ロンドンオリンピックで沸き立っている中で、日本経済には想像を超えた逆風が吹いてくる予感がする。円高が定着した状況で資産デフレがオフィスビルの賃料下落と言う形で次第に大きくなってきており、更に電気料金の値上げが経費節減と言う経済縮小を助長し、且つ欧州の経済悪化が中国など新興国の経済成長を縮小する要因となってきている。中国バッシングで浮かれている内に、中国経済に依存した日本経済なのを思い知らされる時が近づいている。中国が駄目ならベトナムがあり、ミャンマーがあると嘯いている輩がいるが、果たしてそうだろうか。海外に目を向ける前に、現在日本に起きている現象を冷静に分析する必要がある。日本経済は民間企業はリーマンショック(2008年)の清算を行ってきたが、行政は今年に入り漸く着手した。地方の自治体などは分譲造成地などの価格を40%以上の価格引下げで時価に近づけている。然しながら、中小企業融資法案による貸し出しに伴う不良債権は全金融機関で50兆円とも言われ、来春から本格的に処理が始まることを考えると15年前のバブル経済崩壊後の資産デフレの悪夢が再来する可能性は高い。今年に着手した行政の土地価格の引き下げなど無に帰してしまうほどの下落もありえる。資産デフレの進行する過程で中国経済の大幅な減速に直面した場合、日本経済は消費費税増税の一体改革など出来る状況にはならないのではないか。石原都知事などが浮かれて尖閣諸島問題で中国と対立を煽っているが、米国以上に互いに依存している経済を無視して政治的対立を助長した場合のリスクは計り知れない。東京都などは都内の道路建設の用地買収を進めているが、買収価格は時価と比較するとかなり高い価格となっている。今秋に価格の見直しを計画しているが、現在起きつつある資産デフレの速度から見れば今後とも後手後手に回ることは必須だ。石原都知事は東京オリンピックを未だ諦めていないようだが、資産下落による都税収入の急激な減少が起きる可能性を考えれば多分吹き飛んでしまうと思われる。日本国民が考えている以上の日本経済の急激な悪化が近づいているのを危惧するが、高齢化社会になり,年金生活者が増大するに連れて危機感が薄れてきている様だ。昨日、セメント業界に詳しい人とランチをしたが、日本のセメントの出荷量はベトナム以下と言っていた。東日本大震災後の出荷量も1割程度増えた位と経済に与える影響は少ないようだ。政治家も官僚も花見の宴が続いており、未曾有の国難が迫ってきているのにも気づかない。心ある人は今後の悪化に備える必要がある。
ロンドン五輪の柔道に見る日本が駄目になった理由
オリンピックなどには興味がないので余り見ないのだが、以前と比べてTV番組の貧困さから今回は自然とオリンピックの競技にチャンネルを置いているケースが多くなった。久し振りに見た柔道競技で日本選手の柔道の変わりようには驚いた。柔道の本質を忘れて力任せになっているのを見ると、日本自体も経済大国と言われて久しいが、経済大国になり何時の間にか力技だけになってしまったのかもしれないと考えた。体の大きい人や力の強い人が勝つなら武道などやる意味がない。小さな人が大きな人を力のない人が力のある人に勝つからこそ妙味があり、鍛錬する意味がある。ひとつ救いだったのは、天才柔道家と言われた岡野功の弟子である選手が力技の柔道でない一面を見せてくれた事だ。岡野功さんは現在茨城の流通経済大学で柔道を教えているとのことだが、私の故郷の茨城出身なので彼が柔道の本質を継承してくれているのが嬉しい。柔道の本質は相手の力を利用して投げるのであるが、柔道が国際競技として認知されて行く過程で力技の競技になり、日本の柔道を指導する人達も何時しか柔道の本質を捨てて力技の舞台に乗ってしまった。日本の柔道が勝てなくなった理由を勘違いした結果というには余りにもお粗末過ぎるのだが、その様に考えるに到った背景には経済大国となった日本人の意識が反映しているものと思われ、弱いものに対する思いやりや配慮がなくなったことに起因しているのではないか。