自然な笑顔ほど美しいものはないと思う。また、自然な笑顔は他者の心の安らぎとなる。昔と違って今の日本では営業用の作り笑いを除くと自然な笑顔を公共の場で見ることが少なくなった。朝の電車の中など不愉快になるほど仏頂面した顔ばかりである。勿論、人間は生きている限り常に何かしらの悩みを抱えているのが宿命だから無理に他人に笑顔を見せろとは言わないが、昔から「笑う門には福が来る」と言う諺もある位だから、笑顔が現状を変えてくれる効力があるのではないかと考える。多分、日本人に笑顔が少なくなった背景には長いデフレによる不景気も一因であるが、日本人特有の他力本願的な現状打破の考え方が根底にあるように思えてならない。尤も、全て自己の問題に帰結してしまうと生きてゆけなくなるからかもしれないが、多くの原因を自分の問題と捉えれば現代人の様な仏頂面した顔でなくなると思われる。勿論、笑顔の反対の怒りも必要なのだが、笑顔がなくなった背景には怒りの喪失もあるのかもしれない。多くの人が政治家や経済人に対して怒りを出す事は少なくなり、デモさえも少なくなった。しかし、現実社会を良く見ると怒りは消えたわけではないことに気付く。昔の怒りは社会悪などに対する怒りだったが、昨今は自己中心的な怒りが多くなったことが分かる。自己中心的な怒りは不正義な場合が多く、且つ理不尽となる。幾ら怒りと表裏一体が笑顔と言っても自己中心的な怒りは自然な笑顔を呼ぶ事はない。自然な笑顔を出せる人は他者に対する思いやりのある人で、心が豊かな人である。なぜ、笑顔について書いたかというと今朝通勤の途中で駅の売店の売り子さんの笑顔が自然で美しかったからである。毎日、通勤電車の中で仏頂面した顔を見てきているので、その笑顔で思わず心が和んだのであった。笑顔が笑顔の連鎖を呼ぶ。今の社会に最も必要なことだと思える。そう言えば、仏像の顔も微笑みである。
前原外相の北朝鮮交渉は危ない
前原外務大臣の周辺には高学歴の胡散臭い人物が多いが、今回の北朝鮮発言は北朝鮮が組みやすい相手として選んだ結果と推定できる。前原と言えば、民主党の党首を辞める事になった偽メール事件を思い出して仕舞う。尤も、多くの人はその教訓が生きるので今回は大丈夫と思うかもしれないが、先の偽メール事件などに惑わされる性格は先天的なものと思えるので容易に直らないと理解した方が無難だ。前原が外務大臣になったときに懸念したことは北朝鮮問題であった。前原の出身が京都であるので北朝鮮が接触するには好都合の相手だからだ。他のエリアと比べて京都には北朝鮮系の関係者などが多い。確かに前原の発言は拉致問題と絡めているので一見すると正当に思えるが、外相就任時に一切触れていない拉致問題を今の時期に発言することを分析すれば自ずと不可解さが理解できる。特に、前原は国土交通大臣の時に日航再建に係るデューデリジェンスで法外な費用(150億円)を支出するなど他者に洗脳されやすい性格と無能さを曝け出しているのである。今回まんまと北朝鮮の罠に陥って日本単独で交渉に乗り出すなどリスク以外なにものでもない。しかし、北朝鮮がそれだけ困っていることは事実なので本来ならば前原以外の人物が外相になってればと考えてしまう。今後行なわれる内閣改造で前原が外相から外れるのを期待したいが、管首相では無理であろう。
インフラ輸出の問題点
日本が公共事業等で蓄積したインフラにおけるノウハウを中進国などに輸出することは必要であると考えるが、問題は多額な資金の貸与と長期間に亘って資金を回収するノウハウや工事資金だけでなく構築したインフラに対する中長期的な修繕・メンテナンスの考え方が日本企業や行政にはないことである。一歩間違えば公共投資事業の海外化となり、国民に大きな負担を強いることになる可能性があることを肝に銘じるべきである。日本も過去にはインフラ整備に世界銀行の資金を使ったことがあるが、この時の資金導入に際しては将来の経済成長率などによる税収見込みなどを勘案していた筈だ。世界銀行は融資に際して新幹線建設の時には既存の東海道線を担保に取ったことを忘れてはならない。