今年の干支「庚子」は新しい変化の始まりを意味しているようですが、正に新型コロナウィルスのパンデミックは社会の変化を加速するのは間違いないと思われます。尤も、新しい変化の始まりは継続の否定ではなく、現状から生まれ出る変化ですので、どのような変化かは若い人たちを観察すれば見えてくると思料します。時間軸が早くなったのはコンピューターが小型化し、その能力が向上したことからであり、ドックイヤーがキャッツイヤーになり、今が?イヤーと表現するほど短くなっています。特に、最近の若い人は"瞬"と言う表現を好むらしく、動画も短い時間ほど人気があり、かつ視覚的に理解できることを好む様です。私の学生時代にマクルーハンと言う学者が文字から映像の時代になることを予言していましたが、その映像に時間が加わったのが今の社会かもしれません。読んだ本でネット社会は過去と現在の区別がない状態と指摘し、流行の概念も変化する一つかもしれません。10代から20代の若い世代はゲームをする者が多いと言われ、その延長で物事を考えるのですべてにスピード感を求められることと途中でシナリオやタイトルを変更して対応することが必要となるようです。今回の新型コロナウィルスで企業がテレワーク、リモートオフィス、サテライトでの仕事に切り替えて感染に対する接触減少に努めましたが、日本は天変地異の発生率も大きいので、政府の唱える労働改革が違った面で推進されると思われます。勤務インフラが変われば、それに伴って多くの関連事項が消滅したり、増加したりすることになります。飲み会なども店に集まってすることが当たり前であったのに今回の感染症では、各自が別な場所でネットを通して飲み会を開いたのを契機に離れた場所で飲み会を開催することも出て来る変化もありそうです。今回の緊急事態宣言以前にバーテンダーをバーチャル化した店が出てきていますが、ロボットアームなどの活用により、バーテンダーが遠隔操作でお客を相手にする店も増えるかもししれません。学校教育はface to face からZOOMなどを利用しての講義になり、チャットの併用で講義と質問を行えば、教室が不要になります。勿論、バーチャルやリモートでは出来ない職種もありますので、どの位変化するかは予測が難しいことと、問題はテレワークで分かった労働基準法による時間的な制約や日本の家屋の狭さも今後は問題となってくると思われます。何れにしても、今回の新型コロナウィルスの問題は社会の仕組みを大きく変えることは間違いなく、今後の動きには目が離せない。
コロナウイルスで海外帰国者に対する無責任な対応
SNS情報など間違った情報が多いので本件も確認して書いている訳ではないことを了承いただきたいが、本当ならばこの国の為政者の姿勢が疑われる問題だ。私が目にした記事の内容は、コロナウィルスの感染が分かってる国からの帰国者に対して14日間の隔離対応を求めているが、その隔離対応に対しては帰国者任せで何らの便宜も費用もなく、自己対応とのことだが、中国の武漢から帰国した人達の対応を見ていたので真坂と思った次第だ。休校中にスペインに家族旅行した人が感染していた報道があり、隔離を守らないで沖縄に帰ったとんでもない家族と思ったが、休校中にとの問題を除けば分からないでもないと思った次第だ。隔離の問題は、帰国した人の降りた空港と自宅との関係を考慮していない為と推定される。しかし、地方からの海外旅行に関しては、海外便の地方航空の発着率が増加したとはいえ、多くがハブ空港に来てから海外に出るので、帰国も同様にハブ空港から地方航空に乗り継ぐか電車を利用して自宅に帰ることになる。問題は降りた国際空港から自宅が遠い時だ。2週間泊まれる宿泊施設が用意されていないとコロナ感染の有無が分からない人を宿泊させてくれるかどうかだ。旅行客が減少したので、ホテルや旅館は困ってるので安く泊まれる位の想像力で自費負担や自前で止まる場所を探すことで良いと決まったと推定される。幾らお客が少ないと言ってもコレラ感染の疑いがあれば、従業員の感染の可能性もあり、面倒なことになるので、資金の余裕があれば受けいれないのが本音だ。首都封鎖も放置した責任が問われることや補償などの金の問題で決断できないでいる。封鎖をすれば経済に打撃となると言っているが、既に経済に打撃となっている。今更打撃などふざけるなと言いたい。尤も、コロナ騒ぎに桜見の会を開く女を妻にした位の首相だから危機感はないのか。効果の少ない洗えるマスクの配布など時代錯誤の頭には呆れる。友人がメールで安倍政権の支持者だが、今回のコロナ対応を見て自分の家族は自分で守るしかないと言ってきた。政治家は経営者以上に決断が出来なければ最悪だ。その最悪を今見ていると思うと情けなくなる。
