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不動産は証券化で動産的な要素が加わり投資資産として扱い安くなり、また開発業者も購入者にリスクを転嫁できることになり、景気回復に国民の金を使わせるシナリオとなっている。国債同様に不動産証券化も小口化を推進する規制緩和が進んでおり、正に相続税の強化と相俟って国民の不動産に対する投資意欲は盛んになった感がある。タイトルが今昔なので比較する必要があると言われそうだが、本質から見れば手持ちの現金以外に借入して不動産開発ないしは証券化商品を購入した場合のリスクは変わらない。尤も、株やFXの様に信用取引による購入システムは不動産取引ではないので売買で実体以上に損失を被ることはないのだが、問題は不動産リートや私募ファンドの借入金比率である。配当率を上げるには借入比率を高めることなので、急激に担保評価が下がった場合のリスクは大きい。マンションを主体とするリートと私募ファンドは相続対策でアパート・マンションが需給を無視して建築ラッシュとなったので近い将来は入居率が下がる可能性があり、賃料の下落圧力が高まると担保評価に問題が出る。オフィスビルも建築ラッシュが続いており、今後はマンション・アパートと同様に担保評価で困ることは目に見えている。不動産証券化の出現によって不動産の流動化は高まったが、一方不動産の賃貸収入で生計を立てている個人や企業は需給を無視した開発の煽りを食らう事になる。20年以上前の経済バブル崩壊では不動産の価値は大幅に下落したが、不動産が証券化で金融商品となった今日では過去の様な大幅な下落があるかと言うと、正に事例として不動産の証券化の本家である米国を参考にすることが出来る。結論で言えば大幅な下落は起きる。下落率はエリアによって異なったが、一番下落率が低かったNYでも半値の2割引きになった。ちなみに、米国の不動産はリーマンショック後の暴落後に景気回復や外国人の投資に伴って上昇しているが、中国人や中国企業の投資が急激に落ちたので、最近は危うい状況にあると言われる。日本も海外投資家の影響を受ける様になったので、米国の動きが今後は参考になると思われる。

<次号に続く>

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前回、都内のファミリーマンション販売で大手不動産会社のシェアが高まり、これまでの様な中小不動産による価格破壊が消えつつあると書いたが、マンション価格が高くなりすぎて中小では手が出せなくなったのも事実だ。マーケットがグローバル経済になり、買い手が国内に留まらないと言う現象も中小不動産会社にとってはリスクを取れないのも事実だ。過去の経験など生かせないと言う現今の不動産について今昔などと書いて比較しても意味がないと言われそうだが、物事の本質を考えると何も変わっていないのに気づく。良くマーケティングで考えろと言う言葉を目にするが、マーケティングとは何かと言えば消費者の心を把握するという事になり、消費者目線で考えろで周知の事実だ。今の時代に殊更強調されるのは従来の手法では物が売れなくなったことや集客出来なくなったことだが、それは情報化の時代になって製品の情報が溢れている事やデフレ経済で一律的に給与が上がらなくなり、然も所得格差が拡大したことの社会的要因が背景に存在する。今後はデザイン思考が必要との表現も世界に稀に見る中流社会が壊れて誰もが右倣えであった時代が終わり、個別的な需要に対応せざるを得なくなったに過ぎない。本質を見る眼がなければ時代に翻弄され、大したことでもない事を尊重してしまう事になりかねない。本質的な目で民泊を見ると二つの意図が見えてくる。一つは、円安で海外から観光客が増加し、宿泊施設が足りないので、個人の住居やマンションを宿泊施設の代替として利用する事だが、これは要するに宿泊施設の非正規雇用者同様の為替変動を意識しての調整弁であると言える。二つには、聡明な方は直ぐに理解したと思うが、少子高齢化社会で過剰になりつつある住宅を維持し、且つ住宅は景気対策の重要な柱なので需要減を避けるため方策だ。この様な政策に企業が飛びつくと火傷することになる。

