昨日、久しぶりに投資ファンドの経営者とランチミーティングを行った。その時に、色々な話題を話したのだが、一つにテレワークにも言及した。彼の会社でも在宅勤務を実施しているのだが、意見としてはAMの仕事はテレワークでも出来る事で一致したが、良く考えるとテレワークで物足りない業務やテレワークでは業務が出来ないものがAIの導入過程で残る業務と思われ、コロナ後はテレワークが進むというスタンスで居住などの移転計画すると失業することにもなりかねない。確かに、今後は多くの業務がAIに奪われる可能性があり、AIでは出来ない業務が人に求められると推測されるが、線引きは難しい。IT企業の経営者でも濃密な業務を推進するにはテレワークは不向きと断言しており、投資ファンドの経営者もテレワークでは議論の深まりは期待できないと言っていた。尤も、現在のWEB形式では議論の深まりは期待できないのかもしれないが、WEB会議が進化して脳と脳とが繋がる方法が生み出されれば違うのかもしれない。私自身はデジタルアートなるものに関心があり、その技術開発の経営者の発言などを読むと、デジタル以前は身体的拡張の時代であったが、デジタル時代は脳の拡張と捉えており、それをアートの表現に取り入れている。人は記憶と空間を身体的な動きで得ているので、デジタル時代の脳の拡張には、身体的な拡張の時の様な固定的受動的とは異なり、流動的能動的になる必要があると指摘している。デジタルアートには身体的な能動的な動きを加えることで、脳の拡張に対応できることとの理解を得た。デジタルアートを業務としている経営者の言葉は深く、西洋と比較すると日本など東洋は空間をテーマにした作品が多いと指摘しており、遠近法は西洋が開発したが、その一点集中による考え方は長く西洋の思考を左右したと指摘してる。日本は空間を描くことや空間をイメージする作品を作り上げてきたと解説している。なお、西欧ではピカソの出現で多視点の画法が生み出されたことにも言及し、現在のダイバーシティの評価に繋がっているとの思考の発展は面白かった。デジタル時代は脳の拡張との捉え方は多くの業務の中で理解できるものであり、人の脳とAIの境界に関しても今後は議論されると思われる。コロナの沈静には2~3年位掛かると想定されており、その間にDXの流れは見えて来ると思われる。
「日本を売る本当に悪いやつら」を読んで!!
佐高信氏と朝堂院大覚氏の二人の対話を書いた本で、信ぴょう性に関しては分からないが、朝堂院大覚氏に関しては、過去に一度会ったことがある。勿論、朝堂院大覚と名乗る前のナミレイと言う会社の会長の松浦良佑と言う名前の時で40年以上前になる。ナミレイは海外にも事業展開する冷蔵冷凍設備会社だったが、会った時の印象は裏社会の人物と見紛う雰囲気と取り巻きがいたことを記憶している。当時は専門誌の記者の時であり、中堅商社のプラント輸出の課長から中南米のニカラグア国の水力発電プラントの商談を聞いたときに当時の革命政府と繋がっている日本人、ナミレイの松浦良佑氏の名前を聞いた。その課長から松浦氏はどの様な人物か分かれば教えてほしいと依頼され、松浦氏に取材のアポを取った。私は戦後の日本に海外の革命政府と繋がり、プラント商談に影響がある人物に驚きと興味を持ったのは確かだ。しかし、当時の印象は余りよくなく、その数年後に高砂熱学工業の恐喝事件で逮捕された記事を見た位で、松浦氏に関しては忘却の彼方であった。その後数十年を経て偶然だが、知人の医師が投資詐欺にあい、その件で朝堂院を名乗る人物から経営するクリニックに電話があり、医師が驚いて私に電話が掛かってきたので調べた結果、朝堂院が松浦氏であることが分かった。実際には詐欺師が朝堂院を騙っただけのことで、朝堂院と名乗る人物から医師にその後に電話が来ることはなかった。表題の本を読んでニカラグアの件のことが書かれており、その繋がりは中東のパレスチナのアラファタ議長とのことで、ナミレイは中東に冷蔵設備のプラントを建設していたこともあり、彼が本の中で言ってることは真実もあると思った次第だ。佐高氏から色々な事件や裏社会の人物との交際を聞かれているが、知らないことは知らないと答えているので、本の中味は真実に近いものも大分あると推測した次第だ。裏社会の出来事は当事者でないと分からないし、事件が表面化しても真実に関してはメディアが報道したことを鵜呑みにする以外ないのが実情だ。人は地位や状況で変節するとの朝堂院の言葉には重みがある。新型コロナ危機の最中で、今後日本が進むべき道を委ねられる政治家がいないのは本当の日本の危機と思われる。二人の対談で日本の本当の危機はこれから来るとの予言を肝に銘じることが必要と思えた次第だ。