日本人が無謀な太平洋戦争を引き起こしたのも明治維新後に日清戦争、日露戦争に勝ち実力不相応の大国意識を持ったからであった。柔道の本質である相手の力を利用する技は謙虚さから生まれたものと言える。柔道と同様に相手の力を利用する武道に合気道がある。合気道の凄みは相手の力で投げる技である。日本の柔道も合気道を学べと言いたい。私の父と義父も柔道の有段者であり、確か義父の方が段は一段上であった。結婚前の挨拶に両親とパートナーの実家を訪れた時に、父が部屋に飾ってあった講道館柔道の段位の額を見て急に話が和やかになった記憶がある。父も十代から柔道を始め、大学で学徒出陣までの間柔道をやった猛者である。高校時代には茨城県を代表して全国大会に出場した実績があるが、義父の講道館の段位には敬服した様であった。私に父が柔道を勧めなかったのは上には上がいることを知ったのが理由の様だ。私と言えば、子供時代は柔道より剣道を好んだが、一番好きで強かったのは相撲であった。余談だが、高校時代の体育の授業の柔道でクラス内の対抗試合があり、私が中級で柔道部の部員に勝ったことがある。この時に体育の教師が柔道部の顧問であったので、私に負けた柔道部の部員が教師に罵倒されたので可哀想なことをした記憶がある。高校時代の話の序であるが、母校の校歌は最初4番まであった、明治に作られたために短い歌詞のために4番まで演奏しても高校野球の試合などでは他校の演奏より大分早く終わってしまう欠点があった。この為に、5番が作られたのだが、この歌詞は「雪折れあらぬ柳見よ 柔よく剛を制せずや 石のくぼめる滴見よ 念力岩をもとほさずや」とあり、今の日本人に欠けている内容が書かれている。尤も、校歌の作詞家である武島羽衣は隅田川の"花"を作詞した人物だ。5番を追加されてあの世で嘆いているかもしれないが。デフレ経済で苦しんでいる今こそ、力技でなく相手の力を利用する柔の心をもって日本再生を求める必要があるのではないかと思う次第だ。
長寿社会の対価
大層なタイトルだと思われそうだが、福祉についての話題ではないし、多くの問題を抱えている介護業界の話でもない。実は日本社会が駄目になった理由のひとつに長寿社会の出現がある様に考えたからである。大津市の中学生のいじめに起因した子供の自殺に対する教師の無責任さやあらゆる所で見られる無責任と自己保身は、生に対する執着の結果と思われるからである。日本人の中高年層は何時から死を忘れてしまったのかと考える。然しながら、死は我々の周囲の至る所に存在しているのだが、健康的な個人レベルでは、死の意識はそれほど身近な問題ではなく、定年やリタイアした後の長い時間の方に関心が強いと見られる。病気や自殺で死ぬ人に対しては不運な出来事と片付けて自分とは係わり合いのないことと思っている人が大半である。尤も、病気で入院した人でも自分が死ぬとは思わないし、思いたくもない筈である。特に、医療技術などの高度な発達で昔なら死んでいた人でも生かされているのは真実だ。一度きりの人生だから急いでこの世からお去らばしたくない気持ちは私も同様だが、長寿社会が人生で大事な物を失ったことも事実と思われる。その失ったものとは、人は死に直面して初めて人は真剣になれるし、人生の重要な場面に遭遇したときに立派な判断が出来ると思うからである。この事に言及しているのはアップルの創業者の一人で、IT界に偉大な業績を残して50代で亡くなったスチーブ・ジョブスである。彼は自分が死ぬと言うことを忘れずにいるといると、大きな人生の選択をする時に助けてくれる重要なツールになること述べている。ジョブスは、死を意識していると、外部からの期待、誇り、きまりの悪さや失敗を恐れる気持ちなど死を前にすると消えてしまい、本当に重要なことが残ると述べている。確かに、ジョブスが指摘するように死にたいと思う人はいないかもしれないが、人はいずれ死ぬ運命にあることは否定することはできないと。