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NY在住の友人と電話で話していた時に若い世代が融通が利かないと言うか、柔軟性に欠ける点を論じていた時に、カーナビゲーションの融通のなさに言及し、若い世代と類似している事に双方が気が付いた。商品が溢れ、情報化時代には容易にPCなどから情報が得られるので、今の若い世代は以外に行動的ではないと思える。尤も、スポーツなどで体を鍛えてきた若い世代は行動的だが、思考に関しては同様と思われる。端的に言えば、カーナビは目的地に対して直線的であり、目的地周辺を通過して戻ると言う仕組みにはなっていない。勿論、高価な金額であれば全てを満たすカーナビが作られるのだろうが、茲での議論は飽くまで一般的なカーナビの性能に関してである。我々世代の若い時は情報化以前の時代であったので、上司から調査を依頼されたときには国会図書館でマイクロフィルムを見たり、関係企業を訪問したり、役所を訪問したり、業界紙の記者から情報をヒアリングしたりと、多くの時間を使って多くの人と会って報告書を取りまとめたものである。この苦労が調査目的以上の成果をもたらしてくれて企業人・社会人として成長したことを記憶している。現代は、PC操作ひとつで多くの情報が得られるが、この情報は一方通行の情報である。然も、目的以外の情報を偶然得られる様なことはない。また、この種の情報入手は耳学問的な情報の取り方であるので、間違っているかどうかの検証に関しては弱い面がある。若い世代は子供と時から偏差値教育でペーパー上のトレーニングばかりである。スポーツを遣れば頭でっかちの面が幾分緩和されるのだが、それでもスポーツとなれば単純な遊びではないので、目的意識が働いて柔軟性に欠ける面は同様だ。ナビ的人間が作る社会はどの様なものなのかを我々世代は考える必要がある。形式主義が横行するであろうし、多面的な対応は期待できないと思われる。この様に書くと若い世代を貶しているだけと受け取られるが、確かに今回の東日本大震災では情報化に相俟って構築された情報システムは機能し、従来には考えられない程被災地にも情報が流れたり、交通網のチェックも素早く出来たので、情報機器やシステムを駆使した若い世代の凄さには敬服する。然しである。我々の世代としては、多量なデータの分析は柔軟な頭脳があって効果を発揮すると考えられ、人間の思考が機械的になった場合の誤りを懸念してしまう。一番大事な点はデータは過去のものであり、未来の物ではないと言う事実である。ナビ的人間が情報システムに取り込まれるリスクも考える必要がある。それは物事のの実現に対する安易な考え方である。情報化の中で神話化された偏重した思考能力が全てに通用する思い込みは怖い。

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どの新聞、雑誌を見ても日本は人口が減少して行くので企業はマーケットを海外に求め日本には未来はないと言及している。企業経営者もマスコミに影響されてか同様な発想しか持てていない。歴史観を持たない政治家や官僚、そして経済人が日本を誤った方向に持って行く姿は情けないのひと言だ。日本の古代史を見ると日本は移民の国であったことが分かる。DNAの分析では日本人は出アフリカの人類の祖先の枝分かれした殆んどを有していることが分かった。日本人は顔かたちは似ているが、頭の中身は多民族国家と同様なのである。日本文化には"根回し"と言う独特の事前調整行為がある。又、"沈黙は金、雄弁は銀"とする欧米の社会とは異なる文化を持っている。この理由は先に言及した多様な価値観を有する日本人の共棲するための知恵と考えられる。今は紙幣から消えた聖徳太子と言う聖人が作った17条憲法の第一条に「和を持って尊し」と書かれていることが全てを物語っている。話は大分横道にされたが、日本人が単一民族であると言う神話は嘘であったことが近年のDNA分析で分かったのであるから、日本が移民政策を否定する理由はないのである。然も、昨年から高齢者の死者数の増加で人口が初めて10万人減少したのである。今年は更に増加して12万人に増える予測が出ている。人口減が経済成長や景気に影響するなら人口増加を図る政策を打ち出すべきだが、日本人に対して子供を増やす事を奨励しても時間軸的には既に無理となっている。それならば、海外からの移住を積極的に認めるべきであり、それが日本版のグリーンカード制度の構築である。米国の経済はグリーンカード制度が貢献している事が理解されている。今般、13億人の中国が中国版グリーンカード制度の導入を打ち出した。中国も高齢化社会は目前としてるので、経済成長には優秀な移民が必要と認識し手を打ってきたのである。翻って日本は、過去に欧州各国が移民政策を採用して多くの問題を抱えたのを見て消極的な政策に終始した。しかし、今は事情が大きく変わったのである。また、日本は欧州の様な他民族と国境を接して長く争った歴史を持つ国ではないので、実際には移民の受け入れに障害となる単一民族意識の誤解を解くと移民との共棲が上手く行くと考えられる。勿論、日本の移民政策は、地方においては農業、林業、漁業の活性化に貢献する必要があり、都会においては優秀な研究者・技術者により技術立国を目指すものでなくてはならない。歴史をふり返れば、日本は多くの移民達が持ってきた技術により発展してきたものであり、現代日本が世界の有数な経済大国になったのは優秀な移民を祖先に持つからである。2000年以上前に日本列島に渡って来た韓国人を祖先に持つ日本人は多いのであり、その人達と過去100年以内に渡って来た韓国人と違いはないのである。今こそ、日本人こそグローバルなDNAを持つ唯一の民族である事を宣言し、新世紀の移民政策を実施する事が日本の繁栄につながることを認識する必要がある。