コロナ禍で思う「転依」の言葉
最近は手軽に何処でも読める電子版の書籍を購入しており、興味がある本でも電子書籍で販売していなければ購入しない状況が続いていた。しかし、それが折角の機会を与えてくれた情報に背を向けることになると漸く知った。今回2冊の本を購入した。1冊は建築に係る本で、もう1冊が表題の言葉が載っていた「宿無し弘文」と言う禅僧の本だ。アップル創業者のスチーブ・ジョブスは誰もが知る人物だが、そのジョブスに精神的面で大きな影響を与えた人物として乙川弘文と言う禅僧がいたのは周知の事実のようだが、私自身は知らなかった。曹洞宗の寺院の息子に生まれて子供の頃から仏門に親しみ、大学院では西洋と東洋の哲学も学び、比叡山永平寺のエリート修行僧として米国に渡った経歴はスチーブ・ジョブスの師として十分なる資質を見に付けていたのだが、本を読み進むうちに文化の違う欧米で禅を広める活動に際して正に「転依」しなければ信者に応えられなかった葛藤が書かれていた。スチーブ・ジョブスは養子であったことから親に捨てられた自分に対する葛藤があり、弘文禅僧に出会ったことで事業に邁進することとが出来た様だ。翻って、科学技術がが発達した現代で起きた世界的な新型コロナウィルス感染症に多くの人は羅針盤を失い、人によっては隠れていたエゴが表出化した。正にカミユの世界の不条理の出現だ。人はこの様な時にどの様に振舞うかで真価が問われるのだが、私も含めて多くの凡人は先が見えない状況の中で冷静さを保つのは難しい。新型コロナウィルスの出現でニューノーマルなる言葉が出てきたが、宿無し弘文の本を読んでニューノーマルに対応するには人々に「転依」を求めていることかと考えた次第だ。弘文禅僧の場合は余りにも違う文化の中で禅の教えを広めるために「転依」を選択したのだが、ニューノーマル出現は否応なしに人々に「転依」を強いるものなので簡単には人々に浸透しない様に思われる。西洋には絶対的な神が存在する社会だが、東洋思想に関しては絶対的な神ではなく、誰もが悟りを得れば救われる社会だ。新型コロナウィルスの出現で何れが優位かを論じる考えはないが、「転依」は自らを変えることで達成する境地なので、私的には「転依」に興味がある。勿論、「転依」が新型コロナウィルスにり患しないのではないので、飽くまでも心の問題と言える。「転依」が全てを解決しないことは弘文が酒を煽っていた事実からも物語っているが、少なくても感染症の恐怖を克服するのには有効と思われる。この様に書くと、未熟なお前が「転依」出来るのかと言われそうだ。
自然の振り子の行方
東日本大震災時には"絆"が再考され、希薄な人間関係の見直しが進んだ。しかし、今回の新型コロナウィルスは正に真逆な一言で表現するならば"離"を促している。勿論、多くの人は孤独な環境に耐えられないので、一部の人以外は孤独感に耐えきれずに感染症の脅威を他人事に転嫁しての行動を取るようになる。マスコミや政治家によって新型コロナウィルスに関しては必要以上の恐怖感を煽れたが、実際には高齢者や持病を有する人以外には感染しても重症化にならないことが分かり、特に若者に関しては従来の風邪程度で済むことが分かって来て緊張感が解けてきている。世界全体でも致死率は4.5%なので、近代医学からいえば大きな数字なのだろうが、1000人り患して45人が死ぬ確立は小さくないが、この数字を年齢や持病や不健康な生活などの要素を除くと致死率は大きく下がり、1000人のり患で1.5人と推定されるので、自分は大丈夫と誤解する可能性がある。確率は平等なので自分が1.5人に入る可能性は同じということだ。聞くところによれば、今回の新型コロナウィルスは変異が激しく、ワクチンが開発されても一部しか効果がないとのことなので、終息するには時間が掛かると推定される。この為、その様な状況の中では忍耐が必要となり、乗り切るためには強い意志と女神のほほ笑みと言う運も関係してくると思われる。政府の非常事態宣言が出て行動に制限を受けていたので、読書が進んだのだが、その中で南極で遭難して無事に帰還した「エンデュアランス」のタイトルの本を読んだ。全員が帰還できたのはリーダーのシャクルトンの冷静な判断であることが分かったが、そこには人知では考えられない自然の振り子に翻弄されても凌いだ精神力が書かれていた。