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新聞の書籍紹介で興味を持ち、三浦英之の"五色の虹"を読んだ。本の内容は満州建国大学の卒業生について書かれたものであった。満州国については先に"満州国演技"と言う本を読んで多くを考えさせられたが、今回読んだ"五色の虹"も学校教育の歴史では教えないことが書かれていて興味深かった。特に、満州建国大学では「言論の自由」があったと当時としては驚く内容であった。

日本が強引に
五色の虹.jpg造った満州国ではあったが、国家の経営に五族協和掲げてその幹部養成校ともいえる満州建国大学を創設したのには満州国の建国に関わった人達の理想があったと思われた。日本が海外に作った学校としては、「東亜同文書院」がある。同校は主として日本人の中国エキスパートを要請する学校として創設され、私の故郷の茨城の田舎からも入校し、戦後は国会議員にまでなった人物がいるので、亡父から聞いていたので知っていた。


しかし、満州建国大学に関しては、存在したことは知っていたが、どの様な教育が行われていたかには関心がなかったので分かろうともしなかった。


五色の虹を読み進むにつれて相当な英才が集まり、半数は日本人であったが、他に朝鮮人、中国人、モンゴル人、ロシア人、台湾人が平等な待遇で教育されていたのには驚くばかりであった。正に、戦前のグローバル教育であった。然も、言論の自由があり、当時の日本の政治に対して批判することや、日本国内では禁止されていたマルクスなど発禁処分の本も読むことが出来た事実には唖然とした。創設に拘わった当時の日本人達が如何に広い視野で物事を決めていたのかと思ったが、現代と比較すると昨今の日本の政治家や教育者や経済人が非常に卑小なものになったのかと考えさせられた。


私はローマの広場と言うイノベーションをテーマにした一般社団法人オープンイノベーションの会員になっている。そこで開かれたプレゼンの会で大手企業に勤務する方と知り合いになり、会の運営に携わる方を通してお酒も飲む間柄になった。先月末にその方と新年会を行った時に、その方の祖父が陸軍中将で、父親が陸軍中尉であり、然も戦後は戦犯としてフィリピンのモンテンパルの収容所に居たことを話された。奇跡が起きてその方の父親は帰国出来たのだが、戦後は自衛隊に勤務したとの事であった。この方の個人的なことを書いたのは、酒を飲んでいる席で定年後には何か日本が良くなることに力を注ぎたいと話していたからである。戦中戦後を通して軍人一家であった父親に育てられた彼は、国家と言う存在に対して今の日本人にはない国家に尽くす家庭教育がなされたのかと推測された。市井の人が国を良くする考えを持つのに今の政治家の程度の低さには呆れるばかりだ。特に、言論の自由を抑え様とする国会議員の動きには、歴史を学ばない愚かさが見えて愕然とする。


金融資本主義になり、少数の大金持ちが支配する社会では言論の自由は邪魔なのには相違ないので、市井の一人として言論自由を守ることが如何に大事かを戦後の満州建国大学に学んだ学生の人生を書いた"五色の虹"で痛感した。



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JR東日本の山手線恵比寿駅ビルに連結した「アトレ恵比寿西館」が今春グランドーオープンするが、同プロジェクトは株式会社クレディセゾンと連結子会社の株式会社アトリウムの共同開発によって行われた。アトレ恵比寿の別館として誕生する「アトレ恵比寿西館(地下1階地上8階)」はJR恵比寿駅に接続する"西口連絡通路"を新設することで東口を繋ぐ新しい歩行者動線をを整備し、街の流動化と活性化を図るものとなる。

副題として「La Patio(中庭)~"わたし"と"街"をつなぐ場所~」をコンセプトに、恵比寿での生活をより豊かに、より楽しみたい恵比須居住の人々が日常的に立ち入れる場所を創出して、街に寄り添い、街と共に成長するシンボルとして開放的な外観、緑と風を感じられる屋上「ガーデンテラス」により、新しい恵比寿の顔を作り出して行く豊富が語られている。