日本人は本来は古来より死生観を持った民族と思われる。自然の中に生命を感じ、人のみならず植物にさえ擬似的に生命を持たせた。生を感じるということは常時死を意識していたという事である。医薬品が発達する前の60年前には結核で死ぬ人も多かった。常に死と直面してきたことにより、他人に対する優しさも生まれてきたのである。しかし、秋葉原事件など無差別殺人に見る様に現代日本は自分の不遇を他者に転化し命まで奪う社会になっている。長寿社会に必要なのはお金と勘違いした多くの日本人が、お金と自己保身に走った姿が他者を省みない社会を生んだと思えて仕方がない。この殺伐とした現代社会が長寿社会の対価としたなら人は長生きしている意味さえない。地震、台風など自然の不条理な災害で生命を絶たれてきた日本人が培ってきた死生観が科学技術の進歩により失われていた所に、千年に一度の東日本大地震と未曾有の原発事故が起きたが、日本人が死生観を取り戻したとは言えないようだ。野田総理が決断する政治などと言っているが、死を忘れた政治家連中が良い選択の決断など出来るわけがない。政治家や官僚に目を開かせるには死を意識させる方法しかない。
ネガティブキャンペーンに一役買っている学者連中
最近のマスメディアの動きを見ていると政府や省庁のネガティブキャンペーンに関連したものばかりであることが良く分かる。ネガティブキャンペーンには哲学学者、心理学者、政治学者、経済学者などが登場するが、考えて見ればこれらの学者も権力者側に擦り寄ることで政府や省庁の何等かの委員に選ばれるメリットがあり、学者としての才能より政治力の能力のある専門分野では才能がない学者連中だ。昔からTVに出たり、新聞に投稿したりする学者は暇だからと言うのが定説で今でも変わらない事実と思われる。珍しい名前なので目に付いた哲学者(?)で適菜収と言う人物がいる。彼は「民意に従えば政治は自殺・・・・・」とか書いているらしい。この様なタイトルで本を書いたりすれば権力者側は喜ぶであろうし、政府の何らかの委員会に委員として招聘されることは間違いないであろう。マスメディアも盛んに民意に従うことはポピュリズムに陥りファシズムの危険性があると喧伝している。適菜収の書いたものやブログなどを見ていないが、民意に従わない政治が正しいと言う論法は何処からきたのか不思議だ。「国会議員の定数削減」、「縦割り行政の弊害の改善」、「公務員改革」が民意であるが、この民意に従わない事が正しい政治と言うことであろうか。政治家も官僚も泣いて喜ぶ理論だ。IT化による情報化の時代には縦割り組織の弊害が大きく、組織をフラットにしなければ機能しなくなっている。然しながら、日本の行政組織は明治以来の組織のままに温存されており、その上省庁会議と称する官庁横断の制度が政府法案を各省庁の思惑通りになるように骨抜きして正に民意に従わない政治になっている。適菜収と言う少壮の学者はその事実を知っているのであろうか。適菜収と言う人物の経歴、有名私大を卒業して出版会社に勤め、その後哲学者として執筆活動している37歳と言うだけで政治や役所の実態を知らないと断言しても良いと思われる。今回は適菜収と言う人物をターゲットにして政府や官僚のネガティブキャンペーンに貢献している学者に矛先を向けたが、この学者連中より最悪なのはマスメディアである。情報化の時代で消えてゆく存在の新聞は兎も角、戦前の金融資本主義が復活したと思ったらマスメディアや学者まで先祖帰りしてきたのには驚いた。マスメディアが政治を間違った方向に誘導し、太平洋戦争へと国民を地獄に落とした。同じ誤りを60年経過して再度行おうとしている。原発問題を含め民意を無視した報道を行うマスメディアに対し、購読中止、広告掲載取りやめの抵抗で示さなければならない。
日本は官僚組織を変えないと政権が変わっても何も変わらない
