独立行政法人「都市再生機構」なるものがある。この組織は住宅公団から始まってその後他の公団との合併を繰り返して生きながらえている。当初の目的は国民の低所得者層に住宅を提供すると言う素晴らしいものであったが、途中で役割が終えたにも拘らず民間デベロッパーと競合する分野で生存している。もし、この組織を生かすなら「都市再生機構」でなく「地方地域再生機構」と思えるのだが、地方地域は事業採算性が乏しいためか民業を圧迫する都市部の開発を対象としている様だ。事業に高級賃貸マンションの建設などがあるが、記憶ではバブル経済時代に高所得者層の住宅供給に乗り出している。この分野は公的な組織が行わなくても良いのにも拘らずである。国会でもその必要性に関して何も議論されないのが現状である。尤も、政治屋がこの様な組織に利権を見出しているのかもしれないが。国民の知らない場所で役人と政治屋が結託して税金を食い物にしている構図が浮かび上がる。この様な存在を許し、先進国に例を見ない3万人の自殺者を顧みない行為は天罰に値するであろう。
新しい建築士制度の疑問!
今年11月28日から「新しい建築士制度」がスタートする。この制度は建築士の構造偽造事件に端を発して制度の見直しが行われた結果である。この制度の見直しは、役人の失態を民間に転化する以外の何物でもない事は承知の事実である。先の事件は犯罪である。建築士の知識不足や経験不足などから起きた事ではない。一番の原因は、建築基準法の改正で民間に建築確認審査の委託が可能となった審査期間の制度やシステムに問題があったからである。私は民間に建築確認審査を委託すること自体を否定するものではない。問題は小泉政権時代に民間に委託するに際しての検討を十分に行っていないために起きた事件であると言う点である。建築確認の内、「意匠」、「設備」に関しては民間委託でも良いが、構造に限っては役所でも建物の大型化によって審査が困難になってきていたにも拘らずその事を無視して審査能力が劣る民間に「構造」の審査まで委託した事である。尤も、国土交通省はそれに気付いていたから「構造ソフト」を開発を民間に委託して構造設計士にその使用を半ば強制したのである。しかし、この結果はご存知の通り、ソフト自体の欠陥によって構造偽造事件が発生し、マンション販売業者に対する社会的な信用不安が起きたのである。今回の事件で改善しなければならないのは建築士制度ではないのである。その前に民間審査機関の会社に対する査察の強化やスタッフの審査能力などの研修強化制度の確率である。また、「構造審査」に関しては別途現在設置されている建築関係の財団法人や独立行政法人に再委託するシステムを構築すべきである。今回の構造偽造事件により構造審査に硬直性が生まれ、自由な発想による建築物の設計に支障が出てきている。役人の責任逃れの制度の確立が民間の自由な発想を縛り、高コスト化に繋がれば何のための建築確認の民間委託化と言うことである。今回の新建築士制度が役人の天下りの増加に繋がる事は目に見えており、事件を逆手に取った自己増殖である。このため、本末転倒な建築士の講習だけで建築犯罪を防止できない事を知るべきである。
中国冷凍餃子事件に関する報道タイミングの疑義
北京オリンピック開始直前にタイミングを見計らった様な「日中間の冷凍餃子事件に関する情報」を新聞各社が報道をした。この報道の情報源は政府高官からの情報として流されたものだが、本情報は洞爺湖サミット時に中国から報告されたものであり、現時点で公にしない事を日中間で合意したものであった。政府間の合意を簡単に記者に暴露した政府高官とは誰かと言う所だが、リークしたタイミングを考えると今回の一連の中国冷凍餃子事件の真相が見えてくる。最初に事件が起きたのは胡錦濤国家主席の来日前であり、今回はわざわざ北京オリンピック開始前のタイミングを考えた上での報道であった。結論から言えば、冷凍餃子事件は日中間の交流を妨害したい勢力が仕組んだ事件と考えれば分かり易い。今回の報道は語るに落ちたとはこの事かと言うのと同時に、日本人が簡単にマスコミ報道で動かされ易い国民と馬鹿にされていることである。冷凍餃子事件の初期報道では、冷凍餃子を作っている工場が一部報道では前近代的な画面が流された。しかし、実際は清潔な近代的な工場であることが報道され、最初から悪意のある報道であった。今回の様な事件が起こせる組織は世界の情報機関では、米国のCIA、イスラエルのモサドなど限られてくる。平和ボケした日本人は会話で政治的な問題が解決すると考えているが、軍事産業と言う巨大な企業が存在する限り、地域紛争はなくならないことを肝に銘じるべきである。冷凍餃子事件を画策した勢力は、今後は中国の格差社会と役人の腐敗、更には民族対立を煽って分裂を画策してくることが予想される。この画策に邪魔な日本人や日本企業に対しも日中の離反を働きかけると思われる。クラウゼビッツの「戦争論」は未だ現代に生きている事を日本人は考えるべきである。「外交の延長は戦争」であることをである。そうでなければロシアとグルジアの紛争など起きない。