長々と企業の宣伝文句を書き連ねたかと言うと、偶然にもセゾングループ創業者の堤清二氏のオールラルヒストリー(堤清二・辻井喬オーラルヒストリー「御厨房貴・橋本寿朗・鷲田清一=編」)を購入して読了したばかりで、セゾングループが解体された後に一世を風靡したセゾン文化・パルコ文化と称したものが時代と共に消え去ったと思っていたが、奇しくも上の宣伝文句にセゾン文化の名残を見出したからである。

弊社は株式会社アトリウムと2000年頃から仕事上のお付き合いが始まったのだが、堤清二氏のオールラルヒストリーも同時期に対談形式で記録されていたものと分かって感慨深いものがある。セゾングループが解体消滅したが、グループ会社の1社であった株式会社クレディセゾンにセゾン文化が色濃く残されているのは、学生時代に西武池袋線江古田駅の最寄に居住し、池袋駅を利用して大学に通い、セゾン文化・パルコ文化と歩んできた世代としては嬉しい限りだ。オールラルヒストリーでは、堤清二氏は時代がセゾン文化とパルコ文化の消費・生活スタイルでなくなったと述べられていたが、1970年初頭にクレジットカード時代を予見し、月賦販売会社の緑屋を買収し、パブリックカードを発行するクレディセゾンに成長し、同社にセゾン文化を継承しているセゾン遺伝子を見ると興味深い。勿論、単純にセゾン遺伝子を継承しているのではなく、変化を遂げながらであることは論を待たない。

オールラルヒストリーは単に経営者と作家であった堤清二氏を見るのではなく、戦後の復興から今日までの日本の政治と経済の歩みを見る上でも大いに参考になる著作だ。生前は出版を頑なに拒んだ堤氏だった様だが、遺族の方が出版を了承したことは意義あることと思われる。私自身は過去に堤氏の著作を何冊か読み、数年前にはセゾン文化なるものを分析した本も読んだ。オーラルヒストリーに対談では、対談相手がセゾングループの崩壊の原因となった西洋環境開発に対して過去に経験した不動産会社の西武都市開発の失敗の教訓を生かせなかったのかと問うたが、西武都市開発の時は西武鉄道が起こした問題を引き受けたのであり、結果論から入ったので別な切り口からやればと考えたと述べるとともに、投資に関しては社長にしたものに任せたのでと歯切れが悪かった。戦後のインフレ経済で成長した経営者にバブル経済破たん後に聞く話ではなく、西武都市開発の処理もその後のインフレ経済で乗り切った訳だから失敗を教訓に出来なかったのかと責めるのは酷と言える。

何れにしても、クレディセゾンと連結子会社のアトリウムに堤氏が描いたセゾン遺伝子が残されており、変化を遂げながら成長している姿を見るのはセゾン文化時代に育った者としては嬉しいことでもある。

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先日、知人が開いた懇話会で同志社大学大学院の内藤正典教授の講演を聞く機会を得た。ドメステックな不動産屋の親爺がイスラムに興味を持っても意味がないと言われるかもしれないが、経済はグローバル化し、日本経済に影響がある世界の出来事については国内に限定したビジネスを行っていても無視できないので、機会があれば情報をとることにしている。。

私自身はアラブ人とペルシャ人の区別も出来ないほど無知だが、一般の日本人もイスラムについては、新聞報道で知る程度と思われ、今から30年位前に多くのイラン人が日本に出稼ぎに来ていたことと、確か筑波大学教授がイスラム教を侮辱した本を翻訳出版して暗殺された衝撃的なニュースで知っている位と推定される。しかし、イスラム教はアジアの諸国のインドネシアやマレーシアで信奉されており、世界中で多くの信者を有し、影響力のある宗教な割には日本では余り知られていない。原因は日本のマスコミが欧米の文化一辺倒で、イスラム世界に関して余り報道していないためと思われる。

