未分類

先日、NHKの現代クローズアップで先端医療技術の承認が米国と比べて大幅に遅く、医療現場で支障が出ていることを採り上げていた。日本のある会社が先端医療器具を開発して承認の手続きを進めようとしたら、基本的な問題で立ち往生してしまい、米国の承認に活路を求めて窮地を脱したことが放送されていた。米国の承認システムは専門家を配置し、承認期限を明確にしたもので、承認を受けようとした日本の会社は目を瞠ったそうだ。先端医療の承認現場だけでなく、日本の行政組織は至るところで疲弊しており、今の日本社会の閉塞感は全て行政組織が作り出したと言っても過言ではない。日本の行政組織が疲弊した原因の一つに行政組織の幹部に文系出身が圧倒的に多いことと考えられる。特に、法学部出身者を多く配置した弊害と断定できる。我々以上の世代では情報化に関して文系と理系の出身では大きな差が出てきている。理系の出身者は80歳を越えても常に新しい技術などに興味を持つが、文系出身者は50歳位でもPCなどに関して積極的に学ぶ姿勢に欠ける。公認会計士や弁護士という困難な国家試験を取得した連中でも同様であることを考えると、今の行政組織の重大な欠点が見えてくる。私が大学を卒業して10年位経った後に母校の大学の研究室を訪問した時に教授からカリキュラムが我々が学んだ時にと違い2学科を学ぶ様になったことを聞いた。その理由は、従来の学科単位では新しい時代には通用しないためとのことであった。それから20年以上の時間が経過したので、今の若い方は我々世代と頭の中身が違うと思っている。しかし、米国では古くから大学の専攻途中に大学を変わる事は勿論、専攻学部も変えられる教育システムであり、最近では3学科の学問を学ぶ必要性を打ち出している様だ。推測であるが、米国の映画を見ても非常に科学的であり、あらゆる部門に多才な者が出現するのは文系と理系のバランスが良く配置された社会組織だから、先の先端医療の承認システムに関しても日本が敵わないと考えられる。優秀な人とは一面的な学問しか学ばない人ではなく、多岐にわたった知識を有している人を指すのであり、その様な人でなければ急激に発展する情報化社会の指導者にはなれないと思う。その様に考えると大学で2学科を学んだ人達や更に3学科を学んできた多面的な発想を出せる世代が主要な地位に就くまで日本の社会は停滞すると予想できる。

未分類

改革派首長と地方議会が対立している。もともと地方の首長選挙は市町村を二分して行なわれることが多いので、選挙後に議会の多数を握っている首長の当選でないと議会がスムーズに運ばないケースはこれまでも多かった。地方には自立した選挙民とでも言える存在が少数派なので、首長が改革を行なうのに必要な議員の支持を取り付けることは困難である。先般、市長と市職員の報酬の引き下げを議会で可決したが、議員の報酬は否決した新聞記事を見た。全国の市町村が財政難の折、議員が自分達の歳費だけ減額しないと言う現実を見る限り議会制民主主義の限界を感じる。勿論、先の議員報酬削減の否決結果を見て選挙民は議会のリコールを求めたにしても「自立した選挙民」が少数派の限り、地縁血縁の選挙で再度議員の多くは返り咲いてくるので、意味を持たない絶望感がある。議会制民主主義が欠点を抱えながら存続してきたのは、これ以上の方法が見出せなかったからだが、情報化の時代になってヒトラーが指摘した民衆「群盲像をなでる」の無知から抜け出せる期待が出てきた。先の「自立した選挙民」に成長するためには政治の世界で開示されなかった多くの情報が開示・暴露されることが必要であったからである。最近、世界を驚かせた「ウィキリークス」の米国外交電報文書の暴露などは典型的な「自立した選挙民」の出現には欠かせないと考えられる。日本には、古来より「本音」と「建前」と言う二律背反した言葉があるので、庶民が知らなくても良い事は聞きたくないと言う風潮がある。しかし、この風潮が政治を悪くし、行政の無駄を作ってきたことを選挙民は自省しなければならない。何れにしても、民衆は多くの情報源によって真偽を判断する事は可能になって来たので、アジテーター類の政治屋に騙されない「自立した選挙民」になる必要がある。