インフラ輸出には従来の借款供与とは異なる考えで望まないと、日本国家が国内の赤字国債以上に海外の資金供与で信用を毀損する可能性が高い。インフラ輸出に際して民間企業は政府の資金支援を求めるのは間違いなく、この展開には国内の公共事業と同様に政治家が介在し、一歩間違えば利権になりかねない要素を孕んでいる。日本の行政などは採算性を考えた公共投資を行なってきていないので、役人上がりのスタッフでインフラ輸出を推進したのでは失敗することは目に見えている。事業に対するフィージビリティスタディを厳しくしてなおかつ契約書に関しては日本式でなく欧米式の細かい条件で作成することは必須である。しかし、インフラ輸出には新聞などの外野が大騒ぎするので、行政は神風的に受注を目指すことになり、大きな禍根をのこすことになるのは目に見えている。何れにしても、インフラ輸出は経済成長で限界がある国内の需要をカバーする政策としては必要と考えるので、問題はインフラ輸出事業に対する厳正な審査を行なう第三機関を新たに作って対応する事が怪我を少なくする方法と考える。
IT社会の無責任さ
正月早々からオセチ騒動でグループポンが世間を賑わしている。今回の事件は単にグループポン問題ではなく、Webでの販売その物に問題があることを意味していると思われる。今回のおせちと言う正月に関係する際物であったために問題を大きくした感がある。しかし、ネット社会に潜んでいる詐欺紛いの商法が多発している現象に目を向ける必要がある事を投げかけている。この様な事件が起きるとネット社会に関係している人達が騒ぎすぎと警鐘するが、良く調べたら今回の事件と同様なグルパン会社の株主になっていた類に枚挙に暇がない。どうもネット社会に関係する人はパソコンのクリアによる全てご破算に出来る頭になっているらしく、信用と言う言葉の重みに言及することが皆無である。事件が起きたから謝罪やお金を返金すれば良いと言う論調が形成されているが、1年に一度のイベントを壊された人に対する思い遣りがひとつも感じられない。極論すれば、グルポンの半額セールに飛びついた者はリスクがあるのだから必要以上に同情することはないと言っているかもしれない。しかし、ネット社会が到来しているのにこの様な理解をすれば全てを駄目にする恐れがあることも気が付かないのは残念である。今回の事件に関しては、当事者の飲食店とグルポン会社に真相を聞かなければ分からないが、100食を人気があるからと500食に受注を増やしたことが原因と言われているが、幾らグルポンから言われても現場で消化できない量を受けるのは無責任極まりないことである。況してやグルポンの場合は、定価より大幅に価格を下げた利益がないのはもとより、広告宣伝費で原価を補填する意味合いのものであるので、後から大きな赤字に気が付くと言ったものではないはずである。それが同業者(フランス亭)が擁護したとあっては飲食業界が原価計算も出来ないいい加減な業界と疑惑の目で見られてしまう。尤も、昨今の飲食業界には素人の人達が進出しているので、厨房内の清掃も碌に出来ない店が多く、ゴキブリや鼠が徘徊しているのは日常茶判事である。何れにしても、今回のおせち事件はWeb販売の問題点を浮き彫りにしたもので、"信用"などを考えていないニセモノが横行していることの無責任さを改めて教えられた。
機能していない行政組織
農水省が農業人口の大幅減少にも拘わらず行政組織だけは温存されている事実に憤慨しているが、昨日のTV番組(TBS「夢の扉」)を見て厚生労働省の機能不全には日本経済の停滞の原因が民間にあるのではなく行政組織=官僚組織の機能麻痺にあることを理解させられた。TV番組では医療業界に注目されている「細胞シート」を取り上げていたのだが、日本での早期実用化は行政の手続きの壁で難しいので、注目してきたフランスで実用化に協力すると言う内容であった。