この本の翻訳出版に繋がった日本人の写真家の方が極寒のアラスカでテントを張って寒さに耐えながら撮影した絶景のオーロラのことにも触れていたが、その後に再度北極エリアでの写真撮影の時にクマに襲われて亡くなったことが書かれていた。この為、写真家は本の出版を知らずに亡くなった。人の運命は不思議としか言いようがない。幸運は何度もはないことは確かだ。南極からの遭難中に一番読まれた本は料理の本だそうだ。食が人に希望を与えるのかもしれない。そうすると、今回の感染症の長期の戦いで一番重要なのは食であると思われる。確かに、旨い料理を口にすると微笑みがでる。飲食店の感染を恐れるあまり、不味い物を食うことは絶望に繋がると思料する。感染症を恐れずに旨いものを食べに飲食店に入ることも必要な様だ。
新型コロナと建築
新型コロナウィルスの感染症で建築物に対する考え方も変わることは間違いない。既存建物の場合には改修工事で行うには限界があるので仕方がないが、新築については建築基準法の改正を待たずに出来ることを行うことになる。感染症に対する建築物については、「非接触スイッチ」、「抗ウィルス建材」、「外気取入れ」などが感染症対策として取り上げられている。歴史的に感染症の流行があり、それを踏まえた建築基準であるかと言えば、西洋近代における建築物には反映されていないように思える。ここで西洋近代と指摘したのは、日本家屋を考えると、少なくても「外気取入れ」に関しては十分配慮されてる。西洋近代の建築物は"剛"の発想だが、日本の建築物は"柔"と言える。日本家屋は基礎は石の上に柱を乗せたもので地震の力を逸らす技術であった。しかし、西洋近代は、固定して地震の力に抗する技術なので、現代の日本の建物も基本的(免振工法以外)には抗する技術で作られてる。西洋近代の技術からいえば日本家屋は壁が少ないので弱いと指摘されているが、基礎工法を変えたのでは整合性が取れる訳がない。外気取入れに関しては古来の日本家屋は抜群の環境にある。梅雨や夏季の時期を考えての工夫かもしれないが、反面冬季には厳しい造りではある。明治維新以降、西洋近代に倣って日本式を否定したが、台風、集中豪雨、地震、火山、感染症を考えると、再度日本式の考え方で建築物を考えても良いかと思料する。新型コロナと共生することが強いられるならば、正に日本の文化は共生の思想が根底にあると思われる。自然を壊したツケが新型コロナウィルスの出現なので、自然を見つめることが解決に近くづくのではないかと考える。
新型コロナウィルス非常事態宣言下で渉猟した本
とある雑誌に東京大震災時に逓信大臣の犬養毅が役人の部下に「非常時には非常時の対応をする。責任は自分が取る。」と言ったことが書かれていたので、改めて小説スタイルで書かれた犬養毅伝(狼の義)を読んだ。西南戦争に従軍記者として戦線を視察し、西郷隆盛の人物を評価し、その後政治家となり中国の革命家孫文を支援するなど現代の政治家にはないスケールの大きさと5.15事件で暗殺されたことがその後の日本と中国の将来を変えたのは事実のようだ。その本の中で犬養毅の盟友となる小島一雄なる人物がを知り、その回想記「一老政治家の回想」を読んだ。戦後政治の吉田茂を登場させた人であることが分かり、人の繋がりに運命の不思議さを感じた。更に、経済人の推薦書にあった「大本営参謀の情報戦記(堀栄三)」を読んで、私が理解していた軍人の歴史の人物像と実際は大分違うことが分かり、その本に書かれていた「ペリリュー島玉砕(早坂隆)」の連隊が私の故郷の水戸連隊(第二連隊)であったので興味を惹かれてページを括った。連隊長は熊本出身の人で、優れた指揮官であったことに感銘を受けた。それらの本に永田鉄山の名前が取り上げられ、永田が生きていたら太平洋戦争は止められたと書かれていたのと鉄山に関しては父が兄に付けた名前だったので、遅ればせながら「永田鉄山 昭和陸軍 運命の男(早坂隆)」で永田鉄山が書かれた本を初めて読んだ。話が逸れるが、兄は鉄山で私が博文という名を父が名付けたが、母は二人とも暗殺された人物の名前なので縁起が悪いと言っていたことを思い出した。兄は旧漢字の鐵山の名前だったので改名したが、私は父がつけた名前のままだ。父の生前に名付けた理由を聞かないでしまったが、二人とも父の期待に応えられない親不幸者であることは確かだ。犬養毅、永田鉄山と暗殺が日本を中国大陸の戦争激化と太平洋戦争を導いたことを考えると根底には大衆の愚が見え隠れする。今回の感染症では余りにも政治家が小粒で官僚の発想の域を出ていないことと当時は存在しなかった情報化の時代での誤った情報で混乱し、自粛警察なる戦前の隣組の出現には変わらない大衆の愚の危険性を感じた次第だ。この為、戦前に日本が間違った方向に行った原因を改めて読書により求めるのは、コロナ後の社会の方向性を考えるのに役に立つと思った次第だ。