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小泉改悪のひとつとして建築確認申請の民間委託があるが、改悪前では起きなかった耐震構造強度不足の問題が相次ぎ、各地で行政庁と民間審査機関に対して賠償裁判が起こされている。この裁判結果は予想とおり、行政庁などが責任を逃れる判決であった。行政訴訟は勝てないと言うセオリーがあるが、今回の耐震構造強度不足に関しては最終的なチェックを行なう機関として責任がないと言うことになり、日本の建築物に対する信頼がなくなる問題なので看過できない。裁判官は実務経験がないなために、専門知識を要する裁判においては権威者が作成した意見者などに左右される事が多い。更に、行政訴訟の場合には、裁判所は行政を擁護する思想が蔓延っているので公正さが欠けている面が強い。建築確認申請に関する規制緩和は米国の圧力から準備も整っていないうちに実施した最悪のものだが、特に建築確認申請においては、行政レベルでは審査しきれない高層化建物が増大したにも拘わらず民間委託にした無責任さには怒りを抑えられない。民間委託を前提に国交省はチープな構造計算ソフトの使用を義務付けたために、建築設計の自由度まで奪う結果となっている。先日blogで書いた行政も技術が分からないゼネラリストが実権を握っているために軽薄な社会システムになりつつある。耐震偽装事件が起きた後には構造に関しては別な観点から評価基準を模索したのだが、何故耐震偽装事件が起きたかも検証せずに場当たり的に行政の責任を回避する遣り方は今後も同様の間違いを引き起こす懸念がある。社会に安心感を与えるには行政が最終的に責任を持つことなのである。現在が不安な社会になっているのは政治家と官僚が無責任な社会を築いたからである。本来なら、耐震構造の強度不足に対する責任は最終的なチェックを行なった行政や民間審査機関が受けるべきものであり、如何なる理由があろうとも逃れられないのが社会の重みである。先般、無縁社会を指摘したTV番組が放送されたが、それを生んだのは無責任社会そのものである。小泉改悪の中のもうひとつの事例として裁判期間の短縮化がある。裁判官の出世に裁判期間の短縮化が基準となり、裁判官は十分な審議期間を与えずに直ぐに和解を勧める様になった。その結果、和解に応じない方に不利な判決を出すようになり、裁判所において正義が失われた。この様な社会が行き着く先はテロだけである。米国社会がテロに怯えるのは正に正義が行なわれていないからである。日本も遅かれ早かれ米国の様にテロに怯える社会になるかもしれない。そう言えば、耐震構造強度不足裁判の判決と期を同じくして北海道の一級建築士事務所と所属する一級建築士が耐震構偽装の嫌疑で登録抹消されたために起こした裁判は、登録抹消を回復させる判決であった。確かに裁判の常道「疑わしきは罰せず」であるが、両方の判決は整合性を取った様に感じられ、正義が消えた瞬間である。