未分類

人でも物でもニセモノが社会を跳梁跋扈している。ニセモノが横行した背景には大学のビジネススクールのMBA資格者に由来するという説もある。その理由の一つには、ビジネススクールのカリキュラムが「科学的・学術的な業務モデル」で組まれており、多くのMBA出身者が会社の重要な地位に付く様になってより実務的・専門的な事柄が軽視された結果であると言われている。しかし、この現象はここ十数年の出来事であり、私の知る限りは年配者のMBA資格者は実務的・専門的な事柄を重視していた。昨今のニセモノの横行に関してはデータ重視の統計的な手法が重要な地位を占めてきた以降と考えると辻褄が合うことが分かる。この背景にはパソコンの性能向上によるデータ分析手法が金融資本主義の効率経営と相俟って実務家・専門家軽視となる若いMBA資格者の出現があったと考えられる。ニセモノの出現はMBA資格者を始めとしてあらゆる専門職に出現し、その結果社会にニセモノが横行し、人々は"ホンモノ"を探すようになった。しかし、始末が悪いのは物なら見分けるのに苦労はしないが、人間のニセモノは容易に見分ける事が出来ないので困ることになる。勿論、当の本人はニセモノと思っていないかもしれないので更に厄介である。尤も、物の中には"ホンモノ"の"ニセモノ"もあることに気が付いている人もいる。これが何かと言うと、ブランド品の製作を新興国などに発注した結果、新興国の更に下請け会社が"ホンモノ"を"ニセモノ"として闇で売るのである。グローバル経済が生んだマイナス面であろう。何れにしても、何がホンモノで何がニセモノかを見分けるのは簡単ではなく、プレゼンテーションが旨い人や会社に仕事を任せている間はホンモノよりニセモノが横行する時代と思われる。

未分類

子供の頃父親から法律は常識である。法律に触れるかどうかの判断は常識なことかどうかを判断すれば大きな間違いがないと指摘された。それ以来、大学で法律を専門的に学んだ訳ではないが、人生において誤った判断はしていない。裁判員制度の導入で世間が喧しくなっている。法律家と称する裁判官の判決より裁判員の方が死刑判決が多い事を指摘して世界の趨勢から逆行していると批判している人もいる。人の生死を左右する判決には法律の専門家に任せるべきとの論調もある。しかし、良く考えると裁判で訴訟を行なった人が少ないから今の裁判が常識に欠けた裁判官によって多くの判決が出ている事を知らないで言える批判が多いと思われる。小泉改革の悪しき一例として裁判の効率(スピード化)がある。効率よく処理した裁判官が出世できるシステムに変えたことにより、刑事事件においては犯罪者の量刑が軽い判決となり、民事事件においては和解を受け入れなかった方に重い判決が出るよになった。驚くべき事である。それが一審に関しては、裁判員制度により刑事事件に関しては是正される可能性が出てきたから、社会人として常識に欠けた裁判官の判決よりはましになると思われる。勿論、裁判員制度が定着し、弁護士も裁判員制度に慣れて来ると米国の様に弁護士の作為的な演出で裁判員の理性的な判断を誤らしてしまう可能性もない訳ではない。しかし、現状では裁判員の判決の方が裁判官より常識に適った判決になると思われるので、裁判員制度を支持したいと思う。そう言えば、最近、裁判官が裁判員の死刑判決に対し、被告人に上告を勧めたことが報道されていた。この裁判官の発言に対してマスコミは裁判官のコメントを掲載していなかったので発言に対する前代未聞の理由は分からないが、この行動にも裁判官の非常識が分かる。マスコミなどは裁判員が下さした死刑判決に対して被告人の上告により裁判員の心の負担が軽くなることを考えての発言であると解釈していた。私はそれは事実なのかと考えてしまう。反省のない凶悪犯の被告人なら延命するために当然上告が予想されるので、裁判官の発言は蛇足と思われる。このため、推測でしかないが、この裁判官が死刑反対論者と考えれば、裁判員の判決が裁判官の判決より死刑の場合が多いことに対する警鐘の意味で発言したと解釈すれば理解できる。死刑反対論者の裁判官が凶悪犯を社会に戻して再度悲劇が起こるケースを考えると憤りを感じる。若い頃に凶悪な殺人を犯す人は遺伝子的に異常がある人であると書かれた本を読んだことがあった。もしそれが科学的に事実なら医学的に改善しなければ再犯の可能性がある訳なので、単なる法律論で片付けられる話ではない。裁判の世界に効率を持ち込むより、医学的や科学データ的、更に遺伝子的な判断材料を持ち込んで判決する方が重要と思われる。この様な意見は人権的な問題として反対を受けるが、犯罪者に人権があるかと言いたい。被害者の家族を考えたら犯罪者の人権など擁護するに値しない。