内藤教授はシリアのダマスカス大学、トルコのアンカラ大学に学び、フランスの社会科学研究院の客員教授、英国のアバディーン大学の客員教授の経歴を持つ、日本では異色のイスラム研究者であった。歯切れの良い講演は目から鱗の話ばかりで、イスラムについては日本人は真実を知っていなく、イスラムについての報道はかなり偏向していると考えざるを得なかった。日本のイスラム報道が何故偏向するのかは、欧米のキリスト教文明の情報源を主として使用した報道を行っているからなのは自明だ。

フランスで起きたテロ事件は日本では欧米のニュースに従ってISの仕業と断定して報道しているが、内藤教授の見方は、フランスに移民した500万人のイスラム教徒の経済的な苦境と差別が背景にあり、移民2世の不満が起こした事件として捉えていた。この為、今後ともISと言う国境を超えた集団に移民2世が呼応してテロ事件を誘発する危険性を指摘した。シリアと言う独裁国家は国民の生命財産を無視しているので多くの難民が発生するリスクがあり、日本も北朝鮮と言う独裁国家が近隣にあるので、シリア問題を研究する必要があると内藤教授は指摘した。内藤教授の話だと、シリアは北朝鮮と親しく、内藤氏がシリアに留学していた時に北朝鮮から多くの留学生が来ていたらしい。

フランスなどがテロ事件に対抗してISに対する空爆を強化したが、IS自体は国家ではないので、世界中で戦士を活動させることが出来る事が問題であり、中東のISを消滅すれば、逆にISの戦闘員は世界に散らばり、欧州や米国の移民2世を巻き込んだテロが続発する危険性が高いと内藤教授は指摘した。更に、インドネシアなどイスラム教の国にも争いが波及する可能性も否定できず、世界は混乱に陥るリスクも指摘した。欧州のイスラム移民に対する差別等を無くさない限り、欧州のテロはなくならないという事だ。そして、欧州のテロはインドネシアなどのイスラム教徒も刺激すると指摘している。怖い話だ。

なお、内藤教授の話は怖い話ばかりでなく、イスラム教徒は昔は飲酒を禁じていなかったが、酒を飲んだ不祥事が多かったので禁酒になったことや、女性が頭から被る布はイスラム法で決められたことでないことなど多岐にわたった。内藤教授の話を聞いて改めて異文化の尊重、移民に対する経済的困窮や差別の撤廃が平和の前提になると考えた。しかし、資本主義経済は同じ民族にも所得格差を産み、低所得層と移民との確執が生じやすいので、グローバル経済の仕組みについて考えなおす必要があると思われる。難しい時代に入り、政治家の器量が問われる時代なのに世界中で政治家の質が落ちているのは杞憂すべきことだ。

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ネット作家の村上サガンがリアル本として出版した4冊目になる実話本を寄贈されて読んだ。著者が今回の本を書いた理由は、秋葉原通り魔事件の被害者「宮本直樹」氏との出会いにある。結論から言えば、村上サガンがIT業界で成功した切っ掛けが宮本直樹氏だったからだ

私は村上サガンと出会ったのは今から16年前に遡る。村上氏がサラリーマン時代に起きたトラブルに対する解決のために弁護士を紹介したことが縁だった。その縁も私の大学時代の友人の高校時代の同級生であったコピーライターの知人の紹介だった。コピーライターは京都の大学を出て東京に就職する時に大学時代の友人から東京の住居を探す手伝いをした縁であった。正に友達の輪を地で言った関係だ。件のコピーライターと村上氏は音楽バンドを通じて知り合ったとの事を聞いていたが、私の知り合いの中では二人とも頭が良いが変わった人物でもある。