これと同様な事が中小企業が開発した人工心臓に関してもTV番組で放送されていたが、この中小企業は日本での実用化は行政の問題で困難であるために米国に活路を求め、その結果は人工心臓の評価が出て商業化が図れたために投資を回収することが出来る様になり、企業の存続が図れたと言う内容であった。この番組を見た誰もが思った事は、企業の活動の妨げになっているのは正に行政組織と言うことである。必要なセクションに人と予算が付けられていないのは、民主党のパフォーマンスの仕分け作業で公表されない現実である。尤も、政治家などは予算の仕組みも分からない者が大半なので論じる以前の話と思われる。行政の機能不全は当然に政治家の怠慢であり、衆参合わせて800名近くの国会議員など半分以下で十分と言える。農水省や厚生労働省ばかりでなく、全ての省が同様な機能不全に陥っていると考えられるが、特に公共事業が大幅に減少している管轄の国交省などは大幅に組織と出先機関の統廃合による縮小が当然なのにその動きがない。国民を馬鹿にしてるのも程がある。この様な現実を放置しておいて消費税値上げなど言語同断なのにマスコミまでグルになって巨額な赤字国債を盾に増税路線を打ち出している。官僚と政治家の既得権益を守るために国民を欺いての増税など断固反対すべきである。
2011年以降は実務家復帰の元年になるか!
昨今の日本ではデジタル社会とグローバル経済のために実務家よりパフォーマンスが旨い人と英語が話せるだけの人を中心に動いてきたが、その人たちでは何も解決しない事が分かり、漸く真の実務家達が登場して来る社会になりそうだ。幾つかの会社ではその傾向が現れてきている。勿論、英語を話す能力は必要とされると思うが、経営のトップに就く能力としてはプラスαで良いと考える。今求められる経営者像はクリーンであり、頭でっかちの管理部門を縮小して現場第一主義と顧客第一主義に戻すことが出来る人であると思われる。特に、IT社会では軽視されがちになってきている現場主義の復活であると考えられる。昨今の日本企業がすべての面で決断が遅いと悪評される原因のひとつには決断できないサラリーマン経営者の存在だが、それを助長しているのは肥大した管理部門の悪影響と考えられる。何故管理部門が肥大したかはそれぞれの会社によって原因は異なるのであろうが、情報化社会になりデータ重視が現場担当の人間を少なくし、管理部門に人を多く配置することになったと考えられる。勿論、データとその分析が重要なのは理解するが、現場の経験が浅い人や机上で考える管理担当ではデータ分析が正常に機能するかを考えれば一目瞭然である。データは飽くまで過去の数値であり、将来の参考にはなるが条件が変われば大きく内容が変わるリスクもある。情報化社会になり、人間の不完全性から経験と勘を軽視される様になったが、大きな事故に繋がる予兆はデータ分析では発見されないケースが多く、効率化の社会では必要以上にチェック機能に資金を投じられないので、サドンデスの予兆を発見するには日常的な人間のチェックしかないのである。特に、システムなど実務家を入れて作ったものでなければ機能しないことも知らない人が多いのも今の社会のリスクのひとつである。何れにしても、2011年は厳しい経済情勢を予想されるので、企業の経営者には経験を有した実務家が登場する年になる予感がする。
良心を失った社会
今朝のTVニュースで又検事が不正を行なった事が知らされた。最近は嫌になるほどその地位に相応しくない者が就いている事実を知る事が多い。電車に乗っても性質の悪い顔付きの者が多く、公共の場で自分勝手に振舞う人ばかりである。何故、この様な社会になったのかを考察すると、やはり20年前のバブル経済崩壊に辿り着く。良く考えると、少なくてもバブル経済崩壊前までは比較的能力がある人や上に立つのに相応しい人が地位を得ていたと思われる。ところが、未曾有の経済バブル崩壊後は上に立つに相応しい人が過剰融資や投資の責任を取って戦犯として退陣し、その後に上に立った人は地位に必ずしも相応しい者ではなかったと思われる。