カミユの作品「ペスト」と新コロナウィルス
学生時代に読んだカミユの作品「ペスト」を今回のコロナウィルスのパンデミックで今度は電子書籍で読み直した。フィクションではあるが、欧州では何度も襲われたペストなので資料も豊富であるためかノンフィクションと思えるほどリアリティがあった。感染症と見做すまでの人間模様はいつの時でも同じで、その後に感染症と判断してからの人々の動きも今回のコロナウィルスと変わらない。カミユの作品は「異邦人」を読んだのが最初で映画も見た。異邦人を読んだ時には違和感のある作品であったが、それは不条理をテーマにした内容のための思われる。異邦人の不条理とペストの不条理とでは同じ不条理でも異なり、ペストは自然の摂理とは何かとまで考えさせられる。不条理は良く考えると身近な所にも存在し、人間社会も自然も不条理で構成されている感がある。ペストの中に「天災と戦争は多いのに人は何時も無用意に受け入れる」との一文には、進化するのに必要な忘れると言う人の本質の問題であるので避けられない宿命を感じさせる。尤も、多くの細菌やウィルスは少しずつ変異して出現するので、それに対応するのに時間が掛かり、その期間が大体1年位なのは何か自然のサイクルと関係があるのかと考えて仕舞う。感染症で何時も考えるのは私自身の家の歴史だ。私の実家は次男の家系だが、大正時代に本家として位置づけられた。その理由はスペイン風邪だ。一族の本家は大正時代のスペイン風邪で、祖父母、父親と子供達が死亡した。唯一生き残ったのが嫁の母親一人と言う悲惨な出来事であった。この家系の血脈のためか子供のころの私はインフルエンザに悉く罹り、風邪の休校で遊んだ記憶がない。尤も、私の母にとってはスペイン風邪で生き残った母親が伯母に当たるので、本来ならば私のDNAには感染症に強い部分もあると思われる。母の父親、私にとって外祖父は生き残った母親の弟であり、姉の子供のお墓を守って貰うために私の母を父に嫁がせたとも言われてる。墓守に来たためか私の母90代半ばで矍鑠としている。話が横道にそれたが、自然の摂理という不条理は善悪を選ばない。戦争でも同じだが、終戦間際や感染症終息前後に亡くなる人は如何なる星の下に生まれてきたのか。勿論、それ自体が不条理なのだが、戦争と感染症に共通なことは、危害から逃げようとする人に襲い掛かり、自棄になったなった訳ではないが、その状況を受け入れた人は危害から逃れられる現象が見受けられる。データ的に裏付けがあるわけではないので、科学的根拠を示せと言われたら困る。君子危うきに近寄らずも感染症には言える教訓でもある。この様に書いてくると何を言いたいのかと叱られそうだが、人の社会の感染症に対する対応はITなどの機器を使って感染者を追跡して感染経路を発見することは出来る様になったが、基本的なことでは何も変わっていなく、間違いを犯し続けて感染が拡大するということだ。
愚かな判断の論説
新聞の論説で日本がコロナウィルスの疫学調査にしたのは正当であり、その後の感染拡大で検査を保険適用にしたが、指定医療機関による承認による検査にしたのも治療薬がない状況では正しい選択だったと新聞の論説委員が書いている記事を目にした。この様な愚かな判断をする者が堂々と自説を展開しているのを目にすると新聞の将来はないと思われる。そもそも論だが、検査の意味は何かという視点が違っている。感染者を隔離して感染を広がるのを防ぐのが目的だ。水際対策も出来ていない状況下で何も情報がないのに検査もせずに何が分かるのか。中国が強制的に武漢を封鎖したことも理解できていないで政府の対策を擁護する馬鹿者の主張だ。有効な治療薬がないのに検査をしても意味がないとは暴論極まりない。