三島由紀夫が自衛隊市谷駐屯地の総監部にて自裁した日から今年は55年を迎える。50年辺りから三島由紀夫に関する書籍が目に付き出した。。今回、三島由紀夫に関して書かれた本「三島由紀という迷宮」を読んだ。著者は当時新聞記者で事件を取材した人との事で興味を覚えた。著者は80才後半の方で、人生の終末を迎えた為か三島事件の理由を書き残したかった様だ。確かに力作と言える読み応えのある本であったが、自裁の真相に近づいたかもしれないが、著者が指摘する様に本当の所は本人以外は分からないと言うのが真事実だろう。三島事件は私が上京した年(1970年)に起きたので記憶に残っているが、当時はJR山手線高田馬場駅から徒歩10分程の下宿屋に住んでいた。下宿屋と言っても個人住宅を改造して2階に6部屋の小規模なものであった。一部屋は貸主の娘夫婦が住んでおり、他の5部屋には私と同じ浪人生3人と東京医科医科歯科大学看護学部の女性、もう一人が法政大学の学生が借りていた。下宿人同士が親しくなって言葉を交わしていたので、事件当日には法政大学の彼が帰宅後に興奮して近くで起きた事件を教えてくれ、彼の白黒TVで事件の報道を一緒に見た記憶がある。私自身は事件の前も後も三島が書いた書籍を殆んど読んでいない。最後になった”豊饒の海”を読もうと思ったが、何故か読んだ記憶がない。三島由紀夫の印象は私は作家と言うより「盾の会」を結成し、右翼ごっこをしている変わった人位の意識だった。三島由紀夫は良く考えると父と同じ年齢で有った。三島由紀夫が病弱で戦場に行かなかった様だが、私の父も甲種合格でありながら一人っ子の為か戦場に送り出されずに千葉県の海岸でタコ壺を掘って終焉を迎えてる。父とは戦争の話を余りしていないが、終戦時には茫然自失となり数年間は何も考えられなかったと聞いたことがある。父と同世代の三島なので父の様に茫然自失にはならなかった様だが、内面的には傷となって奥深く沈潜したと推測される。何れにしても私の世代では想像できない事であり、戦後に起きた大日本帝国の全否定によって歩み始めた新生日本に関しては到底受け入れがたいものが上位階級に属していた三島由紀夫にはあったと指摘されている。何れにしても、今回読んだ”三島由紀夫という迷宮”なる本は自裁の真相にかなり迫っていると思われる。俳優は役になりきると終了しても役中の人物像から抜けきれないリスクがあると指摘されている。作家である三島由紀夫も書いた本の主人公になりきることで名作を生み出していると思われ、その場合には俳優と同じように主人公の像から抜け出せなくなってしまうのかもしれない。人間の脳の不思議さを見る思いだ。
オフィス移転
貸主から自社使用したいので当社のオフィスの退去が可能かの打診を今年の春先に受けた。貸主も余り使用していないと見ての打診と思われ、確かに近年はサーバー設置が主目的になった感があった。その時には協力をしないでもないと回答し、その後何度か確認の電話が入ったが、10月末の退去で多少遅れても大丈夫との事だった。退去迄に大分時間があったので徐々に整理すれば良かったがサーバー移転以外に関しては、手付かずの状態で9月を迎えてしまった。考えれば受験の一夜漬けみたいな退去になってしまったが、11月27日にどうにかデスクやキャビネットなどを撤去して明け渡しが住んだ。会社オフィスは長年勤務してくれた社員の老後の為に用意したものであった。しかし、50才代の若さで早世してしまったので、早く縮小しても良かったのだが、何となく数年が過ぎてしまった。今回の貸主からの退去打診はその様な状況を解消することを促される契機になった。サーバーはクラウドに移転し、オフィスもバーチャルにした。仕事柄立退き移転のお願いは大分して来たが、退去をお願いされたのは人生で初めてだ。自前のサーバーではなく、クラウド化したが、業務委託先のIT会社が協力してくれたので、ブログも継承出来たし、操作性も悪くはなく、早くクラウド化すれば良かったと思った次第。近い将来は東京と広島県尾道市との2拠点活動を視野に入れているが、今回のオフィスバーチャル化は正に2拠点活動を促された気がした。尤も、2拠点活動は前向きな事ではなく、病気のワイフを故郷の尾道に連れて帰る目的だ。今更ながらに人生を振り返ると、東京に出て来てJR山手線高田馬場近くに住み始めてから東京生活は数十年が過ぎるが、そこで知り合った人達の縁で人生の荒波を乗り切ってきた感がある。今回のオフィス移転には次の展開が待っている気がする。
“”修羅場の王”を読んで