もちろん、業界によってもバブルの後遺症が違うので一概に言えないが、少なくても人間的に器量が小さい者が地位を得たと思われて仕方がない。政治の世界でも実力で権力を奪うのでなく、仲良しグループの盥回し政権の樹立が相次いでいる。この様な社会を見ると誰もが俺でもその様な地位に就けると錯覚し、気が付いたら真面目に仕事するのが馬鹿にされる社会になって行った。インチキ、嘘八百でもそれを見抜ける人達が相応しい地位に居ないので、可笑しげな人物がTVや成功者として評価され、誰もが一攫千金を狙う社会になってしまった。この結果、成功者になれず必要以上に不幸感を持つ人々が増え、他者に対して敵愾心を持つ社会が現出した。本当に今の社会は弱いもの虐めの現象ばかりであり、犯罪までもが同様である。自分の不遇を嘆くなら本来は政治家や官僚や財界人に矛先が行くはずなのに、現代の日本では自分と同様な者に刃を向ける負け犬根性の犯罪者ばかりとなった。先日、茨城県取手市で20代の青年が自分の人生を終わらすと言って刃物を振り回したが、やはり矛先は自分と同じ一般市民に対してであった。この現象を良く考えると、旨い事を遣った奴が良い思いをしていると勘違いしての行動と思われ、能力や努力による違いと思わないために起きる事件と解釈できるのではないかと推察する。このため、怒りの矛先が権力者に行かないで、一般市民が犠牲になる事件が多発すると考えると今の世相が良く分かる。しかし、この現象は良心を失った社会としか言いようがなく、何時になったら地位に相応しい人が地位に就く社会に戻るのかと思ってしまう。
阿久根市の市長リコールに見る日本人の愚かさ!
税収18億円、市職員等報酬25億円の改善を目指した鹿児島県の阿久根市長がリコールされた。リコールの理由の一つに議会と対立してイレギュラーな市政運営を行なったことが挙げられている。なお、市長の改革は賛成だが、急激過ぎるので議会と市職員の合意を得て段階的に遣るべきとの方々がリコールに賛成したらしいが、この様に考える人は何も理解していない人々であろう。利害関係者が話し合って着地する案では何等の改善は期待できない結果しか生まないのは歴然である。このリコール騒動で子供の頃の記憶が蘇えってきた。亡父は若い頃に政治家を志し、田舎の議員として頑張っていた。家庭を省みないで議員活動に注力していたので、家族は犠牲を強いられた記憶がある。その様な亡父に対して選挙民が下した判定は、亡父が若い頃労農党に属し、農地解放運動を率先して行なったことが亡父の改革に危険的な思想の持ち主として拒否であった。亡父が議員として無償で頑張った姿を見ていたので、無能力者や金で当選者を選び、亡父を二度も落選させた出生地に対して私は今でも何か尽くしたい気持ちにはなれない。市民所得の平均が200万円なのに市職員の給与の平均が700万円と言う馬鹿げた状況に対して市民が下した判定が僅差と言えどもリコール成立では遣り切れない。このリコールを成立させた背景には、マスコミ、官公庁労働組合、県、更には総務省などの阿久根市政に対する非難発言である。しかし、この発言でリコール票を入れた選挙民は一部の利害関係者以外は馬鹿としか言葉が出ない。市が破産財団の指定を受けて初めて分かる愚かさであろう。何れにしても阿久根市長は全国の自冶体に一石を投じた事は確かであり、期待はずれの片山総務大臣など百害合って一利なしである。所詮は元自冶官僚の小役人である。
財務省主導の政策では国家が滅ぶ