現在の感染拡大は東京オリンピック開催と習近平来日のイベントを優先し、国民の健康を犠牲にした安倍政権の誤った決断だ。結果的に、習近平の来日が消え、東京オリンピック開催も風前の灯火だ。憲法にも政府は国民の健康を守る義務があると書かれてる。幾ら憲法改正論者とはいえ、現行憲法を無視した決断をする政府は憲法違反だ。今回のコロナウィルス騒動はWHOによる遅かりしパンデミック宣言により、日本にとっては東日本大震災とリーマンショック以上に経済的な影響は避けられない。安倍政権を天罰と言ってるくらいでは済まない経済的な低下が起きてくる。コロナウィルス倒産という標語も出てきており、その影響は計り知れない。危機に陥って初めて愚かな指導者を持った不運を国民は知ることになる。小選挙区制の導入により日本の政治家に人材が集まらなくなり、その政治家が官僚の人事を壟断して能力のある官僚が排除された。グローバル経済時代のリスク管理とは何かを問う時期に来た様だ。米国の友人のメールではNY慶応学院の校長が英国人で、今回のコロナウィルス騒動で早々と学院を休校にしたのを見て英国人の危機管理は大したものと言ってきたが、確かに英国は歴史的にコレラ対策で公衆衛生制度を確立した国だ。日本の対策など危険極まりないといった目で見ているのだろう。日本は情けない政府だ。
台湾で見るコロナウィルス対策の統治力と日本
台湾は前回のコロナウィルのSARSで被害を受けたこともあるが、今回のコロナウィルスの対応に関しては見事と言える。正に水際で防いだのだが、台湾と中国との経済的な交流を考えると今回のコロナウィルスの国内感染を防ぐのは難しかったと思料する。台湾には戦後の日本が喪失した明治時代の日本の良き部分が残っている様な気がしてならない。日本の感染症対策で有名なのは、日清戦争後の帰還兵達に対する防疫対策だ。帰郷の念が強い兵士たちを孤島に一定期間隔離して当時中国大陸で感染していたコレラなどを防ぐために検査して帰郷させた措置だ。責任者は医師でもあった後藤新平だ。後藤新平は台湾の統治にも関わった人物なのは偶然と言えるだろうか。後藤の精神が台湾に根付いていたから台湾の人々の統治能力が高いのかもしれない。勿論、後藤新平の時代でも防疫対策に対しては非難する人が多かったので、当時の日本人の意識全体が高かった訳ではない。翻って、日本の今回のコロナウィルス対策は東京オリンピック開催や習近平来日予定などが相俟ってSARSの時に影響が少なかった経験をもとにした判断で水際対策を積極的に行わなかった。この時には感染症の専門家の意見を聞かなかったと推測される。日本は医療保険制度が充実しているので、欧米と比べて感染症を防ぐ地理的環境にはある。しかし、感染症を水際で防ぐことや国内感染の拡大を止めるのは環境以上に政治家の決断で決まるのは自明である。台湾の場合にはSARSの時に担当した人物が祭政権の近く居た事も幸運であったと思われる。日本の場合は長期政権で裸の王様になりつつあった安倍首相とポスト安倍を巡っての動きもあり、更に上記のイベントがあるので悲観的な情報より楽観的な情報をもとに判断したと考えられる。これは国民よりイベントを重視しての判断であり、典型的な官僚的な判断である。習近平の来日中止と相俟って急遽コロナウィルス対策を開始したが、時遅しなの自明の理である。今頃なって水際来策を強化した所で、既に国内に入ってしまったコロナウィルスには意味がない。救いは米国の様に医療格差がなく国民は積極的に医療機関に掛かるので、感染拡大と死亡率は抑えられると推定される。また、効果があると言われる200万人に投与出来る「アビガン」も準備されているので、副作用は兎も角緊急的には感染症の拡大阻止には有効だ。この為、今後は感染拡大以上に緊急対応に対する経済的な影響に対策が移ると思われる。医療格差はないが所得格差は米国の後追いした日本なので、その影響の方が大きいと推定される。貯えも少ない非正規雇用などの人達にとって仕事がない状況の方がウィルスより怖い。今回のコロナウィルス対策では官僚から人事権を取り上げて媚を売る官僚を出世させたツケが回ってきた。台湾の祭政権でも見習えと言いたい。
電力自由化の影響