外資導入と騒ぐマスメディアの馬鹿さ加減
日本のマスメディアは相も変わらず日本経済の再生には外資導入が不可欠とデマゴーグを発信している。外資は必要ないとは言わないが、日本は世界でも少ない貿易収支が黒字の国であり、新興国のように国内に資本がない国ではないにも拘わらずである。バブル経済崩壊後に金融機関の不良債権の処理に外資の支援を受けたのだが、それは国内の富の活用が出来なかったからである。株式市場の60%が外資保有のために企業業績に反して海外の事情で大幅に株安を招いている。一方で個人の金が国内の低金利のためリスクの高い海外の投資信託に流失している。もちろん、低金利は膨大な赤字国債に起因しているのだが、今こそ国内の富を「農業再生ファンド」、「中小企業ファンド」、「防災都市強化ファンド」、「水産業再生ファンド」、「地方公共投資ファンド」などの立ち上げによって内需拡大に向かわせることが重要である。総会屋紛いの短期利益を貪る株式投資の外資などは無用である。国内の富が動かないのは国を信用していない為なので、それを招いた政治家と官僚の責任は重いが、一番の責任は給与所得が高いのにも拘らず何等の生産性にも貢献していないマスメディアある。記者クラブによる発表記事と海外ニュースの翻訳記事が大半を占め、学問的な業績もない似非学者の評論で構成されている新聞は、正に国民を間違った方向に誘導したナチス時代のゲッペルスの宣伝の役割を果たしている。
選挙で「お願いします」と頭を下げる議員はいらない!
選挙民が当たり前のように聞いて不思議に思わない議員選挙に立候補した人達の「お願いします」の言葉がある。議員と言う職は、選挙民のために犠牲的な精神で働くから税金で報酬なるものが支払われるのである。自己犠牲に「お願いします」と言う言葉が出るのは誰が考えても可笑しいのである。「お願いします」は自分のための言葉であるから、この様な言葉を言って当選して議員になった人に期待できる訳がないと思うのは私一人だけであろうか。私の亡父は若い頃地方議員の職にあった。4年毎の地方議員や地方首長の選挙に出た時の亡父の演説では一度も「お願いします」と頭を下げた事はなかった。身銭を切って選挙を行い、議員として村を良くする活動をするのだから「お願いします」は支援者が言う言葉であり、立候補者が言う言葉ではないとの自説を断固として曲げなかった。後年、同郷の国会議員が選挙の時に夫婦して土下座したTV報道を目にした亡父の悲しげな哀れむ様な顔を今でも忘れられない。亡父は気性が荒い上に正論を唱えたので反対者も多く、然も若いときに農地解放運動などの活動を行った事が旧地主階級から嫌われて政治家としては燃焼し切れなかった面がある。しかし、生涯を通して弱者に対して優しく、地方政治に対する情熱は尊敬に値するものであった。私は今の時代こそ亡父のような議員立候補者が出て来る事を期待したいものである。選挙で「お願いします」と言う言葉は聞きたくない。
国土交通省の無用な配達物
「特定住宅瑕疵担保責任の履行の確保等に関する法律」の施行に伴う「重要なお知らせ」として国土交通省から当社に送付されてきた。法律の対象者である「建設業者」と「不動産業者」の全部に送ったと見られ、財政難で消費税アップの必要性が問われている今日にこの様な無用な配達物に予算を使うとは言語道断である。無用なと言ったのは、業界を通して既に熟知している内容に拘わらず、送られてきたからである。もし、法律の徹底を考えての事なら他に安価な方法が幾らでもあるはずである。そう言えば、小泉政権時代に竹中平蔵の側近が官庁の印刷物を知り合いの会社に随意契約で発注する様にごり押ししたとの記事を読んだ事があるので、今回も同様な理由があるのかもしれない。かって、政府の税調の会長を務めた元慶応大学学長の加藤何某が、TVの討論会で司会が役人の人件費や国会議員の経費の削減などの可能性を聞いたところ、この元学長はこの種の費用を削減したところで高々6000億円だから意味がないといったのを思い出した。確かに、何百兆円と言う赤字国債の現実から見ると無駄な努力と写るのかもしれないが、古来より誰もがこの様な考え方で無駄使いをするならば財政が成り立たない事を指摘されているのである。この様な愚かな政府サイドの御用学者が政府税調の会長を長く務めていたのだから国の財政が破綻するのは当たり前である。なお、今回の施行された「特定住宅瑕疵担保責任~」は住宅価格を高くするだけで本当に購入者に必要な法律かどうか分からない。喜ぶのは保険会社と中小住宅販売会社が駆逐されて競争相手が少なくなる大手住宅販売会社である。保険会社と言えばこの法律で役人の天下りの受け入れ枠を増やす事になると思われので、この法律は役人が天下り先をつくるためのお為ごかしと思える。
現在の不動産会社の危機は経験不足から来たもの!