今回の本で改めて分かったのは、私が紹介した弁護士が凄腕で村上氏のトラブルを解決したことが、村上氏が我が社のIT関係に協力してくれる事になった縁だ。もっとも、本の中では私がコンピューターに無知な人物として描かれているが、私は大学時代に専攻した学科が電子工学なので多少はIT関係の知識は持ち合わせていたのを村上氏は知らなかったのか、本の流れで無知にした方が良いと思ったのかは分からない。

本自体はIT業界の裏側を書かれているので面白く読んだ。特に、初期のIT業界に暴力団が絡んでいることは聞いていたが、その事が事実であったことに触れている。また、プログラマーは社交的に苦手な人が多い事や統合失調症を病んでいる人など管理するのが大変な集団であることも分かった。派遣で成り立っているシステム構築では常に問題が内在することも指摘されており、社会保険庁のデータ消失問題にも触れており、行政のIT無知は今でも変わっていない事に不安を覚える。

同書は初版本は少ないこともあるが、既に初版本は売り切れて二版目に入ったそうだ。編集は編集プロットを使用して村上氏が自分で行った面もあり、専門の編集者があまり関与していない事もあるので多少雑だが、安い本(定価499円)に仕上げるので仕方がないと考える。IT業界に興味があれば一読したい本であることは確かだ。

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今朝の日本経済新聞の"あすの話題"と言うコラムに面白いことが書かれていた。書いたのは元中国大使の宮本雄二氏だ。書き出しは霞が関の官僚に対する国民の見る目の厳しさなのだが、中段では官僚もプロになる必要があると指摘し、後段では官僚が忙しくて勉強の暇がない理由として国会対策の為なので、霞が関改革=国会改革と結んでいる。コラムでは英国では国会対策は国会にいる政治家の仕事と聞いていると書いている。

確かに、衆参議員合わせて750名を超える国会議員が居て何をやっているのかと言うのは正論だろう。このコラムを読んで子供時代に地方議員であった父が話してくれた事を思い出した。国会を視察した時に議長が官僚が書いた書面を読み上げていたのを見て国会議長は楽な仕事と思ったとのことだった。当時、父は地方議会の議長に就いており、議事進行に係る書面は自分で書いていたそうなので、国会議長が人の書いた書面を棒読みしている姿は奇異に映ったようだ。そう言えば、国会議長か大臣か忘れたが、国会の議事で何ページか飛ばし読みした議員がいた事を思い出した。確か、糖尿病か何かで目が悪くなった国会議員だった。自分が書いた書面あらば飛ばせば直ぐに分かるが、他者が作成した書面では気が付かないのも無理はない。

勿論、国会対策は与野党国会議員の調整にも使われている事を指すのであろうが、官僚にすべてお任せの国会議員ならば存在価値などありはしない。多くの国会議員は暇なので碌な考えしかしないのだろう。政策の勉強もしないで政争だけに忙しい国会議員を見ると、戦前・戦中の軍人と全く似ているのに驚く。昭和時代の軍人は料亭に陣取って明治維新の志士気取りで酒を飲んで気勢を上げていたらしい。この為、欧米諸国の軍事力や近代戦は総合力であることも気が付かず、無謀な戦争に国民を巻き込んだ。

今の無能な勉強をしないで政争ばかり行っている国会議員を見ると戦前の軍人がオーバーラップして不安になるのは私ばかりではないと思われる。そう言えば、維新の会などの議員集団が生まれてまるで一緒だ。情報社会はIoTに入り、次のステージに移ってセキュリティ問題も複雑化したのに政治家も官僚も危機感がないらしいことを聞いた。知恵どころか知識もない国会議員に多額の報酬や調査費、秘書手当を支払うのは百害あって一利なしだ。

官僚が国を思うならば、国会対策に手を貸さないで、政策も国会議員に作らせるべきではないか。馬鹿な政治家に日本を任せられないとして手を貸した結果が、国会議員は政争に明け暮れて政治を行わなくなった。今の国会議員など存在価値がないことを国民に知らしめることが国を救う道だ。