日本航空(JAL)の再生に係る倒産弁護士と呼ばれる瀬戸英雄を書いた本を手にした。私は会ったことがない弁護士だが、彼の所属した弁護士事務所とは関わり合いがある。不思議なもので、彼が弁護士研修仲間二人と立ち上げた最初の法律事務所とは再開発事業で関わり合いがあり、次に移った法律事務所は私が経営していた会社の顧問弁護士の事務所だった。その事務所から独立した次の法律事務所は知らないが、現在その後に合同した法律事務所は当社が管理するビルに長くテナントとして入居し、手狭になった為に近くのビルに移転したので満更知らない訳ではない。代表的な倒産弁護士の二人の内の一人が瀬戸英雄とのことだが、再開発で立ち退きを求めた法律事務所に居たとは知らなかったのは後の祭りだ。記憶によれば、立ち退き交渉には瀬戸弁護士は一度も出てこなかった。二人の内、常に交渉に出て来たのは稼ぎの少なそうな弁護士であった。今から想像すると3人の弁護士の内の二人は稼ぎが悪くなかったので相場の立ち退き料で解決できたと思われたが、一人の弁護士は稼ぎが悪かった様で立ち退き料を出来るだけ多く貰って退去する考えがあり、他の二人は任せた様な気がする。当社は当初に移転経費に掛かる費用方式に基づく立ち退き料を提示した。瀬戸氏の法律事務所は予想した通り借家権方式で立ち退き料を要求して来た。この為、私は現行相場より安い賃料で法律事務所は借りている状況を鑑み、借家権価格方式で算出した立ち退き料から入居時のままである賃料と現行賃料との乖離した差額を賃貸借期間の年数で複利計算して金額を差し引いた立ち退き料を提示した。この結果、最初に提示した移転費用方式の立ち退き料より低い立ち退き料になったので、我々を本当に立ち退かせたいのかと怒り心頭だった。最終的には機会損失を避けるために借家権方式の立ち退き料を支払ったが、この再開発の立退きには大半が再開発に協力するには多額の立ち退き料を支払えと言った態度での交渉であった。しかし、1社だけ、四国の海運会社の東京支社が本社の社長に立ち退きの件を報告したら当社の移転経費方式での立ち退き料で協力しなさいと言われたと話された。立派な社長さんと記憶しており、確か企業の再建などに貢献している社長と聞いた。その時に、東京支社長さんに当社の様に再開発に協力する会社が馬鹿を見ることにはならないでしょうねと言われたことが今も鮮明に記憶している。忸怩たる思いだ。倒産弁護士として評価を得た瀬戸氏だが、35年前の立ち退き料を考えると釈然としない感情が起きる。瀬戸氏日本は倒産が少ないとし、倒産後の再生を容易にした社会になれば今より素晴らしい社会になるとの考え方だが、それは大企業を見ての話としか思われない。中小企業の倒産は社員の家族が路頭に迷う例は多い。米国はノンリコースローンが多いので倒産のダメージは少ないが、日本は今でも殆んどリコースローンだ。瀬戸氏は法律家としては能力が高いのだろうが、企業家として経営に当たったことはないと思われるので、「修羅場の王」を読む限り、倒産する前を指導する法律家を評価するべきと思った次第だ。再開発時の立ち退きに一度でもあっていれば違った見方も出来るのかもいsレないが、会っていないのが残念だ。
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米国人から見た日本語について
高校、大学で日本語を第二言語として学び、その後に日本にALTの仕事で来日し、更に日本の大学で日本語を学び、現在は日本語で小説を書いている米国人の本を読んだ。その米国人から言えば、日本語は特に学ぶのが難しい言語ではなく、普通程度の難しさだそうだ。勿論、ひらがな、カタカナと比較して漢字を覚えるのは大変だがそれは慣れる迄に時間が必要であることであり、文法的な面の複雑さとは違うからだそうだ。子供の頃から学んだ母国語は理由などなく習得するので、日本語に対して外国人が指摘する難しさに関しては分からないと同様に英語を母国語としている人にとっては日本人が英語の分かり難いと思う時制の区別などは単に時間として認識しているに過ぎない様だ。日本人が英語などを難しいと感じるのは文法以上に発音だと思われる。母音主体の日本語では子音の発音が難しい他にRとLの違いも厄介だ。しかし、件の米国人からすれば日本語は発音などの難しさではなく、対話する相手との関係性が常に問われる事だそうだ。上下関係で区別する尊敬語、謙譲語、丁寧語などや一人称の多さなどを使用するたび考えての言語であることの様だ。そう言えば、過去に仕事で必要があった為に学んだ韓国語は年上の人に対する言葉使いが厳格であり、発音も子音が多用される他、女性言葉の区別もあり、会話するには日本語を母国語とする私には隣国の言語であったが難しい言語であった。現在、私が関係している会社がALT事業を推進しているので英語に接する機会がおおくなったこともあり、最近は言語についての興味を持ち、色々な本を渉猟している。馬齢を重ねて改めて学ぶことが多いのに気づかされた。やれやれ。