マスメディアは嘘を承知で日本の停滞を政治の責任にして政権の交代が日本を変えると叫んでいる。何時の間にマスメディアは官僚に支配されたのであろうか。記者クラブの制度だけの理由ではマスメディアの堕落は論じ得ない。今でも大多数、特に高齢者の多くがマスメディアの報道で社会の出来事を判断している。このために、官僚に対する批判は起きても最終的には政治の責任に帰結してしまい、本質が語られることはない。中曽根内閣で行政改革が行われたが、この改革も所詮は官僚機構に依存した改革であるので、省庁の統合と独立法人などに組織が変わっただけで中身は少しも変わっていないのが実情だ。官僚組織を変えられない原因のひとつには、官僚組織を変える法案作りを官僚に任せるしかないことである。尤も、官僚組織が機能しなくなったのは昔からではない。元官僚の方に聞くと、官僚になった人には左翼主義の考え方の人が多く、日本を良い方向に持ってゆこうとする気概があったとのことであった。それでは何時から官僚組織が自己利益の追求に也、国家国民を考えなくなったのかと言うと、ターニングポイントは田中政治に尽きる。給料が安いので公務員は汚職などを起こすととの考え方と優秀な役人を獲得するには高い給料が必要との理由から公務員の給与は大手企業並みに引き上げられてきた。この結果何が現場で起きたかと言うと、次官レースに蠢く官僚の姿である。学校の教師も同様だが、お金のために公務員の職業を選ぶ者に国家国民の利益を考えるわけがないことに誰も気が付かなかった。給料が安くても国家国民のために働く意志を持った人達を排除し、机上の学問だけが優秀な者を採用し続けた結果が今日の官僚の姿である。勿論、今の官僚の中にも立派な人はおり、国家国民の為に働こうとするのであるが、"悪貨は良貨を駆逐する如く"排除されている。官僚でさえ、政府案を検討する省庁会議が骨抜きにする癌であると言明するのであるから、官僚組織は末期症状である。この状況を打破するには、本来は米国の政党の様に政党自身が政策立案の機能を持つ組織を有するべきだが、実際には多額の資金が必要であり、今度は企業に依存することが大きくなり、米国の様に政治と企業の癒着が起きて国益を損なうので難しい問題なのは確かだ。この為、省庁の人事に政治が関与し、場合には拠ってはOBに再度次官に就任させて行政の改革を断行する必要がある。この様なことに対して官僚組織はマスメディアを利用してネガティブキャンペーンを繰り広げると思われるので、官僚のネガティブキャンペーンに加担するマスメディアに対して国民は購読や視聴を含めて"NO"を突きつける必要がある。日本の改革に対して一番の敵は官僚組織であり、二番目の敵はマスメディアだ。何れも机上の空論の輩であり、日本社会を外国勢力にコントロールされる素地を作っている。マスメディアを信用しないことから真の改革が始まる。
日本社会に見る大きな勘違い
当社が本社ビルを置く虎ノ門1丁目では環状二号線計画(通称・マッカーサー道路)の一環として道路上に超高層ビルの建築が進められている。事業主の森ビルは東京都の事業を受託したものであるが、建物自体は店舗、事務所、住宅、ホテルを包含した20世紀型工業化社会の概念を継承した評価に値しないものだ。この建物の建築のために長年親しまれてきた路地や色々な店や建物が消えた。シュンペンターの創造的破壊を不動産に持ち込んだわけではないだろうが、企業経営と異なり、不動産の創造的破壊は文化的破壊に直結するものであり、無機的な空間しか残らない街づくりと思われる。私も勉強不足であったが、日本の建築に関する用途地域の設定は米国の方式を導入したものであり、正に工業化社会に都合の良い方式であった様だ。然し、この用途方式は無理やり人の生活の場を区分することになり、昔の様な混然一体と化した街は消失することに繋がる。米国は歴史がない国だから破壊することには抵抗がなく、機能的な都市計画が受け入れられたものと考えられる。