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宿泊施設不足で民泊の問題がクローズアップされてきたが、マンション管理の業務を受託している業者としてはマンションに関しても可能かどうか気になる。マンションは区分所有法と管理規約とで利用が規定なされているが、民泊問題は管理規約に定める必要がある事項と思われる。

分譲マンションは当初の本人の使用と異なり、近年は投資的な傾向が増加し、不在地主的な賃貸人を住人とする使用が増えている。勿論、高額マンションは1980年代から投資目的で購入する事例も多かったが、デフレ経済になってからは、預金金利も低いこともあり、マンションの投資も盛んとなり、テナントに貸し出している分譲マンションも多くなった。尤も、分譲マンションは住宅としての利用ならば、区分所有者本人以外でも住むことが禁止されているわけではなく、管理規約というルールに基づいて使用するならば問題にはならない。

然し、民泊の場合は不特定の人達が出入りすることになり、通常の管理規約には旅館的な使用を規定していない。この為、行政が民泊に対して前向きに取り組むとなれば、戸建て住宅は問題は少ないが、分譲マンションに限れば住まいとして使用している区分所有者に影響が出てくるので無視できないことと思われる。

行政は部分最適で動くので、統合した視点で捉えることが出来ない欠点があるが、正に民泊問題は統合した視点で解決しなければならない事項と思われる。分譲マンションの火災保険等加入の場合、共用部は管理組合が加入し、専有部分は区分所有者が加入している二重構造になっているケースが多く、問題は民泊で火災事項等が起きた場合には従来の保険では適用されないケースがあると思われる。保険の問題は当然に戸建て民泊も同様な問題を抱えると推察される。

更に、入居時の出入する際の鍵等の問題も鍵のコピーや暗証番号の変更の問題など区分所有者だけの問題ではない面も多い。行政が認める民泊は戸建て住居なのか、分譲マンションも対象なのか気になる所だ。

何れにしても、民泊問題は2020年の東京オリンピック開催と観光立国において避けられない事項ならば、統合的にルール作りを行うべきであり、地方行政の条例で解決する問題ではない。

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三井不動産レジデンシャルが販売した横浜市のマンションの杭工事に施工上の問題が発見され、建替えが余儀なくされた。今回の様な建築物の施工上の不良工事が建築基準法に係る確認申請手続きの規制緩和以降に相次いで起きている。新聞沙汰になる施工不良は氷山の一角として認識する必要が出てきた。何故に不良工事が多くなったかは様々な要因があるが、大きな要因としては行き過ぎたVE(バリュー・エンジニアリング)があると推定できる。

今回の事件を起こした三井不動産レジデンシャルは、建築基準法に係る確認申請手続きの規制緩和における問題点を先取りし、社内に建設会社の工事担当OB100人雇用して施工現場の強化を実施していたことを仄聞している。強化した理由は、規制緩和以前は確認申請手続きに際しては基本設計・実施設計の図面を完成させる必要があったが、規制緩和以降には基本設計と最小限の実施設計の図面で確認申請手続きを行うことが出来るようになり、確認通知が下りてから建設会社に不足する実施設計の図面を描かせるシステムになり、この実施図面作成の段階でVEを行い、コスト削減が図られる様になった。この為、デベロッパーは従来の建設会社に対する発注スタイルを変更する必要があり、施工管理に対する新たなチェック体制を構築したのである。

しかし、その後に構造偽造事件が起きて建築確認申請手続きを含めて建築士に対する再規制強化が行われ、今回の事件が起きないような法的な処置がなされているのである。それにも拘わらずに不良工事が後を絶たないのは、別な理由が生じていると考えられる。その原因のひとつと思われるのは、IT技術によるコスト削減の施工方法だ。今回の杭工事のVE適用には、杭工事にセンサー機能を付けて地盤の高低差に合わせて杭の長さを変える技術だ。以前には建築敷地内で数ヶ所のボーリング調査工事を行い、そのN値結果を基に杭の長さ等を決めたのである。今回の様に基礎杭が場所によって長さが異なることはなかったのである。確かに、地下地盤は一様ではないので、一番N値が出なかった場所に合わせた杭の長さは無駄な面があることは事実と思われる。しかし、今回の事件で分かったことは、施主も元請けの建設会社も杭工事の下請け管理者に任せてセンサーによる杭工事のチェック体制を怠っていた事実である。