未分類

柳田法務大臣の舌下事件が世間を騒がせているが、柳田国会議員が法務大臣に就任した経緯の報道で田中角栄の悪夢が蘇えってきたと思った。柳田国会議員は厚労畑の族議員であり、法務関係は門外漢なのに法務大臣に就任させた管総理大臣、仙谷官房長官、そして岡田幹事長の政治姿勢は田中角栄が日本を悪くした政治を継承していると愕然とした。今日のように何故官僚が政治家を超えた力を持つようになったのかは、田中角栄と言う政治家が、いや政治屋が官僚をコントロール出来ない大臣を作ったことから始まったのである。それ以前の佐藤栄作までは、どんなに自民党総裁選で協力した国会議員でも大臣には就任させなかった。佐藤栄作までは大臣の存在を理解していたからであった。ところが、田中角栄になった途端に総裁選の論功報償的な大臣就任で内閣を作ってからその後の総理大臣は皆その遣り方を踏襲してきた。そして多く大臣就任で「私はこの分野はあまり知らないので、今後は勉強して役目に励みます」と言う言葉を誰も疑問もなしに受け入れてきたのである。国会議員には自分が遣りたい政策を勉強する場があり、少なくてもその政策勉強の場に属する委員会とは別な大臣に就任する事は国民のためになることではないので、本来なら断るべきなのである。しかし、田中角栄が「優秀な官僚がいるので大臣など誰でも良い」と言う考え方が、失敗しても責任を取らなくても良い官僚に政治を丸投げしたツケが今の日本の現状である。その事の反省なくして日本再生はないのだが、民主党政権になっても田中角栄の様な政治を行なっていたのでは、仕分け作業など行っても意味がないと言える。少なくても、大臣に就任させるには、その行政の仕組みや在り方を熟知したものでなければ改革や予算の餞別など出来るわけがない。門外漢の大臣が就任すれば官僚は大臣を好きな様にコントロールできるので万々歳であろう。尤も、前原前国交省大臣・現外務大臣の様に何も分からないのに主導権を握ろうとする大臣は最悪であり、尚更官僚が自分達が主導権を握らなければと思うようになっているので始末が悪い。何れにしても、日本の政治が何処で間違ったかを検証するには田中角栄と言う人物に焦点を当てて振り返ることが重要である。決して明治維新に遡ることではないのである。