次に、視野を世界に拡大すると、実体経済の数倍の資金が運用先を探して市場を翻弄している世界的なバブル経済に直面する。日本の不動産も海外の投資資金を考慮しなければ需給判断に間違いが生じることになるが、海外の投資資金は逃げ足も速いので、安易にのるとやはり怪我をすることになる。尤も、不動産リートや私募ファンドの発行が増大し、オフィスビル建築などはテナント需給を無視した状況を呈しており、海外の投資資金以前に問題を抱えている。更に、不動産業界は相続対策商品ならお客が付くと言われ、住居用の投資マンションが供給過剰になってきている。金融庁がアパートローンの過剰貸し出しに警告を発したが、金融機関も貸出先がないので相続対象商品に融資が集中してしまう弊害が出てきている。今の社会は過剰包装と同じく本質を間違わせる様な見掛けを変えて如何にも新しい時代に合った商品の様に見せる技術が横行している。正に、詐欺師にとっては垂涎な社会と化している。

<次回に続く>

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かなり以前に「不動産の今昔」を書いた記憶があるのでタイトルにその2と書きました。情報化時代と言われて気が付くとふた昔前の事であり、今はIOTから更にAI、VR、AR、MRと単なる情報のスピード化やデータ保有量でなくなりました。確かに、情報化以前の時代に教育を受けた世代と情報化時代に入ってから教育を受けた世代とは、世代間ギャップ以上に多くの点で違いがあると思われますが、前者を時間軸にゆとりを持っていた世代と後者を時間軸が短くなった世代と表現を変えてみると、両者の優劣は一概に判断できないと考えられます。良く考えると、10年ひと昔が、5年ひと昔、更に3年ひと昔と事業の有効性は年々短くなってきていますが、正に情報化のなせる業であり、簡単に世界中の情報が一瞬の間に把握できることによる後発の有利さと断言できます。大学教育も私の時代には10年一日の授業でも教授の職が確保されていた時代でしたが、今は新しい技術が次々と生まれ、つい最近まで実現には長い時間が掛る考えられていた量子コンピュータも実現するなど正に2045年に起きる技術的特異点(シンギュラリティ)を予想される今日では、誰も自分の地位を保証できるものではなくなりつつあります。しかし、人の頭(知能)は技術と比較して成長していないと言われ、現代の様に時間軸が早いと逆に退化するのではないかと危惧されます。従いまして、時間に追われた世代でなく、逆に時間を持て余した世代の私が最近の不動産の動きについて過去と比較して分析することは無駄でもない様な気がしますので言及したいと思います。テーマはランダム的になることを許容していただきますが、先ずは都内のファミリーマンション販売に関してです。大手が販売戸数を増やし、今では価格さえもコントロール出来る程にシェアを拡大してきていることに驚いています。過去には大京というマンション販売会社があり、バブル経済時代に国内と海外の過剰投資で銀行管理に置かれた時に、取引先の金融機関から就任した社長がマンション価格をコントロールする為に販売シェアを拡大する戦略を採用したことがありました。当時はマンション販売はメーカーの生産・販売とは違うので出来る訳がないと思われ、実際に拡大路線が裏目となり、最終的にはオリックスによる救済を受けて系列企業になりました。その時の記憶がありましたので、都内のファミリーマンション販売が大手不動産によって寡占化が進み、価格さえも左右するかもしれない現状には驚きを隠せません。この背景には都内のマンション用地の不足があると思われ、それが続く限りは大手不動産のシェアが拡大し、販売価格にも影響が出ると思われます。