台風15号の上陸で千葉県では電柱等が倒壊して広い範囲で停電が起き、然も予想外に復旧が遅れた。報道では送電線の老朽化を原因としていたが、送電線の更新や樹木の伐採に対する投資を削減していた結果が引き起こしたものであり、その原因は福島原子力第一発電所の事故と同様に電力の自由化による設備投資の削減が原因である。勿論、電力自由化前の電力会社は国策によって必要以上の設備投資を行ってきたのだが、その理由は国民の為ではなく企業に対する電力の安定供給と電力費用の軽減を目的としたものであった。しかし、グローバル経済では企業に対する更なる費用の軽減が求められるようになり、競争と効率化により電力の自由化が潮流となった。米国が電力自由化に先駆けたが、その米国で電力供給や派生した事故で問題が起きており、電力会社の公営化も議論するようになってきている。特に、米国のカルフォルニアの電力会社が老朽化した送電線が引き起こす山火事を防ぐために計画停電を実施したことなどからカルフォルニア州の経済基盤まで揺るがす大事になっている。計画停電で山火事を防ぐなど論外だが、それでも山火事を防げなかったことは、計画停電以上に企業の誘致に影響が出ることになり、最悪な状況となっている。翻って、日本の場合も電力自由化の影響で、千葉県の様に送電線の老朽化等の問題で電力復旧が長期間に及ぶと企業活動にも被害が生じ、千葉県から撤退する企業も出て来ることが予想される。この問題は千葉県だけではなく、日本全域に関係するが、米国では太陽光などクリーンエネルギーの導入が電力会社の経営を圧迫している為とも指摘されており、全く日本も米国の後追いをしているので、早晩には米国で起きている問題も波及してくると思われる。行き過ぎた資本主義の再考の動きも出てきており、日本周辺の海水温度の上昇による異常気象に対するインフラ造りも必要な事から環境に対する視点をを考慮した企業の姿勢が問われることになりそうだ。
国民の祝日に対する企業の対応と有給休暇の消化対策
先日、ドトールが年間の祝・祭日を実際の日数とは違う設定にし、有給休暇の取得を社員に与えるとの記事を読んだ。確かに、近年は祝・祭日が増加し、日曜日に当たる場合には月曜日が振替休日となり、相当の休日である。法律に疎い私は国が決めた祝・祭日、その振替日は当然休める義務があると思っていたのだが、良く考えると業種によっては様々な休日の取り方を採用しており、完全休日二日制も金融機関み合わせて多くの企業が実施することになった。学校などは公立は週休二日制だが、私立は土曜日に授業を行っている学校もある。上記で業種によってはと書いたが、建築現場は土曜日に休んでいる所はない。勿論、交代制のシフトで休日を与えているのかも知れないが、建物管理なども土曜日を隔週休日としている。何故この様なことを書くかと言うと、有給休暇を取らせないと罰金が科せられる法律が出来たからで、その規制をクリアするのに振替祭日を祭日としないことにしてその日を有給休暇取扱いにすれば良いのではないかと思ったからだ。この前提には労働組合があれば労使によって就業規則を変える必要があり、労働組合がなければ取締役会で就業規則の変更を決議する必要はある。
何れにしても、社会主義でもないのに国に必要以上の義務を押し付けられることは企業活動の面から断固として拒否すべきであり、労働者の最低賃金の引き上げなど発展途上国でもないのに政府の無能の為に企業経営の自由度を奪われるのは筋違いである。尤も、ゴールドマンサックス出身で日本の中小企業の社長になった人物が英国の最低賃金のデータを使って日本の中小企業は保護されているから効率経営が出来ずにゾンビ企業として生き残っていると指摘し、日本政府の最低賃金引き上げは正しいと主張している。この人物は日本人は私の様に世界のデータを分析しないで最低賃金が上がると会社が潰れると騒いでいるが、日本経済の停滞は中小企業の手厚い保護の為と断言している。一見すれば正しいと勘違いする意見だが、英国は経済的に成功したのかと言いたい。サッチャーの時に金融ビックバンを行ったが、その後は再度経済の低迷に陥っている。日本の中小企業は大手企業の不景気の緩衝材となり、社会の安定につながる失業率の低さを維持している。