未分類

民主仕分け人・蓮舫と民間仕分け人の弁護士との見解の違いの遣り取り報道で、問題解決に何でも弁護士起用が間違いであることが明確になったと思われる。不思議なのは昨今、弁護士をスーパーマンの様に色々な問題解決に起用していることである。私の経験から言えば、弁護士は法律には詳しいが、議論の対象となる業種に対する知識は門外漢であり、一般の大衆と変わらないレベルである。勿論、難関の司法試験に合格するのだから記憶力は優れているので、関係専門家からヒアリングすればある程度の知識を有するようになる事は間違いではない。しかし、長年その業種に携わらないと理解できない部分が多くあることも事実である。私も理不尽な訴訟で何度も矢面に立たされたので人一倍訴訟を経験しているが、陳述書の類は弁護士では書けないので殆んど私が作成したのである。勿論、弁護士は陳述書のテニオハの添削はしてくれたものの、専門的な知識の部分には立ち入ることが出来なかったのである。弁護士とはその様なものであることを認識している一般の人は少ないのではないかと懸念する。更に、弁護士も総ての法律分野に精通しているのではなく、刑事訴訟法か、民事訴訟法か、労働法かそれぞれに専門分野が細分化していることである。そのことを踏まえれば民間仕分け人に登場した弁護士が判断基準に"効率"一辺倒であった悲劇が理解できる。弁護士の世界ばかりでなくどの分野においても信頼の基準は人柄である。専門家に依頼する時にはその点が重要である。どうしても弁護士の起用になるのは破産管財人であろうが、これとて本来は資産処分や会社経営に関係する事なので、他の専門家の起用と合わせて処理すべき問題である。勿論、犯罪と関係した組織を立てなおす仕事には検事上がりの弁護士が必要であろうが、私の知る限り問題解決に弁護士を起用している多くが間違った選択と言える。そう言えば、民間仕分け人の弁護士事務所は、ヴァス・コダ・ガマとか言う名前であったが、この様な事務所名を付けるには実績が少ないので人が関心を持つ名前にしたのが見え見えである。今の様な価値観が錯綜し、混迷している社会では本物を見る目を養うのが大事だが、新しい幕開けの時代には偽者が横行するので気をつけなくてはならない。

未分類

尖閣ビデオが流失し世界中に流され、情報を流失させた海上保安官の行為に対して賛否両論が巻き起こっているが、私が素人として見た今回の海上保安庁の中国漁船退去命令には疑問点がある。確かに、ビデオ映像では中国船に領海からの退去の音声が流れているが、画像を見る限り海上保安庁の2隻が中国船を挟んでいる様に見え、この状況では当然に拿捕する態勢なのではないかと思えてしまう。資源調査船と看做して停船命令を行ったのかと考えると、映像を見る限り中国船は網を引いているのでどの様に見ても漁業としか判断できない。その様に考えると海上保安庁は網を上げて逃げようとする中国船に対してなぜ2隻が挟んだのだろうかと考えてしまう。私は尖閣諸島は国際法的にも日本の領土として主張できる考えの者として今回の出来事を論じているのである。何も中国に妥協しろと言うつもりはない。今回の事件に関して幾つかの疑問があるから問題を提起しているのである。海上保安庁の船を見た中国漁船は網を引き上げて逃げる態勢に入ったと思われる。単に領海内から退去させるならば追い立てるだけで良かったのではないかと思えるが、今回の海上保安庁の取った行動は素人の考えでも中国船に対して停船させる意図があったのではないかと思えて仕方がない。幾ら日本の領土でも国境紛争を抱えたエリアでは単に海上保安庁のレベルで対処出来る問題ではなく、停船命令を行なって臨検する場合には海上保安庁長官、更には国土交通省大臣にお伺いを立てるのではないかという点である。勿論、幾ら情報化の時代でも現場の切羽詰った状況の中では、時間的には間に合わない場面も当然に多いと考えられるので、対応策は事前に話し合われていた可能性が大きいということである。その様に推測すると、石垣漁民がコメントしている様にこのエリアには頻繁に台湾漁船や中国漁船が領海内操業を行なっているのに、何故今回に限り海上保安庁は強硬姿勢に出たのかと言う疑問である。この疑問の回答なくして今回の事件の本質には迫れないと考えるのが妥当であろう。私の疑問が流失したビデオを見て更に深まったのは、中国船に対する海上保安庁の対応映像であった。尖閣問題にはロシア大統領の北方領訪問のおまけまで付き一層問題点を複雑にしてしまった感がある。何れにしても今回の事件は前原前国土交通大臣が絡んでいることは疑いもない事実であり、その裏には米国の情報機関が介在していると推測できる。国家のインテリジェンスとはその様なものであり、米国が対中戦略を大きく変更した事実が根底にあると思われる。