<次回に続く>

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日本の最高峰の大学と米国のアイビーリーグの大学のMBOを取得し、日本の大手不動産会社と外国の投資会社を経て不動産リートの立ち上げの経験を有する方と新年の挨拶を兼ねた情報交換を毎年行っている。年齢は未だ50才半ばなので今年も威勢の良い話を期待していたが、どうも勝手が違った。アセットマネジメント会社の代表として預かり資産残高は多く保有しており、遣ろうと思えば世界中にいる彼の人脈で投資資金を日本に持ってくることが出来る人の言葉なので実務経験がない人達とは言葉の重みが違う。その方が「今は私の経験など役に立たないと言った言葉」は衝撃的だった。大分前にブログで"人の賞味期限"についてやはりアセットマネジメント会社の代表が書いた投資家に対するレターに言及したが、今年早々の"過去の経験など役に立たない時代"を聞いた時には衝撃的だった。しかし、良く考えると経験が邪魔する時代と読みかえれば、現在の時代を考える上で参考になる。不動産ファンドなどは5年を目途に出口戦略を考えての投資を行い一定のリターンを実現してきた。昨今を見ると、出口戦略など先を考えていない投資が行われており、全く無責任と言わざるを得ないものが横行している。今の日本はグローバル経済的には世界の投資家にとって不動産の資産ポートフォリオに入っていない地域らしく、その気になれば3%位の利回りでも投資家はいると言われている。しかし、少子高齢化社会で先が見えない中で東京だけを見た投資戦略では遅かれ早かれ運用が行き詰ることは目に見えており、詐欺師でもなければ投資に躊躇するのは当然の成り行きだ。日本の経済は正に今は目先だけで動いており、"後は野になれ山となれ的な投資"が横行している。金融庁がリスクを回避させる為に金融機関に貸し出し抑制を指導した「相続対策用のアパートローンの過剰貸し付け」など典型的な目先しか考えなくなった愚かな行為だ。勿論、目先にしか考えない無責任な社会を憂いているだけでは何の解決先にもならないし、ビジネスマンはやはり無責任な学者とは違うので、現在の社会で何が起きているのかを分析し、何が今後事業として成立するかを考える必要がある。昨今はデータ主義が持て囃されており、更にデータ分析や対応にAIを導入する動きも出てきており、過去の経験が役に立たないと言わしめた背景の一つの現象が起きている。データだけで事業の課題が解決するなら人間は必要なくなるが、逆説的に考えると誰もが同じことをしたのでは利益を生ませることが出来ないという過去の経験は生きる。情報過剰の時代には信号と雑音を区別することが難しくなると言われており、更に人は情報過多に際しては気に入ったものしか興味を持たなくなるそうだ。時代の変化の時にはチャンスもあることは確かであり、目先経済が横行するならばリスクも並行して起きているので、過去の経験はリスク対策に生きてくることは確かだ。

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毎年、北海道札幌市の曹洞宗 薬王寺の田中住職の賀状を楽しみにしている。お会いする機会が少ないので賀状にて教えを乞うているのだが、今年は昨年12月に和尚が正当法要の導師を勤めた全日本仏教会会長を務めた高階瓏仙大禅師の五十回忌法要後に百人近いブラジルの参禅者を前に法話した内容が書かれていた。

『見えているのに観ていない世界がある。見ようとしなければ観えてこない心の世界がある「見る・視る・観る」 仏道は菩薩行の実践「思いやりの行い」「優しい言葉」「支え合える事」そして「気づく事」 この四つの行いをする人を菩薩と云う。今年は貴方の心に何が観えるでしょうか?』

昨年末に長く務めてきた社員が病に倒れた。私がその会社の社長を引いた後であったので、新社長の対応がどうなるか気になって越年した。この為、今年の賀状は特に心に沁みた。

合掌

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日経新聞夕刊の食ナビに「茨城県北 つけけんちんそば」について書かれた記事を見た。田舎の年越しそばは"つけけんちんそば"であったので懐かしく読んだが、記事を見ると常陸秋そばをつけけんちんで食べるのは茨城県北の風習だったのかと改めて思った。東京都港区愛宕地区に小さな木造建物で営業していた蕎麦屋では、うどんとそばの合わせ盛りのメニューがあり、これにけんちん汁を別途に注文して食べると格別に美味しかった。残念ながら環状二号線の工事で立ち退きエリアであった為に現在は閉店してしまった。尤も、店の従業員は男女とも全員が創業時から働いていると思われた高齢者であったので、道路工事の立ち退きが無くても閉店していたと思われる。この店は知る人ぞ知る店で昼時には容易に席が取れない程の繁盛店だったので閉店が惜しまれたが、仄聞したところでは従業員全員が親戚で栃木県の益子出身と聞いた。けんちん汁自体は確か鎌倉のお寺の由来と聞いたことがあるので、つけけんちん汁でそばを食う仕方が茨城県北の風習と思われる。我が家のけんちん汁とそばは祖母が作った味なので、祖母が亡くなった今ではけんちん汁は作れてもそばの打ち方は誰も継承していないので二度と味わえない代物となった。そばの打ち方は子供の頃からと大人になってからは年末に帰郷した時に見たものだが、祖母が亡くなった後に見よう見まねで作っても同じ様なそばが作れなかった。新聞で書いていた常陸秋そばを使用した店の様な硬いそばではなく、逆に言えばやわらかいそばであったが、このそばがけんちん汁に良くあった。今思えば少なくてもレシピを聞いておくべきだったと後悔している。そば粉と小麦粉とつなぎに何を使ったのか。体重を掛けて踏んだのは覚えているが、その割にはやわらかいそばだったのも今となっては不思議だ。私のパートナーが打ち方を教わりたいと言った時に出来ないから遣らない方が良いと言ったらしい。推測だが、聡明な祖母だったので私のパートナーが覚えたら祖母に変わって毎年多くのそば打ちを遣らざる得なくなることを慮って教えなかったのかと思われる。今回のブログは日経の記事を見て年末でもあったので、懐かしい祖母の"つけけんちんそば"を思い出しました。