法人税率5%引き下げに対して相変わらず減収分の財源確保をどうするかと言う議論が出ている。一見すると当たり前の議論に思えるが、この予算の考え方が場当たり的な弥縫策となり、日本経済や社会の停滞を招いている。最近、国家の経営に企業会計の考え方がないから駄目なのだと言う声が主流になり、多くの自冶体で貸借対照表(B/S)や損益計算書(P/L)、更にはキャッシュフローなどを導入している所が増えてきている。しかし、これ等の議論の前に、予算が単年度主義と言う問題点が横たわっている事に手を加えないと枝葉末節の議論が横行することになる。また、国家百年の大計とは言わないが、少なくても20年後の日本の在り方で予算を組む長期的な対応が必要であり、その考え方で初めて計画期間中の事業の見直しで先の企業会計が生きてくるのである。幾ら優秀な頭脳を持っていても単年度予算主義に縛られている内は場当たり的な処理しか出来ず、凸凹を調整する能力しか発揮できなくなるのである。勿論、長期的な視点で政策を行うのは政治家であり、官僚ではないと反論が出るかもしれないが、行政の事務を取り仕切っている官僚以外に真っ向勝負できる組織や機関がないのが今の日本である。然も、官僚は頭が良いから各種委員会を設けて有識者が重要な政策を政府に上程した様に誤魔化しているから尚更始末に悪い。今の日本人はNHKドラマの"坂の上の雲"や史実に正確でない"坂本龍馬伝"などを見て英雄を待望しているが、戦後教育を受けた日本人に期待できる訳がない。昔の役人には天下国家を考えて清貧に甘んじていた者が多数いたが、今は大企業並みの報酬と生活の安定を求めて就職した間違ったエリート意識持ち主ばかりだから国が良くなる訳が無い。財務省の官僚は小泉を担いで国民のためにならない構造改革を断行したにも拘わらず、再度民主党政権に取り入って再度間違った道を進もうとしている。財政改革優先の財務官僚主導では日本経済や日本社会は没落するだけである。増税など断固反対である。日本国内に富があるから増税議論が起きて相変わらず政治家や役人が無駄使いをするのである。減税などを税収が不足するなら不要不急な事業支出を止めるべきである。仕分け作業で問題点になった事業の多くが閣議決定されない現状を見る限り、現内閣にも期待できない。国民は豊かになり怒りを忘れてしまったが、今怒りを上げないとウィキリークスで暴露された様にシンガポールの役人に馬鹿にされる二流国家になってしまう。
現状の政治体制を産み出した”タテマエ”社会の悪弊
首相が頻繁と変わるからデフレ脱却が出来ず、新しい時代に対応した社会も作れないとマスコミが報道し、世論も同様に認識している。しかし、現状の体制が出現した背景には、政治の浄化だけ優先して政治の本質を見誤ったマスコミや国民が招いた結果と言えば非難されるだろうか。ボスザル体制を壊したので政治の本質的な部分が欠落したのである。過っては総理大臣の椅子は力で得たものである。その力で権力を維持したのである。確か、自民党時代の中曽根後継の竹下・安倍・宮沢の時代から総理大臣の椅子は話し合いで決めることが習慣化し、尚且つ小泉政権の誕生後には一般党員の声が強く反映することになったので、ポピュリズムの影響が強くなり、政治が混迷するようになったと考えられる。政治浄化のツケが回ってきたと言うと叱られるかもしれないが、棚からぼた餅の政権では権力に執着する度合いが弱いのである。政治浄化の政党助成金が世論の声を聞かない政治家を産んだが、反面その親玉を決めるのには大衆迎合主義とも言えるポピュリズムを利用している。更に、中選挙区から小選挙区に変えたことにより、小粒の政治家しか出現しない先祖がえりの選挙制度により、戦前の悪しき政治体制である大連立などと言う言葉が言われるようになった。尤も、今日の政治の低俗化と経済社会の低迷の原因は、官僚の暴走の契機となった田中角栄と言う政治屋まで遡及しなければ説明する事が出来ない。800兆円もの赤字国債があるのに平気で無駄使いしている官僚を制御する事が出来ないのは、ボスザルを欠いた政治に原因がある。今年の暮れの役人に支給したボーナスを見る限り、デフレ経済で困窮している国民など眼中にないと思われる。今日、世界中で盛んに「正義」について論じられているが、哲学的に「正義」など論じても意味がない。奇麗事のタテマエ社会が無能な政治家を産んでいるのであり、閉塞感カら抜け出せない一因でもある。今日の政治の混迷は、棚からボタ餅の総理大臣を産んでいるマスコミと国民に起因するものであり、ボスザルの復活しか役人から政治を取り戻せないことを国民は知るべきである。