未分類

姓名判断を信じている訳ではないが、少なくても名前は親が子供に対する思いを込めて命名するものなので、その人が育った家庭環境を反映していると考えられる。何故この様な事を今更書くのかというと、名前でその人となりがある程度分かると最近思うようになって来たからである。今の経団連の会長は、住友化学出身の人で名前は「弘昌」である。私はこの名前を見たときに親はこの子供に金を儲ける事が上手な子供にしたいと思いを込めたものと推定した。その後、この人のプロフィールを見て納得したのだが、戦前の朝鮮で一旗上げた一族を親に持ち、政商の類の一族と分かった。同じ住友グループの住友電気工業社長の名前は「正義」と言う人であることを日経新聞の夕刊の"こころの玉手箱"の欄に寄稿した短文を読んで分かったのだが、この人が"こころの玉手箱"に書いた内容を見て正に親の思いが伝わった生き方の人であった。この方の場合は敢えてプロフィールを見なかった。見なくても立派な生き方をした親であることが推測できるからである。経団連の会長職に就く人の名前が「弘昌」で相応しいかどうかは敢えて論じないが、今後の日本経済を占うには理解しやすい名前ではある。政治家にしろ、経済人にしろ、官僚にしろ、学者にしろ、その人が育った家庭環境は大事であり、幾ら学歴が立派でも人格的に最低な育ち方をしている人がトップに立つと問題が生じると思われる。今の日本はその事例には暇がない。

未分類

社会の規範・道徳がなくなった社会とは正に日本を指す言葉と言える。15年前の日本経済バブル崩壊後の失われた10年間に日本人は心の羅針盤を失った様だ。今回の流失事件の報道を見ていると国益と言う視点に欠けて全て法律論で論じられている奇妙さである。海上保安庁内のITシステムに開示されていたから職員は誰でも見れたので、その映像を世界中に流しても国家公務員の機密保持違反で起訴するのは難しいと言う議論には驚かされる。また、別な議論では、命がけで海の国境を守っている海上保安官に対して今回の尖閣諸島問題に対する政府の対応が良くなかったので、情報流失は当然であるといった報道である。そもそも論から言えば、公務員と言う存在は政党に対して不偏不党でなくてはならないと言う原則があり、自衛官、警察官、海上保安官及び消防隊員などの職種は危険性を理解して就く仕事である。それが命がけで業務を推進しているのに政府の対応が悪いからと言って個人の考えで情報を流失することが認められる事かと言う問題である。命が惜しかったら危険な仕事に就く事はないし、況してや何も公務員になることはないのである。特に、他の一般公務員と違って武器の携行が許される公務員の立場は重いものである。本当かどうかは不明だが、新聞報道などによれば情報流失した海上保安官は罪の意識もなく行為を正当化して言われるが、今回の事件は政府が不正を行った故の告発とは全く性格が異なるものであり、公務員が犯してはならない政治的な行動の類である。特に、今回の件は外国との関係が背景にあり、特に慎重に対応しなけらばならない問題であった。勿論、愚かな一個人の判断で大きな戦争に到った歴史は枚挙に暇がない。第一次世界大戦の引き金もオーストリア皇太子を襲ったテロ行為であった。日本の明治時代にも警護の警察官がロシア皇太子を襲った事件が思い出される。ロシア皇太子は怪我で済んだので戦争には到らなかったが、一人の行為によって導かれる結果の恐ろしさは歴史が証明している。尤も、この種の事件は政党政治が堕落して国民を省みない政治が行なわれている時に起きやすいのだが、過去を見る限りこの種の行為を国民が肯定したが為に後で払った代償(軍部の独走)が大きかった事を思い出すべきである。戦前の軍部の独走も若い軍人の正義感から出たものであった。しかし、政治を否定する事になる直接行動を国民が認めると国家の規律が乱れ、将来に禍根の芽を産む事になることを歴史を振り返って思い出すべきである。それでなくても心の羅針盤を失った日本人が漂流しているのであるから、今回の流失事件を起こした海上保安官に対しては最大限の処罰を与えるべきであると考える。