これに反して欧州は歴史があり、歴史的な建造物や人の営みは街並みに溶け込んでいるので、米国とは異なり、破壊でなく"つなぐ"建築が主流であり、今も同様らしい。翻って、日本は歴史が長い国ではあるが、自然災害の多い立地なので欧州の様な"つなぐ"文化はなく、壊れても直ぐに建て替えられる木の建築物が主体となってきたと言われている。しかし、日本は欧米の様な区画文化ではなく、襖や障子を外すと多面的な用途に使える文化を作ってきており、日本人の柔軟性が形成された由縁かもしれない。それが明治維新以降に近代社会を目指す過程で次第に柔軟性が失われて来て、更に第二次大戦以降は米国流の考え方が浸透した結果、街づくりに関しては創造的破壊どころか日本文化の良さを失った将来スラム化する高層マンションや人のつながりを消失させうる超高層ビルの建築を推進している。3.11で日本人は自然の怖さを改めて認識したにも拘わらず相変わらず米国主義的な20世紀型の建築物を造り続けている。21世紀に入り工業化社会から情報化社会に移り、環境に対する問題も意識に上り始めた今こそ日本文化を見直すべきであり、日本人の知恵を再度検証必要性があるもとと考える。路地をなくし人々の生活観をなくした街に未来はないはずである。日本人は稀に見る柔軟性や多様性を持った国民であり、その文化にこそ限られた資源の中での生き方に学ぶべきところがあると思料する。そう言えば、わが母校の校歌に「雪折れあらぬ柳見よ柔よく剛を制せずや」の一節があったことを思い出した。正に、日本の文化は剛の文化でなく、柔の文化であったものが、米国流の剛を追求した結果が現代の閉塞感を産んだものと推察される。経済大国世界2位などと有頂天になっている間にちっぽけな島国であることの己を見失い、他国の資源で贅沢三昧したのが長屋の花見であることも忘れたツケが今の結果か。それなのに、未だに大国気分が抜けず中国と張り合っている姿は見苦しいのひと言に尽きる。
不動産屋の独り言
スカイツリーの開業で東日本大震災の悪夢を一掃するかの様に高い建築物に対する憧れが戻ってきた。上から見下ろすと言う行為自体が権力的であり成功者に実感を与える存在になっている。昔は城の天守閣が高く聳え立ち人々を見下ろしていた。現代は高さを競うように世界各国で超高層建物が建築されている。日本では建築技術の発達により地震国でありながら高層建築物が建てられ人気を博している。現代社会は多くの分野で技術レベルが高くなり、多くの人は仕組みについて全くと言ってよいほど無知になっている。無知と安心感は表裏一体なのかと思えるほど高層建築物に対する不安な声は聞かれない。しかし、米国では9.11以降、日本では3.11以降に間違いなく高層建物に対する不安感を持つ人々が増えてきた。特に、最近のオフィスビルのテナント募集で感じることは、3.11以前と異なり、低層階を求めるテナントが確実に増えてきている。話は変わるが、格差社会と高層建築物の人気には相関関係があると思われて仕方がない。高層マンションはバブル崩壊後に埼玉県にマンションデベロッパーの大京が建築したのが最初で、その後は多くのデベロッパーが高層マンションを分譲している。この時の高層マンションは内陸部であり、今の様に臨海部ではなかったのは何を意味しているのかだ。高層マンションの増加は建築技術の発達が後押ししたのだが、一番の要因は高い地価を下げる意味もあったからである。専門家でなければ高層建物の建築にはコストが掛かるので価値があると思われがちだが、高層化する程に土地の持分は少なくなるので、日本的な不動産価値から言えば逆に高層化する程に原価は安くなるのである。本来ならば、高層化するに従いマンションの分譲価格は安くなり、オフィスビルの賃料は低くなって良いはずなのだ。然し、実際には高層化するほどマンションの分譲価格は高くなり、オフィスビル賃料は高くなる。デベロッパーは高層建物には笑いが止まらないのである。この為、何時起きるか分からない大地震のリスクより建築計画を優先するのである。