新自由主義の誤った考え方で企業が効率一辺倒になった結果が経済格差を産み、犯罪を増加させた。GS上がりの人物は企業合併が経営の効率化を生むと言っているが、合併で人員整理された人達の雇用は何処に行くかを示していない。勿論、合併による資本増加で新規事業や企業買収の可能性もあることは否定しないが、日本企業の強さは競争力である。同じ業種に多くの企業が参入しているので、見た目以上に激しい競争が生じている。問題は経済がグローバルになったので、取引先の多様性が求められ、世界市場に否応なく巻き込まれてしまったことだ。特に、経済活動を知らない秘書上がりの政治家や企業経験が少ない二世政治家が増え、官僚も世界にモデルのない時代になったので、欧米に追従することしか出来ず、中小企業を保護する所か足を引っ張る改革しか出来ていない現実だ。それに輪を掛けて得体のしれない外国人の意見を明治維新時の様に有難がっている姿だ。常識を見直すことが今に時代に必要であり、祝・祭日及び振替休日を国の言う通りに実施することは愚の骨の様だ。
不動産狂想曲
某誌の8月号には上場企業の新興不動産業会社を取り上げた記事が掲載されており、内容は企業の財務を分析したものであった。スルガ銀行のシェアハウスに係る問題融資に端を発してレオパレス、大和ハウスなど借り上げ方式のマンションを扱っている会社の施工不良に続き、不動産会社の滞留在庫にメスが入れられてきている。東京オリンピック開催を材料にした不動産の価格上昇はミニバブル現象を引き起こして来ており、今やフラット35と言う低金利住宅ローンの搾取事件にまで及んで来ている。上記の新興不動産会社の財務分析によれば、各社は仕入れた土地建物や建築した建物の売却が進まずに滞留在庫は1社あたり数百億円規模と言われ、このままでは各社とも資金繰りに窮することになると警鐘を鳴らしている。滞留在庫の資金は金融機関からの借り入れと社債の発行だが、金融機関は実情を把握しており、現在以上の融資追加には慎重になっており、今後の資金繰りには増資や社債の発行と見られるが、これに関しても簡単には行かないと見られている。滞留在庫を処分するには損失を覚悟しなければならないが、バブル経済崩壊後には損失隠しの金融商品があったが、今回はどの様な手品で苦境を脱するのか興味深い。翻って、東京都の港区虎ノ門エリアは大規模開発が進められており、その中でも日比谷線虎ノ門駅に直結する虎ノ門ステーションビルの開発、更には虎ノ門・麻布台プロジェクトであり、同プロジェクトは東京メトロ日比谷線神谷町駅と同南北線六本木一丁目駅を地下で結ぶ此れまでになく圧倒的にスケールが大きい。この様な報道や現地の動きを見ていると、日本人の気質から冷静に状況判断を期待しても無理かなと思われる。札幌に大きな寺院を運営する知人の年賀状に正しいと言う字は一度止まって考えると書いてあったことを思い出した。漢字と言うのは流石に英語などと違って含蓄があると思う。グローバル社会になって英語の重要性が認識されている反面、漢字に関しては等閑にされている感があるが、思慮深く考えるには東洋の知も重要だ。
最初の部下の訃報
私が父の経営する会社に入り統括部長の職を担っていた時に入社した社員がいる。私自身はサラリーマン生活を経て仲間と起業していたが、両親の希望により父が経営する会社に入ることになった。その4年後に私の面接で入社してきたのが鈴木康広君であった。彼は未だ証券会社に勤務していたので、休日の土曜日の面接であった。彼の奥さんが以前に会社に勤務していた縁で転職するのに当社を選んだのだが、32歳の年齢の割に老けていたのが最初の印象であった。両親が秋田出身なので、東京生まれながら地方出の雰囲気があり、後日聞いた話では子供の頃に休みになると秋田で長期間過ごしていたことが影響していたと思われた。人の縁とは不思議なもので、彼の育った江東区の住まいの近所に両親の知り合いが住んでおり、私も東京の大学に出てきた時には何度か訪問した場所であった。バブル経済時代の証券マンなので給与明細を見た時には同世代では貰えない金額であり、当社に入社した場合に大分減給することになる為に何度か念を押した。