日本のバブル経済崩壊後の中でも生き残ってきた不動産会社が、世界的な住宅ローン債権に対する信用不安から発生した金融収縮で破綻寸前である。不動産証券化が不動産市場を活性化させたのだが、現物売買では考えられないリスクが内在していた事に気付いた経営者はいなかった。不動産の証券化は金融機関の不動産貸付リスクを分散するために開発された手法の面が強く、決して不動産業者の保有リスクを軽減する目的で開発されたものではない事に早く気付くべきであった。不動産業者にとっては不動産の現物が証券化の手法によって新しい金融商品になると言うマジックが、不動産業に精通した人ほど大きなチャンスが到来したと感じたと推測される。しかし、バブル経済時に金融機関から長期資金を借り入れ、そのローンが抵当証券であった経験があれば不動産証券化に対して絶対的な信頼を置く事はなかったと思われる。誰も今は言わないが、日本にもバブル経済時に「不動産抵当証券」と言うリスク分散型の商品があったのである。現在の不動産証券化商品は単なるペーパーだが、日本の不動産抵当証券は購入者が持分に応じて不動産に抵当権を設定したので米国の不動産証券商品より遥かにリスクが軽減されたものであった。この商品が何故葬り去られたかと言えば、バブル経済後半にはこの抵当証券の発行を引き受ける金融機関がなくなり、中に浮いた形で崩壊したからである。実は今回の危機に苦しんでいる不動産会社はバブル経済当時、住宅産業に従事していた会社か或いは新興会社である。もちろん、新興会社の大半はマンション開発・販売で急成長した会社である。賢明な方は既に気付かれたと思うが、住宅産業は土地を購入して建物を建てて販売するので、資金需要の大半は短期資金の借り入れである。先に説明した抵当証券は貸しビルなどの建築資金の借り入れに必要な長期資金の範疇である。バブル経済時にビルの開発を推進した会社は殆んど消えたのだが、住宅産業に特化していた不動産会社は不動産の長期保有と長期資金の借り入れの必要がなかったために生き残れたのである。今回はそれが裏目に出たのである。不動産証券化商品は引き受けてがいないと成立しない事と、不動産の現物取引と異なり、他の金融商品と同様にクレジットクランチによってマーケットが収縮するということである。不動産証券化商品の登場で不動産取引が半永久的に続くと錯覚した会社は厳しい時期を迎えることになる。高校時代に暗証させられた「平家物語」の冒頭部分の下り「祇園精舎の鐘の声~」が聞こえてくる。
歴史を忘れた日本人!
2大政党政治、大連立が必要だとと言った言葉がマスコミ人からも良く出る。良く考えると、戦前の日本は2大政党が政権を奪い合っていたのを思い出した。また、マスコミ人が大連立は世界の流れと言っているのを聞いて大政翼賛会と言う政党の結集した歴史を忘れたのかと思う。勿論、戦前と現在は政治システムが違うと言うのだろうが、問題は日本人の頭の中味が大きく変わったのかと言うことと、歴史の反省なくして前進は出来ないと言う現実である。自民党の単独政権が長かったので政治の腐敗が起きたこと、及び適度な政権の交代がないと民意を反映した政治が行われないなどの理由によって2大政党政治を目指し、選挙制度を小選挙区制度に変更した事は記憶に新しい。しかし、戦前も小選挙区制であったが、その弊害も大きかったことに対しての検証が抜けていたように思われてならない。中選挙区制の良さは、地元利益中心の政治家でなくても当選する可能性があり、その事が国際社会の中で日本の姿などの大きなテーマで選挙を戦えた政治家を育んだ。日本の高度経済成長は戦後の多党連立の混乱期から単独政権になって開始したことを忘れてはならない。多くの政治家とマスコミ人は55年体制はアンシャンレジームと言って簡単に葬り去ったのだが、世界で最も安定していた日本の政治体制を評価し、恐れていたのは日本と競合していた国々であった。工業社会から知的財貨社会に変化してきた事に対する対応の緩慢さを槍玉に挙げて日本社会に最適なシステムを自ら壊してしまった愚を犯した。小選挙区制度は目先しか考えない政治家達を生み出し、マスコミは混乱した政治を憂いて大連立の結成を促している。大連立よりは55年体制の自民党単独政権の方が、野党の批判勢力がいて社会のセーフガードが有効に働いた筈である。歴史を学んでいれば今日のような愚は犯さず、55年体制を刷新する方法が幾らでもあったと思われる。米国の改革が何のために行われてきたかは為替の変動相場制に移行せざる得なかった歴史から多くのことを学べた筈である。企業人となった学生時代に優秀な友人達も歴史となると皆お粗末くらいの認識しかないのが今の日本人である。