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ブログで書くのも相応しくないかもしれないが、チケット販売が苦戦している様なので掲載した次第です。標記のコンサートは12月19日(火)19:00開始でミューザ川崎シンフォニーホールで開催されます。株式会社ぷらうの代表である石川裕一氏が協賛しているコンサートです。彼から電話でいきなり「信時潔」を知っているだろうと聞かれ、「海道東征」の作曲家だよとダメ押しされたが、教養のなさが露呈して知らないと答えるしかなかった。彼も私が興味がないと思ったか第九も演奏することを強調して要件を終えた。彼は私の事を右翼的な思想を崇拝していると誤解しており、且つ必ずしも間違いではないが、同好の士と考えている様だ。海外勤務が長く、英語も達者な人だが、近年日本を憂いる言動と活動が著しい。正に、王陽明の知行合一を実践してる生き方には敬意を表するが、育ちが良すぎるのと言動が飛躍しがちなので誤解も受けやすい面を併せ持っているのが心配でもあります。しかし、多才であり、面倒見がよく、憎めない人柄なのは確かです。私も東京での開催ならもう少しチケット販売に協力できるのだが、川崎なので最小限の協力を行いたいと思っています。

【公演の内容】

お騒がせいたしました。

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建物管理を受託している会社としては、世界中で起きた惨事を分析した本を読むことは大事と思った。今回の本の事例で最も多かったのはロシア(旧ソ連を含む)であったが、米国との競争を第一義に捉えていた為に検証して臨むのではなく、走りながら物事を進める習慣が大惨事を招いた一因でもあった。同書では日本の福島第一原子力発電所の事故に関しても取り上げており、余り報道されていない事実にも言及していたので事故の全貌が理解できた。大惨事は予兆や技術的な問題が当初からあり、小事を軽視したり、縦組織の為に折角の情報が埋もれていたりと殆どの大惨事は似た要因が共通であったのが印象的だった。特に、同書では、昨今の資本主義の経費節減と短期的な利益を追求する姿勢が必然的に惨事を招く原因と断定し、今後も起きるであろう大惨事を警告している。勿論、大惨事になると思えば誰しも対策を考えるだろうが、大惨事を招く要因として組織的な問題より人そのものに問題があると言う事実には驚かされる。その点から言えば、神道を敬う日本人は形式主義的な発想を持っているので、福一事故の時に日本人は哲学がないから原発など持つべきではないと言う言葉と関係があるのかと思ってしまう。しかし、西田幾太郎などは、現代の哲学はプラトン以降実体主義に陥っており、その間違いも指摘しているので、組織ではなく人が惨事を招くと言う分析(情報隠蔽)に対する解決策は欧米の主流な哲学では出来ないと言う答えでもある。結論的には、哲学など大それた思想ではなく、情報の共有化や小事を大事の予兆と捉える現場の意見を経営に携わる人達が取り上げることであると分析している。短期利益主義が大惨事の原因と指摘されてしまうと、先行きが絶望になって仕舞うが、AIなどを人に置き換えることで情報隠蔽を防ぐこと出来ればと思った次第だ。AIを如何に活用するか模索しているが、人の心の弱さをAIでカバーすることが大惨事に対する当面の課題かもしれない。それでも、最後には経営者や上級者レベルの人達の判断が問題になるので、AIを何処まで活用すれば大惨事を回避できるかはメビウスの輪だ。災害事故.jpg