未分類

誰しもが思い、誰しもが可笑しいと考える国会の予算審議で予算項目に対する是非を論じないで予算が決まることである。民主党政権になって初めて仕分け作業で予算の計上に多くの無駄があることを国民は知らされたが、本来なら国会の予算審議の過程で与野党が必要の是非を議論するべきものである。それが明治時代の国会創設以来、予算審議で予算に関して国民の前で議論された事はない。明治時代は予算の内容を分かるのは行政に携わった役人位であり、税収不足の中で予算を組めるかどうかが審議の対象であったのでやむを得ない面があった。然し、現代においては予算の仕組みや財政論に関しては周知の事実であるので、政府提出の予算に関して中味を議論するのは困難なことではない。それが相も変わらず国会の予算審議では政権打倒に向けた政府の欠点を指弾する場となっており、肝心の予算の中味に関しては国民の目に触れずじまいとなっている。特に、一般会計に関して論じる事があっても特別会計に関してはブラックボックスの様な取り扱いであった。地方議員も国会議員も予算を読むことが仕事であり、予算を読めなくては国民の利する代表にはなれない。しかし、実際には官僚出身の議員以外に予算を読み取れる議員が少ないのが現実である。野党議員などは官僚が資料を請求しても出さないと言って言い訳しているが、与野党問わず国会議員の要請に応じない権限は役人にはないので、もし出さないなら公の場にその役人を引きずり出して国民に問題提起すれば良いのである。大分古い話で恐縮だが、私の若い頃会社の仕事で東京都や中央官庁の各部署に予算を貰いに行ったことがあった。その時の役人との話だが、議員などは予算の仕組みなどに関して少しも勉強していないので何も分かっていないと軽蔑していたことである。東京都などは議会の為にポンチ絵を挿入した予算資料を作成しており、当時の役人が子供に説明するように作らないと議員は理解できないからと言ってたことが印象的であった。中央官庁に至っては、私が貰った予算について無知ゆえの質問をしたのだが、それに対して良く勉強している評価され、通常は出さない予算資料まで頂いた記憶がある。更に詳しい予算資料があるとのことであったが、それに関しては出しても良いが理解できないと思うので出した予算レベルで十分と言われたことが今でも鮮明に覚えている。今はどうか知らないが私の若い頃は行政側は要請すれば予算資料を開示したし、逆に仕事をしっかりと行なっている事を理解して貰いたい姿勢があった。役人が好き勝手にするようになった背景には議員と言う種族が余りにも勉強せず、政争ばかり行って肝心の国民のための政治の研究をしないためと思料する。その一つに予算審議おいて予算に関して議論しない悪習があると考えられる。予算審議で予算審議を行なわない愚が900兆円もの赤字国債の発行に繋がったのであり、この悪習を変えなければ議会制民主主義は形骸化してしまうと思われる。国会の予算に計上するまでには財務省と各省庁との攻防があり、その攻防の中味を知れば何故各省庁に財団法人が多く設立されたのかも理解できる。予算計上は突如として現れるのではない。必要を検証した上で計上されて来るのである。その過程を知らずして予算の無駄の議論が出来ない。少なくても解散のない参議院の議員は勉強する時間と機会があるので、予算審議で予算を議論しない愚を改善できる筈である。何れにしても、大臣になると省庁の代弁者になってしまうのは、仕組みが分からないために言いなりになるしか選択の道がないからである。勿論、議会には各委員会があるがそこでは役所が考える自分達の都合の良い議員の養成機関になっているから問題外であり、議員個人や党が独自に役所と議論できるブレーンと組織を有する必要がある。世代交代で若い議員が多くなっても従来と変わらない遣り方ならば意味がないのである。民主党の仕分け作業も結果を出すには役人に任せず党が実現のための法律改正まで踏み込まないと問題提起だけで終わってしまう。明治時代と同じでは国が滅んでしまうことを考える時期に来ている。