田中角栄の亡霊
田中角栄は功罪相半ばする政治家と言える。しかし、官僚に餞別等の名目で金銭を与えた事によるお金に対する官僚の堕落と教育行政にお金で解決する政策を齎した事に関しては、「罪」の最たるものと言える。尤も、新潟県人にとっては、特に田中角栄の選挙区の人々にとっては今でも雪国を豊かにしてくれた感謝すべき人であるので、私の田中角栄批判には反発するであろう。今回のタイトルで"田中角栄の亡霊"としたのは、今日の日本人の金権主義や教育現場の退廃が"田中角栄"と言う人物を介在して起きているからである。田中角栄と言う男は、「人は金で動く」を信条として実践してきたと思われる。他人が形成した人生観を批評する立場にないが、田中角栄に限っては政治家であり、然も総理大臣にまでなった人物だから批判する権利が私にはあると思う。日本の官僚は一部を除き表面的には金銭的な価値観とは無縁を装うって来た種族である。それが田中角栄が「禁断の実」のお金で官僚を操縦法したことによって官僚のお金に対する執着が一挙に噴出してしまった。その後の官僚については、大蔵省(現財務省)の「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」の通り、お金に堕落した姿を見るだけである。この官僚の堕落以上に深刻になっているのは教育行政現場である。先頃、大分県の教育現場での不祥事が報道されているが、この種の話は今や何処の県にも起きていると思われる。田中角栄は高度経済成長期の日本で教育現場に質の高い教師を得るには高額の給料を支給する必要があると誤解したことである。戦前に教育された師範学校出身の教師が立派だったのは国の費用で教育を受けたことに対する恩返しの意味があったからである。高い給料に引かれて教師になった者に高い教育の理想を求めるのは間違いである事に誰でも気付く事である。質の高い教師を育てるのは高額な報酬でなく、人を育てると言う高邁な理想を持って教育現場に立つ者を育てる制度を作ることである。その後の教育現場は政党の離合集散の影響を受けて更に間違った方向に流されてしまったのは悲劇と言うしかない。最近、日本にいながら日本の教育を受けず、インターナショナルのスクールで学んだ若い経営者にお会いしたが、素晴らしい考え方の持ち主であった。改めて教育とは何かを考えさせられた。ちなみに、私の母は戦前に教師の道を選んだ人ですので、今の母親のようには子供に甘くはなかった記憶がある。
WTOの交渉決裂を歓迎!
ジュネーブで開かれていた世界貿易機関(WTO)によって世界共通の貿易自由化ルールを定める閣僚会合の決裂が報道された。私の島国根性から言えば歓迎すべき事と思った。このルール作りを協力に進めたのは米国であるが、自分達に有利なルールを発展途上国に押し付ける姿勢は当初から無理があったし、我が国の農業にとっても歓迎すべき事である。輸出優先で農業が犠牲にされ、多くの農民は生産の喜びさえ失っている。インドの外相が、国民を犠牲にしてのルール作りは受け入れられないと言ったのは正論である。今回の原油高においても米国の代替エネルギー政策の補助金制度によって食糧高を招いているのである。マスコミはイランの核問題に対して米国やフランスの主張が正しい様に論じているが、子供でも思うのは米国とフランスが何故核を放棄しないのかと言う点である。持っている者が、持とうとしている国に対して持つなと言う論理は通用しないと考えるのは私だけであろうか。尤も、保有国である米国などは、開かれた民主国家であるから保有が許されると言うかもしれないが、それなら日本の保有については反対しないかと言うことである。また、核保有に既得権などはない事は自明の理である。自由化ルールや基準と言ったものは全てはある国やエリアに有利な様に作られ様としている。強大な米国や多くの国が参加するユーローに対し、アジアは共同歩調を取れないでいるので、常に不利であった。もちろん、今回の貿易自由化ルール作りははインドと中国を押さえ込もうとする米国とユーローの思惑であったので、決裂は歓迎すべきものと考える。魂を失った豊かさなどは意味がなく、貧しかったが心の豊かな時代に回帰すべきと考える。