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明治初年に工部省が設立され技術官僚が西欧の技術を導入しその後の近代日本を作り上げていった。初代の工部卿は伊藤博文であった。先日、元行政マンの方と今日的な日本の課題について雑談していた時に、彼は現代の日本には明治の時の様な技術官僚の集団「テクノクラート」の必要性に言及した。私も勉強不足のため、工部省の名前くらいは眼にした事があったが、近代日本に技術官僚が果たした大きな役割に関しては良く知らなかった。また、工部省がその力を恐れた内務官僚に解体されたことも初めて知った。尤も、技術大国になり、更に公共事業においても成熟した日本において何故技術官僚の集団が必要かと言う疑問が湧くかもしれない。その答えは、今回の東日本大震災の復旧作業の遅れや福島原発事故の対応の失敗を見れば一目瞭然である。勿論、縦割り行政の弊害もあるが、少なくても技術的に議論できるレベルの人達がいたら、後手に回るような対応にはならなかった可能性がある。特に、福島原発事故に対する文官レベルの危機感の薄さは酷いものであった様だ。私も農水省や国土交通省などの官僚のトップに文官が就任するのに疑問を感じていた。今の行政組織ではゼネラリストとスペシャリストの区分で公務員試験は実施されて入るが、人事ではスペシャリストとして専門的な業務に特化する事はなく、全く関係ない業務に従事させることが慣例となってしまっている。このため、スペシャリストとして入省してもテクノクラートとしての技術集団に成り得ないのである。ちなみに、科学技術関係の役所としては、過っては科学技術庁があった。しかし、科学技術庁は明治の工部省とは異なり、実践的な技術を推進する存在ではなかった。然も、現在は文部省と合併して文部科学省となり、合併前以上に機動性が失われている様だ。福島原発事故に関して言及すれば、放射能の拡散データ計算に関しても1日以上もようしている。又、保安院も幹部クラスがゼネラリストの文系のために原発事故の緊急性に関して全く理解していなかったのが実情の様だ。官僚組織だけでないが、日本企業の組織も上司は自分が理解しないと決断が出来ないと言う欠陥を持っている。しかし、高度な技術問題に対しては幾ら頭が良いといってもその知識を有していない限りは理解できないのが当然だが、理解できないひと言で作業が遅れることになる。ちなみに、菅総理が技術系ではないかと反論が出るかもしれないが、管及び管が助言を求めた東工大の教授は先に指摘した科学技術庁の理論先行的なので実務的な問題に対しては対処できない人達だった。この事が海水注入で臨海が起きるのではないかと恐れて事故対応に悪影響を及ばしたのである。テクノクラート不在の行政は中央官庁だけでなく、地方行政も然りである。がれき撤去などが今以て目途が立たない理由はテクノクラートがいないからである。マスコミなどはテクノクラートと言うと悪玉視するが、テクノクラートは無駄な公共事業を推進する代名詞ではないのである。日本の未来を作るにはゼネラリストに偏重した行政組織をスペシャリスト養成に変えて行くことが必要であると考える。

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ゴルフ仲間のMさんが茨城のゴルフ場のメンバーコースでシニアチャンピオンになった。昨夜は上野で私を含め7人がやはりゴルフ仲間の会計士の顧問先の居酒屋でお祝い会を催した。Mさんんは私が知り合った24年以上前に既にクラブハンデが6になっており、スイングフォームが綺麗なゴルファーだった。しかし、理事長杯もクラブチャンピオン選手権も2位があるが、1位にはなれなかった。クラブチャンピオン選手権ではメダリストになったこともあった実力者なのにゴルフで頂点に立つ難しさを見せられた。彼はゴルフばかりでなく仕事も一生懸命であり、現在はお兄さんの会社を継承して優れた経営者でもある。アマチュアゴルフでシングルになるのは夢と言う人も多いが、シングルになるのは並大抵の努力ではなしえない。ちなみに、私はと言うと残念ながらシングではなく、今は名誉シングルとしてゴルフ仲間に加えて貰っている立場だ。尤も、我々のゴルフ仲間は性格が良い奴の集まりなので、此れまで大きな賞には縁がなかったので、Mさんのシニアチャンピオン獲得は私の仲人さん以来の獲得であり、感無量であった。そう言えば、今年5月には久し振りに上野の寛永寺に仲人さんのお墓参りをしたことを思い出した。奇妙な縁は重なるのであろうか。