万が一大地震で倒壊したりすれば想定外と言う便利な言葉が既にあるからである。尤も、土地の地盤が余り良くない場所に建てたスカイツリーは人気があるが、同じ敷地内に建てた高層オフィスビルは人気がない様だ。押上に何故オフィスビルだと言う指摘もあるだろうが、常駐する場所でなければ高い場所も相変わらずの人気だが、翻って常駐するとなれば人の意識が変わってきたのかもしれない。高い場所は確かに成功者の心を捉えるが、少なくても地震多発国の日本では企業の事業継続の観点から高層ビルにオフィスを構えるリスクについて考えられ始めたのかもしれない。インターネットで見たアップルの新本社ビルのイメージ図は森の中に4階建の円筒の建物であった。時代の最先端の企業が造る新本社ビルは今後の建物を暗示しているかもしれない。確かに、自社ビルであれば高層ビルでなければならない理由は何処にもない。環境や安全を考慮すれば、低層階の環境に良い建物を計画することになるのは必然だ。日本は少子高齢化社会に入り年間20万人規模で人口が減少して来ているのに、今更高層建物かと考えてしまう。近年の高層建築ブームはデベロッパーが多額の利益を生むために造っているもので、日本の未来社会を想像しているものではない。都市計画の観点がない日本だが、そろそろ成熟した社会にとって老朽化したインフラに対するメンテナンスの配慮を含めた建物や街づくりを考える時期に来ているのではないかと独り呟いてしまう。
笑止千万の中国スパイ事件報道
読売新聞やサンケイ新聞系の新聞が中国大使館の一等書記官のスパイ事件を報道しているが、内容が余りに牽強付会で現実無視なので驚いてしまう。日中国交40周年の祝い事に水を差したい連中のやらせ記事なのが一目瞭然だ。スパイが外国人登録証明を不正に使って商業活動するかと言いたい。スパイの定義も変わったのかもしれないが、スパイとして活動するには目立たないことが重要なのは過去も現在も変わらないと思うのは私一人であろうか。尤も、そのあたりを付かれると想定して中国のスパイは活動費が少ないので商業活動して稼いだ金をスパイ活動に充当していたのだろうとは何時の時代の中国を指しているのだろうかと笑ってしまう。今の中国人は米国の中華街に行けば資金力に圧倒される。中華街は拡大し、ベンツなどの高級外車を乗り回している中国人が本土より流入している現実だ。読売などの記者は井の中の蛙らしい。報道記事など常識的な目線で読むと嘘記事かどうか良く分かる。しかし、それに付けても中国大使館の一等書記官のスパイ事件報道は新聞自体の劣化と思わざるを得ない。昔は嘘記事でも今回の報道よりはましだった。そう言えば、反中の先頭にいる石原都知事は東京都の五輪招聘に日本国民が消極的なのに対し、自分の事ばかりしか考えない連中が多くなったと発言しているが、先の五輪招聘工作での多額な不明金や自分の息子の画家紛いを税金を支払ってまで委託しているのを見ると、何を偉そうにと言いたくなる。雉も鳴かずば撃たれまいと言う諺がある。石原都知事も肝に銘じた方が良い。尤も、本人は今の日本を進駐軍時代の日本と耄碌して理解しているので、米国だけに阿れば良いと考えているかもしれないが。不動産業界にも偉そうに言う輩は信用するなと言う経験知がある。長い人生でこの言葉だけは今でも真実だ。
財政赤字が政治の本質を勘違いさせている