勿論、今回の事件は個別的な理由に帰したのでは間違った判断が起きると考えられる。最大の理由はコスト削減に対する基準的な考え方が失われ、理由なきコスト削減が施工現場で強いられている現実である。VEとは仕様変更なしに建設コストを下げる技術である。デフレ経済で幾ら物価が下がっているとは言え、安全な建物を建築するにはコスト削減にも限界がある。しかし、その限界を分かった施主が少なくなり、東日本大震災以降は建設現場の労働力不足もあって技術でコスト削減する方法が相次いでいる。新しい技術でコスト削減を図ること自体は間違いではなく、時代が要請したものなので否定することは出来ないが、問題は施工現場の技術者たちの能力が追い付いているのかと言う危惧である。

確かに、建設現場にはBIMとか見える化が図られた技術やタブレットによる遠隔管理体制、更には今回のセンサー技術によるIT技術の活用など目覚しい動きが出ている。しかし、忘れてならないのは、最終的には人間の判断が必要な事である。

コスト削減や工期短縮には、品質管理の面で新たな問題点が生じている。基本的な記録管理がなされていなく、設計変更などが十分に各現場担当者に伝わっていないと言う問題である。問題が起きた施工現場では、「書類の不備」、「設計図チェックの不十分」、「施工計画書チェックの不十分」、「設計図と施工図と現場が食い違う」と言う異常事態に誰も気が付かなかったと言う、日本の物づくりなど消えてしまいそうな恐るべき現状だ。意図的か意図的ではないかは分からないが、現場にモラルハザートが起きているのは間違いない。

米国の社会を理想とする日本を考えると品質管理の杜撰さなど今後も出てくる問題と思われるので、建築物を発注する場合には施工監理を重視してお金を掛けることをお勧めする。

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東京都港区虎ノ門地区は安倍ノミクスの経済再生に係る特区に指定され、都市開発に有利な地区計画の大盤振る舞いが目につく。安倍ノミクスの経済再生が特区と言う指定されたエリアにおいて規制緩和によって進められている。特区の設定による経済再生に関しては、本来ならば日本全体で行いたい規制緩和を岩盤規制による抵抗の為に出来ないので、先ずは特定のエリアで行った上で順次広げると言う考え方を聞いた。

しかし、虎ノ門地区の特区の規制緩和を見る限り、行政側が恣意的に地区計画を大盤振る舞いしているとしか見えない。一つの例で言えば、愛宕1丁目の再開発の地区計画を見ると敷地が2000坪未満に56階の高層ビルが建築される。この地域は現行容積率600%、風致地区である。それが倍の容積率1200%を取得し、然も風致地区などお構いなしである。従前から開発を進めていたデベロッパーにとっては笑いが止まらない話だ。

小泉内閣以降、従前以上に規制緩和による経済成長が企てられてきたが、確かに規制緩和は必要なのは当然で反対ではない。しかし、規制緩和はプラスの面ばかりでなく、一方では新たな利権となり、経済界を含めて規制緩和に関係する会社に暗黙的な利益を与える構図になったマイナス面も浮かび上がる。特に、大企業にとっては大きな利権を手にした感がある。

大都市東京では道路開発などに都市開発と絡めて道路工事予算をねん出する考え方も出て来ており、正に首都高速道路の池尻大橋JCや環状2号線の虎ノ門ヒルズなどは典型的な成功事例だ。問題は都市開発と道路工事などを一体化した計画を進めると、色々な地権者の調整が必要になり、その中で一部の地権者に利益を与えるなど不公平な面も見受けられる。