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当社が管理するビルに設備管理要員として17年間精勤した老兵が来訪した。老兵は御年75歳だが、未だ週3日働いている現役でもあった。老兵は工場勤務が長く、ビル管理要員としては色々な資格を持ち、且つ管理ビルを工場の設備点検の方法で管理したのが有効であったので、彼の点検方法のノウハウが当社の設備管理の規範の一つとなった。当社が建物管理業務に進出して規範とした従業員は2人いたが、彼がその一人であり、もう一人は大手建設会社の設備担当を退職して当社に再就職した者であった。彼等から多くの事を当社が学び、建物管理について当社独自のモデルを構築した。老兵は当社の建物管理に従事していた時に記録していたノートを持参してきて当時改善されられなかった事項に関して気になっていたとのことであった。正に、職人と呼ぶに相応しい仕事が髣髴とする出来事であった。然も、現在週3日入っている現場が照明をLEDに変え、電気料金が3分の1近くになった情報をもたらしてくれた。当社の現場を離れて8年以上経つのに来訪して色々と助言してくれるのには頭が下がる思いである。彼を老兵と書いたのは、当社の建物管理業務に関しては現場は戦争の最前線であり、現場要員は兵士であるという意識で行なったからである。戦争現場であるから部品なども現場にある物を利用して応急措置をし、その後に部品供給を受けて改善するのは当たり前であった。管理する建物が一時的にも使えないと言う状況は避けることが至上命令であった。正に現場は戦争の最前線に相応しい気持ちでおこなうことを要求した。それに答えてくれたのが彼の様な得がたい老兵であった。

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グローバル化は良い事ばかりでなく、多くのマイナス面もある事が分かる。現在欧州で拡散している腸管出血性大腸菌O104は何処から出現したのか、又何から感染したのかが非常に分かりにくくなっている。正に、グローバル化のマイナス面の一つであろう。情報社会で情報機器を通して繫がるに転じて絆などの言葉が盛んに飛び交っているが、世界に繫がる事がそれほど大事な事なのであろうか。皆が画一的になり個性が失われるとしたらそれこそ世界中に金太郎飴の出現だ。確かに、グローバル化はローカルの重要性が増す事は理解するが、それを維持出来る保証は何もない。バングラデシュで貧しい者に資金を貸すマイクロファイナンスは世界中からの小額資金で運用されているが、安易な借り手を苦しめている姿は誰もが参加出来る金融資本主義において成功者は少ない事に触れないからである。世界が同じベクトルで豊かさを追求できるほど地球は大きくはない。理由は不明だが、地球が変動期に入ったと言われ、大地震や火山の噴火などが世界中で起きている。この現象がグローバル化に相俟って起きてきたと言ったら考えすぎであろうか。勿論、過去にも幾たびか大きな災害が発生しているので、グローバル化が全ての原因とは言わないが、少なくてもグローバル化による発展途上国や中進国の急激な経済成長が地球のバランスを壊していることは否定できない。若し現在のグロ-バル化が行過ぎているならば自然は是正する方向に作用するものと考えられ、多くの天変地変や病気などが蔓延する可能性はある。この考え方を進めるとオカルト的になるのであるが、世の中には理解できない現象もあり、想定外などない事を知る必要がある。人類の歩みを見れば、その時点の科学力では分からなかっただけであり、遺伝子組み換えの副作用などもあるかもしれないのである。大航海時代に従来なら局地的に閉じ込められていた風土病も世界に伝播していった様に、グローバルの現代は時間軸的にも早くなったので一歩対応が遅くなると取り返しがつかなくなるのである。世界中のリスクが対岸の火事とならなくなった世界感を持ち、あらゆる面で事前に備える必要があると思われる。

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最近、若くして逝去した金子みすずの詩が良くCMなどに使われている。特に、東日本大震災以降は頻繁にTVを通して耳に届く。又、一時は公共広告機構などの「こんばんわに」、「おはよううなぎ」などの癒し系CMが流され、対極のCMの「頑張れにっぽん」や「頑張ろうにっぽん」の五月蝿さに対して心が和んだ。今回の大震災においては若い方のボランティアの参加が多かったと言われているが、ヴァーチャルな社会の中で生きている傾向が強まっているので、実際の経験を重視する流れに合致したと考えられる。最近、或る雑誌で群馬県出身の詩人「高橋元吉」を知った。高橋は偶成の詩人と呼ばれたらしい。明治生まれで戦後の1965年に72歳で亡くなっている。多くの作家や詩人などが今回の大震災に関してどの様に書き留めるべきか悩んでいると言われるが、高橋元吉の詩は日本の四季の移り変わりと厳しい自然環境に生きる術を語ったものと思われる。又、戦争の時代を生き抜いて戦後の平和の時代も経験している。彼の代表的な詩のひとつ、「なにもさうかたをつけたがらなくてもいいではないか  なにか得態の知れないものがありなんといふことなしにひとりでさうなってしまふといふのでいいではないか 咲いたら花だった 吹いたら風だった それでいいではないか」がある。私はこの詩に触れた時に肩の力が抜けた。高橋元吉の詩集を入手するのは今では難しいと書かれていたが、一度じっくり読んでみたい詩である。