財政赤字は予算の正しい使い方で陥ったのならば増税で解消することは当然である。問題は官僚の天下り先のためや政治家の選挙のために費やされた無用な予算の為に赤字になったのなら増税で解消など言語道断であり、その根を絶たないと再度赤字財政になるので増税など認めるべきではない。官僚も政治家も国民が過剰な要求をしたので財政赤字に陥ったなどと昨今は考えているらしいが、国民の大多数はサラ金財政なども求めてはいなかったし、何の対策も打てないで1000兆円近くの借金を国がするとは思いもしなかった筈だ。国会議員どもは自分の選挙の為に甘い言葉で国民に道路や橋などの建設を安請け合いして来たにも拘わらず、自分の責任を否定をするかの様な国民は国家に甘えてばかりで厳しさが足りないなどと放言している。此処での議論は過去に遡ることではないのでこの批判はいったん矛に納めて次の議論を展開したい。国も地方も箱物や過剰なインフラの投資で軒並みに財政難に陥っている。この現象は何も日本ばかりでなく世界的な問題だ。金融資本主義的な考え方はこの様な財政難から生まれてきたといっても過言ではない。国家や地方自治体が財政難に到った理由は色々とあると思われるが、今の問題は国家や地方自治体の財政難の解消の仕方である。行政も民間企業と同様にバランスシートを作るべきだとか企業の経営的な手法で支出を大幅に削減する方法とかが指摘されている。又、平行して運用益で支出過剰な分を補填する金融商品に投資する方法も提案されている。確かに、財政難を解消するには支出を大幅に減らして増税しか方法がないのは確かだが、最近の政治の動向を見ると財政難解消が目的化し、政治が行われていない危惧を感じる。無駄な支出を削減するのは当然なのだが、良く分析すると縦割り行政の中でバランス良く支出を削減しているので、本当に必要な所にお金が回っていない面も出てきている。又、制度を変えたことにより、弱い人達に皺寄せが出てきている面も多く見られる。
政治とは何かと問われれば、弱者の救済なのである。資本主義の中の競争社会にあって誰もが勝者になれる訳ではないし、社会は無用の用の様な存在があって初めて成り立っているので、そこに政治が必要なのである。企業経営者は弱者など省みることはないのである。無用な支出を切り捨て不要な社員を辞めさせて黒字経営になれば名経営者と呼ばれるのである。然し、政治家は企業経営者とはことなり、不法な競争を監視し、企業が切り捨てた弱者の再生や老後の仕組みを作ることなのである。尤も、企業経営者の中にも優れた人がおり、企業人でありながら政治家としての素質を兼ね備えて経営にあたった者もいる。戦前では、カネボウの中興の祖といわれている武藤山治、渋沢財閥を作った渋沢栄一、戦中戦後に出光興産創業者の出光佐三などである。ちなみに、松下政経塾を作った松下幸之助は先の人物と比較したら企業人としては上かも知れないが、政治は飽くまで企業の為と考えた人物なので、私の中では高い評価をしていない。翻って、最近話題の橋下大阪市長はどうかと言うと、彼も本質的には政治家とは言えない。その理由としては、彼の政策は金融資本主義的な考え方が根底にある様に見れるからであり、政治の本質を理解しているかどうか疑問だからである。勿論、私は大阪フィルハーモニー交響楽団の解散に反対している橋下市長は文化を蔑ろにしていると批判している人達とは考えを事にする。全国で最大の生活保護者を抱えている大阪市に対して文化云々の批判は当らないと思うからである。文化を守るには行政のアシストは必要だが、基本的には豊かな社会になって尖閣諸島の購入に短期間で5億円以上も寄付金が集まる日本なので、どうしても必要なら多くの人の寄付により財団を設立して守れば良いのである。全部税金で守る必要はない。大阪フィルハーモニー交響楽団の音楽家たちも大阪市の職員に甘んじた為に採算を度外した演奏活動しか行わなかったと推定されるので、楽団員にとっては不幸なことと思われる。私は自助努力を怠るものを救済しろとは言わない。問題は財政赤字解消が目的化した政治が横行するのを懸念するからである。政治の世界は数の必要性を痛感するが故に小沢一郎の様な選挙に勝つだけを目的化した政治家を生み出したのである。同様に、財政赤字解消だけを目的化した政治家の出現は貧富の差を生み、犯罪を増やすだけだからである。日本人は世界にも類を見ない80%の国民が中流意識の社会を実現した国である。インフレ経済でない低成長経済において同様な社会を実現する政治を考える必要があると思料する。