何れにしても、本当の岩盤規制を温存し、規制緩和の御旗の下に不正が横行しては話にならない。尤も、御旗と言えば、明治維新に幕府を倒す時に使われた御旗はインチキで作った代物と言われるので、本来御旗など信頼に足るものではない。資本主義経済には倫理観が不可欠と指摘されているが、東芝不正経理事件やフォルクスワーゲンの不正ソフトの装着を見る限り、行き過ぎた資本主義の現代にあっては倫理観など期待せずに利権を貪る連中を曝け出す必要がある。それにしても地区計画の大盤振る舞いには呆れる。

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アップルのデザイン指揮官のジョナサン・アイブについて書かれた本を読んだ。丁度、その時に東京オリンピックのエンブレムの模倣事件の騒動が世間を賑わしていたので、同書で触れられていた英国の産業に係る学校教育については考えさせられた。東京オリンピックのデザイン模倣問題は、戦後の日本、否大陸から文化・技術が伝わってきた時代に遡る必要があると思われた。尤も、この様に書くと世界から評価された日本文化を侮辱するのかと言うお叱りが出るかもしれないが、私が言いたいのは一部の特殊な人達が築いた世界に誇れる日本文化と相対する多くの模倣文化についてである。

安倍政権発足以降、感心しない日本賛美の風潮が起きており、殊更に日本民族の優秀さを喧伝しているのが気になっていた。日本は数千年を経て日本文化と言うものを築いてきたが、その過程は正に大陸文化の模倣の時代であった。日本人は創造的な民族ではなく改良主義の民族と言われて久しいが、何時の間にか創造性も持ち合わせた民族と持ち上げるマスメディアの宣伝には驚く。戦後の電子技術も欧米の電化製品を分解して模倣してきたのは自明の事実である。

勿論、私は日本文化を研究する学者ではないので、私の考えは飽く迄経験則に基づく特殊理論にすぎないが、ジョナサン・アイブを育てた英国のデザイン教育を見る限り、創造的な物を作り出す背景には教育があり、その必要性は模倣ではなく先を行く考え方に気が付かされた。

翻って日本の文化は模倣時代を過ぎて独自な日本文化を構築してきたが、明治維新後の近代化政策で再度模倣文化に戻ったと考えられる。遠い時代の模倣のDNAが目覚めたと言った方が良いかもしれない。明治維新以降に起きた模倣ルネッサンスは21世紀の日本にも居残り支配続けているのが、東京オリンピックのエンブレムで良く分かった。日本の教育に欠けているのは創造性を起すプログラムであり、英国のデザイン教育は単なるデザインではなく、機能も含めた仕組みを創造させるものなのには感心した。世界で初めて産業革命を起こした国だけはある。東京オリンピックのエンブレム問題は多くの教訓を残したので、単なる個人攻撃ではなく、日本人全体の問題として捉えて行く必要がある。

弊社の本業の一つである建築設計デザインに関しても同様な現象が起きている。デザイン重視の時代に入り、過去にない建築物が作られてきているが、現場を見る限り、上辺の形だけで中身に対する配慮に欠けたものも見受けられる。アップルの創業者であるスティーブ・ジョブスは形と中味が伴わなければ絶対に妥協はしなかったと言われている。確かに、綺麗に見えるものは機能的にも優れているのは確かだ。デザインとは奇抜さだけではない。機能的に優れていて初めて評価されるものである。英国のデザイン教育を学んだジョナサン・アイブはジョブスの考え方を具現化した人物であり、故にアップルを世界的な企業に育て上げて今も進化し続けている。