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人類が音楽に何時頃から親しんだのか知らないが、音楽は脳内をクリアにし、明日への活力を生み出してくれると私は思う。偶然の縁で目黒GTで開催された日曜日の小規模な音楽会であるバンドネオンのタンゴ演奏会を楽しんだ。バンドネオン奏者は平田耕治と言う若い方で、彼を評価した方曰く「野性味のあるバンドネオン奏者」だと。この演奏会には、他にピアノ、バイオリン、コントラバスが加わり、更にタンゴ歌手の方も参加した。私がアルゼンチンタンゴを聞いたのは確か中学生の頃だと記憶している。聞いた時には体が震えるほどのインパクトを受け、早速レコードを購入した思い出がある。私は学校の授業としての音楽は嫌いであった。理由としては学科と実技があり、学科で100点をとっても実技が不得意なら最高の評価が得られなかったからである。実技とは歌唱とか笛とかハーモニカであり、あがり症の私に取っては辛い評価であった。この為、学校の音楽の授業からは興味が離れ、逆に母にねだって買って貰ったギターなどを自宅で弾いて楽しんだ。更に、中学時代にはエレキバンドの全盛期だったので、当時は不良と言われたエレキバンドを友人達と結成したが、才能がない私は途中で離脱してしまった。高価なエレキギターまで買って貰ったが、母には聞かせないでお蔵入りしたので今でも慙愧の念に耐えない。しかし、その後も音楽に関しては興味が続き、大学時代から社会人に掛けて長く「題名のない音楽界」などをTVで楽しんだ。私の場合、西欧の音楽よりは南米、アフリカ、アジアなどの音楽に興味があり、大分前の事だが街頭で南米音楽に使われる"ケーナ"と言う縦笛を買い吹こうとしたこともあった。アルゼンチンタンゴは最近は熟年のダンスブームで有名だが、魂が揺さぶられるような音楽はバンドネオンと伴に脳裏に残る。不思議とここ数年、アルゼンチンタンゴに関してはミュージカルを含めて定期的に楽しむ機会が得られている。又、クラッシクに関しては、若い頃には余り興味がなかったが、年とともに良さが分かり、最近はコンサートにも顔を出している。3.11の後には一斉に音楽会などが自粛されたが、それは行き過ぎの感がある。厳しい時こそ音楽を聴いて心を奮い立たせる必要があるのではと考える。特に、ストレス社会には音楽が必要であり、音楽を聴くことで絶望を希望に変える事が出来るのではないかとアルゼンチンタンゴを聴いて再認識した。

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日本政府や東京電力は自分の誤りを反省もしないで電力が足りないから節電しろと強要している。最近の草食系の人々は大人しいので唯々諾々と節電努力をしている。翻って、海の向こうの米国・NYに眼を転じれば、電力供給会社が報奨金付きで省エネを消費者に要請している。この差はなんだろうと考える。民主党政権の左翼的な考え方だと、電力は消費者のエゴにより増大したのだから原発事故による電力不足は諸費者にも責任があるので、節電をしろと言うことになる。この様な議論はフザケルなと言いたい。電力の供給の主体は工場などである。工場に安い電力を供給するために国民は高い電気料金を支払ってきたのである。然し、いまや工場の海外移転等で過去に予想した電力など必要なくなり、電力設備は過剰投資となっているのが実情だ。福島原発事故直後の計画停電などは原発事故に対する問題を電力不足に置換した悪質な詐欺的行為だ。節電の強要は電力不足ではなく、原発事故による他のエネルギー調達コストの上昇の負担を軽くするために呼びかけているものと推察され、実際に電力供給不足が起きるかどうかは不明だ。本来ならば、今回の原発事故を契機に一時的な節電ではなく、省エネの強力な推進を考慮して米国・NYの供給会社の様に報奨金付きの呼びかけが必要だ。工場は兎も角として、オフィスビルに関しては、①照明が40%、②空調が28%、③その他設備が32%の電力消費割合とされている。節電15%の実現は照明から始めるのが効果的と考えると、LED照明に切り替えると行政が助成金を出す事により促進させれば、一時的な節電ではなく、省エネ効果を高め、東京電力が発電設備を減らす効果が期待できる。その他にも省エネ対策に対して行政が報奨金なり助成金を出せば一挙に省エネが進むと思われるので、今回の原発事故を単なる事故に終わらせずに日本のエネルギー使用に関して大きな転換点となる政策を打ち出す必要がある。政治家や官僚にもっと知恵を出せと言いたい。