転職理由は子供との時間を持ちたいことと健康問題であり、奥さん自身も知っていたので、一回目だけの面接で決めた。本来ならば総務部長の面接を経るのだが、面接の経緯が社内の女性社員による相談から始まり、取り敢えず面接してからと思ったが、性格が良いので私が独断で採用を決めて社長の事後承諾を得た。この為、総務部長は気分を害したかもしれないが、会社で社長の息子として多くの社員から敬遠されていたので、私にとっては気の許せる最初の部下になった。それから20年以上、私の分身の様に働き、どの様な時でも私を裏切るような行動を取らなかった。しかし、50台半ば過ぎて発病し、1年8ヶ月の闘病後に亡くなった。今年の6月中旬に病院帰りに会社に立ち寄って会ったのが最後になった。今思えば、正にお別れに来たとの表現がピッタリであった。病気の時に電話でも何度か話したが、病気は第四ステージであると達観した様に説明し平然とした態度であった。6月に来社した際にも自分の病気より、私のワイフの病気を気に掛けると同時に私の健康に関しても心配してくれた。金銭的に執着しない上司の下で働いたために彼には十分な待遇を与えなかったことが今になって悔やまれる。商業高校出身なので、全く建築不動産には知識経験がなかったが、新橋ビルの建築には解体から建設までの2年間現場に従事させたので、その経験が生きて建物管理の責任者として能力を発揮してくれた。偶然にも彼の証券マン時代の後輩もビルメンテナンス業界に転職していたので、後輩とのコラボで会社に貢献してくれた。その他にも、地方の仕事には私の運転手として働いてくれたほか、私の道楽で行ったゴルフ場の仕事にも積極的に手伝ってくれた。歌が上手で、兄の会社の忘年会に参加した時に優勝して顰蹙を買った時の事も懐かしく思い出される。仕事は一人では出来ない。分かってくれる部下や仲間が居て始めて良い仕事が出来る。時代の変化で知識の更新が必要な時にまた一人私の片腕ともいえる部下が亡くなった。40代の時に一生懸命勉強してマンション管理に係る国家試験の業務主任者の資格を取り、合格が分かった時に私に第一報を知らせてくれたのも懐かしい記憶だ。楽しく明るい酒だったが、結果的には命を縮めた。合掌。
有森裕子さんの講演を聞いて
若い方だとマラソンランナーのオリンピックのメダリスト、然も2回(銀、銅)取った方と知らない人も多いかもしれないが、私の世代だと女子マラソンで活躍した最初の女性の印象が強い。今回、保育事業の大手のJPホールディングスが社員の為に開催した有森さんの講演に参加し、謦咳に接することが出来た。有森さんは引退後の仕事の一つに講演を行っていることもあり、非常に話が上手だった。私は過去に雑誌か何かで有森さんがマラソンランナーとしては遅咲きで必ずしもエリート街道を歩んだ選手でない事を記憶していたが、講演の内容は正に自分の頑張り人生の話に終始していた。話は単なる自慢話ではなく、普通の人が長所を褒められれば本当に頑張れるかであり、それを面白可笑しく語る姿には、一つの事を成し遂げた人が語る言葉として説得力が違う事を改めて思い知らされた。特に、有森さんは、出身地が岡山県で、私のワイフの父親の実家が岡山県井原市であるので、要所要所において岡山弁で話されたのが懐かしくもあり、岡山弁独特の方言に笑いを誘われた。しかし、有森さんが高校の1年時に陸上部の監督に入部を何度も断られたにも拘わらず、執拗に粘り、監督が根負けして入部出来た話には非凡な人と思えた。私自身を振り返ると有森さんと違って器用貧乏なのが災いし、中学時代に陸上競技でも短距離、走り幅飛び、走り高跳びの選手として選ばれたがその後は夢中になって取り組むこともなく終わったことを思い出した。有森さんは褒めて伸ばす必要性を強調し、多くの監督と出会ったが全て長所を褒めて伸ばす方式であり、小出監督などは褒める天才であり、欠点まで長所に言い換える人と語った。人を育てる仕事は学校ばかりではなく、企業も同様である。企業は人なりと言われるが、金融資本主義と言われる時代になって久しいが、労働の流動化に伴って会社で人を育てることには熱心でなく、出来る人達を雇用する流れに変わった。有森さんの話を聞くと改めて褒めて人を育てられる会社が長く存続できる企業と思った次第である。