日本のデザインは大陸の模倣から独自の研ぎ澄まされた独特の文化として開花したのだが、明治以降は一部を除き、模倣デザインの域を出ていない。理由は学校教育の間違いと科学技術の盲目的な崇拝と思われる。自然の驚異に晒されたこそ模倣を超えた独自の日本文化が生まれたと推定できる。同様に、自然環境的には厳しい英国で創造性のある文化が生まれたのは同じ理由と考えられる。然し、英国は大きく変わりつつあるのに、日本は惰眠を貪っており、模倣者達が跳梁跋扈している。佐野研二郎は正に典型的な人物として名を残すことになるだろう。日本再生は自然の驚異に向かい合ってこそ可能なのだが、東日本大震災の教訓も忘れて生きる従来と変わらない日本人を見ると、歴史を忘れた民族と思わざるを得ない。

本題から外れたが、デザインの世界は既にジョナサン・アイブを否定した若い人達の動きも出ていると同書の末尾に書かれていた。正に恐るべしだ。

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三重県松阪市の山中光茂市長の辞職の記事を見て政治家として活動していた亡父のことを思い出した。亡父も茨城県と言う保守が強い地域で革新無所属で改革に取り組んでいたが、最終的には改革に対する強い主張が選挙民から怖がられて受け入れられなかった。

山中市長は従来の手法を変えた行政運営の改革を推進してきたが、図書館の民間委託で挫折した。山中市長は佐賀県の武雄市長であった樋渡啓祐氏の行政運営を評価していたが、樋渡氏は独断専行的な政治手法が市民から否定されて降板した人物だ。

松阪市民が図書館の民間委託位で山中市長を否定した理由が分からないが、日本には独断専行的な手法を嫌う政治風土があると思われる。尤も、最初から否定ではなく、受け入れた後に拒絶するのが顕著なのだが、この問題は歴史的に考察しないと判断できない国民性と考えられる。

聖徳太子の17条憲法の最初に「似和為貴、無忤為宗」が載っていることでも分かる。市井の民族学者の宮本常一氏も離島の暮らしを踏査した時に地域の運営が民主的手法で行われている事に驚いている。宗教でも分かる通り、日本は多神教だ。争いを避けるために多神教になったとの推察も荒唐無稽ではないと思料する。

翻って、改革を唱える者でも受入れられている事実があるとの反論も当然出ると思われるが、それは偽者だからである。小泉純一郎や橋下徹は改革者ではなくポピュリズムを利用する偽者だ。真の改革者ではない。先の樋渡氏は政治的実現にはポピュリズムも必要と言っているが、その使い分けで樋渡氏は失敗したと推測される。山中市長が辞職を選択したのは市民に対する失望感だと思われる。私も政治の世界に興味を失ったのは亡父の姿を見て最終的には現状維持を好む選挙民の為に働く意欲を持てなかったからだ。

安倍ノミクスで大きな支持を得た安倍首相は安保法案で大きく支持を失った。安倍が国民から受け入れられたのは、急激な改革で景気を良くする手法ではなく、金融政策と為替による輸出拡大と株高であったからだ。日本人は自分に直接影響する政策には拒絶反応を起こすが、間接的な政策には寛容だ。しかし、国民を二つに裂く様な政策には厳しい判断を下す。

日本人は根回しと言う民主的な手法で争わないで解決するシステムを構築した民族だ。私が若い頃に労働組合に加入して活動して驚いたことは、革新的な団体と思われた労働組合が幹部選出などに根回しと言う古いやり方を踏襲していた事だ。しかし、21世紀になり、閉塞した社会を打破するためにダイバーシティの導入を求められれてきた今、日本の政治風土が変わるのか興味がある。現時点では、未だ変わっていないので、今後の課題となるが、現代の企業活動で盛んに変わらなければ生き残れないと言う標語が政治の世界にまで浸透し、実践されるのか。地震、台風、火山など自然災害に見舞われる自然環境の中で育まれた考え方は基本的には変化を受け入れたからこそ生き残った筈だ。日本人の保守性は過去の出来事を踏襲することで自然のリスクを避けてきたと考えられ、変化を好まないとは性質が異なると思われる。

この為、日本の中で政治改革を進めるには、単に保守とか革新とかではなく、安定を実現する改革者を求めていると思料する。