羅していない可能性も否定できず、クライアントに迷惑を掛けていないだろうかと不安になった。

政府が主導する働き改革では高齢者も含まれているかどうかは勉強不足で不明だが、高齢者が働くのは当然と主張する連中は高齢者の不安など眼中にない様に思われ、知識の更新に不安があるなら肉体労働者にでもなれということなのかと考えてしまう。南氏も人の賞味期限は他者から無視されなければ未だ大丈夫と書いているが、それには自分造りに励むという条件付きなのは確かであろう。AIの発達で専門職が急激に奪われて行く中で、それぞれが自分造りに励むのは容易ではない。今の社会は多額の報酬を得られる時代になったが、賞味期限を過ぎた所か消費期限を過ぎても地位に拘っている人達も多く、企業の破たんを招く現象も起きてきている。経験が浅くても高額の報酬を手にすることが出来、経験があるものの知識の更新に不安を覚える良心的な人がリタイアしてしまう社会になったのは何故かと自問自答をする。

尤も、個人情報保護法も改正され、民法も改正され、消費契約法も改正され、建築基準法も改正されたり過去20年の間に多くの法律が現代社会に対応するために改正されてきている。今後も急速に変わる時代に合わせるために法律を変えざる得ないと思うが、法律の中には進歩によって改正するのではなく、逆に社会の劣化と思われる法の退行改正もある。規制の緩和と言いながら一方で規制強化も日常茶飯事だ。幾ら優秀な人でも場当たり的に法律や欧米主導の国際基準に従った制度の改正が行われたりでは知識の更新などに努力した所で賞味期限が到来するのは目に見えていると考えるざるを得ない。しかし、幾らITの時代でも更新作業は必要なのだが、更新で不具合が起きるのも確かなので、クライアントに迷惑を掛けないことを最初に心掛けていれば未だ大丈夫と思う事にした。

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東京都杉並区内の容積率違反となった底地の一部売却事件に関しては①と②で終わりにしたくない部分があったから後記として記述する。

底地を取得した不動産会社が杉並区役所の底地の売買に関して二度に亘り勧告を出したにも拘わらずに無視して関連会社の1700㎡の内420㎡を敷地を住宅販売業者に転売し、その販売業者が再度指定確認検査機関に建築確認を提出したのだが、指定確認検査機関は住宅設計に関しては問題がないので建築確認を交付したと言う記事の部分だ。

1971年に建築された3000㎡の敷地の一部420㎡に戸建て住宅が建築されて既存マンションが容積不足になったと言うからには、既存マンションが3000㎡の敷地でマンション建築の確認認可を得た時には余剰容積率はなかったという事だ。既に容積率を使ってしまった420㎡の土地に対して戸建て住宅建築の設計に問題はなかったとは摩訶不思議な事だ。もし、土地の分筆を行えば容積率に関する問題が白紙になるのが法的に可能ならば、大きな法的な不備と言える。容積率を売買できることは法的には可能だ。しかし、容積を売買して使用しない容積分を移転した場合には、売った土地の所有者は売ったよう積分を差し引いた残りの分しか使えないのは当然だ。それが逆のケースでは認められると言うのは可笑しい事だ。

指定確認検査機関が既に容積率を全部使って仕舞って余剰容積率のない土地に対して設計上問題ないから建築確認を交付したとは驚きだ。勿論、既存マンションの敷地に過去に利用されたのは分からないために建築確認を交付してしまうケースはあるのかもしれないが、建築確認の交付は単なる建物に関してだけでなく、周辺との観点からも審査するのは当然ではないか。この様な愚かな社会を作り上げたのは誰なのかと言いたい。裁判官も専門知識など知らないだろうが、法律だけしか判断しない判決など愚かのひと言だ。裁判官の劣化と出世だけしか頭にならない判事などに判決など認めたくはない。経済成長と言う幻想の為に必要な規制まで緩和して不正義な者が徳をする社会など存続する必要がないと思うのは私一人か。