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1年前にオフォスビルの清掃スタッフとして20代の若い男性が応募してきた。過去に専門学校に通いながら夢を実現するために20代の男性がスタッフとして働いてくれた事があったものの、弊社の清掃現場では少ない事例であった。二人目となる今回の方は東京の北部の多摩地域の職場で働いていたが、千葉の実家の都合で帰ることになり、午前中だけの仕事を求めて応募してきた。交通費が月額3万円以上になるが、清掃業界は近年慢性的に人手不足になっているので、直ぐに現場に入って貰った。清掃の仕事は以前に従事した経験があるとの事で、1週間後には一人で清掃作業を行っても大丈夫であった。主としてトイレと通路を専門に清掃する担当になったが、前任者と比較して丁寧な仕事ぶりであった。経歴書を見ると、建築的な技術も習得しており、本人が希望すれば正社員になって欲しいとも考えていた。しかし、彼を面接した担当者から彼が童話作家になる夢を持っていることを聞いていたので、敢えて正社員の話は出さなかった。その消極的な対応に反省させられることになるのだが、ガラス製造会社の面接で正社員としての採用が決まり辞職願が出た。確かに、彼の見えない所でも一所懸命に働く姿を見ていたので、ガラス職人として頑張る姿も思い描けた。仕事の最終日に鍵の返還とともにお菓子を持参してきた。短い期間であったが、ビル内の従業者に評価される仕事を行ってくれた事に頭が下がる。最近特に思うのだが、年配者は不満ばかりが多く、その割には仕事を手抜きする人が多い。若い清掃スタッフが惜しまれて去って行く姿を見ている時に、新たに設備スタッフとして雇用した年配者が現場の迷惑を省みずに現場に出ると言いながら休み続けている。何が問題なのか理由が分からない行動と設備責任者は困惑している。退職は1か月前の予告の制約があるので、会社から辞めさせられるのを待っているのではないかと推測もできる。この人物は大学卒業後に名の知れた専業企業に技術者として定年迄勤務した経歴である。年配者の無責任極まりない行動を見ると、礼儀正しい若い清掃スタッフに脱帽だ。

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世界には色々な言語があり、その言語のルーツを遡ると同じ言語起源に繋がるケースも多い。創発グループ代表として初めて書くブログには相応しくないようなタイトルと思われるかもしれないが、最近になって言語が人の思考に影響を及ぼすのではないかと考えるようになった為だ。中国語には時制がないと言われるが、中国人にとっては過去も現在も未来もなく全てが一緒だとすれば、時制を駆使する言語の民族とは時空軸が事なってしまう可能性も否定できない。勿論、ブログで指摘している言語と思考の説に関しては極論の域をでないが、共通言語を有していないと本当には理解できない現実を考えると、あながち当たらずとも遠からずかもしれない。最近、知人から知人の知人がオープンしたスペインバスク料理に誘われた。スペインのバスク地方は独特の文化を持つ人々が住んでいることは知っていたが、知人の話ではバスク語は欧州言語の共通祖先のラテン語に属していないもので、何処で発生した言語かルーツが分からないと料理店に着く前に歩きながら説明してくれた。然も、料理に関してもミシュランの三ツ星を獲得する店が多いと言われ、舌の味が肥えた民族である様だ。この為、バスク地方には世界から料理を学びに来る料理学校があり、私もTVで見たことがあるのを思い出した。東京都港区新橋の烏森神社に近い路地にオープンした小さなバスク料理店は、ベトナム系米国人の若い方がオーナーであり、日本語は喋れないので会話は専ら英語になったが、私のブロークン英語では料理が不味くなるので、誘ってくれた知人が通訳をしてくれて美味しく料理を堪能できた。確かに、バスク料理は常識に捉われない発想で基本的には成り立っている様で、美味しい上に楽しかった。店名は「TXIKI PLAKA」で、新橋2丁目の路地に所在する。オープンして未だ1ヶ月なので試運転中とのことで、現時点では広告宣伝は行っていないとのことだった。なお、言語が通じないと理解できないと言ったが、実はそうでもない経験をしている。タイに旅行した時に仕草だけで会話が出来た。その場に同席した友人は驚いていたが、岡倉天心の「アジアは一つなり」を彷彿とさせる出来事だった。言語以上に相手に対する思いやりがあれば、理解しあえると言う経験を得た。言語により思考は変わるが、互いに理解し合うと言う意思があれば、世界中の人達と仲良くなれると思われた。