新型コロナウィルスのパンデミックで加速する社会の変化
今年の干支「庚子」は新しい変化の始まりを意味しているようですが、正に新型コロナウィルスのパンデミックは社会の変化を加速するのは間違いないと思われます。尤も、新しい変化の始まりは継続の否定ではなく、現状から生まれ出る変化ですので、どのような変化かは若い人たちを観察すれば見えてくると思料します。時間軸が早くなったのはコンピューターが小型化し、その能力が向上したことからであり、ドックイヤーがキャッツイヤーになり、今が?イヤーと表現するほど短くなっています。特に、最近の若い人は"瞬"と言う表現を好むらしく、動画も短い時間ほど人気があり、かつ視覚的に理解できることを好む様です。私の学生時代にマクルーハンと言う学者が文字から映像の時代になることを予言していましたが、その映像に時間が加わったのが今の社会かもしれません。読んだ本でネット社会は過去と現在の区別がない状態と指摘し、流行の概念も変化する一つかもしれません。10代から20代の若い世代はゲームをする者が多いと言われ、その延長で物事を考えるのですべてにスピード感を求められることと途中でシナリオやタイトルを変更して対応することが必要となるようです。今回の新型コロナウィルスで企業がテレワーク、リモートオフィス、サテライトでの仕事に切り替えて感染に対する接触減少に努めましたが、日本は天変地異の発生率も大きいので、政府の唱える労働改革が違った面で推進されると思われます。勤務インフラが変われば、それに伴って多くの関連事項が消滅したり、増加したりすることになります。飲み会なども店に集まってすることが当たり前であったのに今回の感染症では、各自が別な場所でネットを通して飲み会を開いたのを契機に離れた場所で飲み会を開催することも出て来る変化もありそうです。今回の緊急事態宣言以前にバーテンダーをバーチャル化した店が出てきていますが、ロボットアームなどの活用により、バーテンダーが遠隔操作でお客を相手にする店も増えるかもししれません。学校教育はface to face からZOOMなどを利用しての講義になり、チャットの併用で講義と質問を行えば、教室が不要になります。勿論、バーチャルやリモートでは出来ない職種もありますので、どの位変化するかは予測が難しいことと、問題はテレワークで分かった労働基準法による時間的な制約や日本の家屋の狭さも今後は問題となってくると思われます。何れにしても、今回の新型コロナウィルスの問題は社会の仕組みを大きく変えることは間違いなく、今後の動きには目が離せない。
コロナウイルスで海外帰国者に対する無責任な対応
SNS情報など間違った情報が多いので本件も確認して書いている訳ではないことを了承いただきたいが、本当ならばこの国の為政者の姿勢が疑われる問題だ。私が目にした記事の内容は、コロナウィルスの感染が分かってる国からの帰国者に対して14日間の隔離対応を求めているが、その隔離対応に対しては帰国者任せで何らの便宜も費用もなく、自己対応とのことだが、中国の武漢から帰国した人達の対応を見ていたので真坂と思った次第だ。休校中にスペインに家族旅行した人が感染していた報道があり、隔離を守らないで沖縄に帰ったとんでもない家族と思ったが、休校中にとの問題を除けば分からないでもないと思った次第だ。隔離の問題は、帰国した人の降りた空港と自宅との関係を考慮していない為と推定される。しかし、地方からの海外旅行に関しては、海外便の地方航空の発着率が増加したとはいえ、多くがハブ空港に来てから海外に出るので、帰国も同様にハブ空港から地方航空に乗り継ぐか電車を利用して自宅に帰ることになる。問題は降りた国際空港から自宅が遠い時だ。2週間泊まれる宿泊施設が用意されていないとコロナ感染の有無が分からない人を宿泊させてくれるかどうかだ。旅行客が減少したので、ホテルや旅館は困ってるので安く泊まれる位の想像力で自費負担や自前で止まる場所を探すことで良いと決まったと推定される。幾らお客が少ないと言ってもコレラ感染の疑いがあれば、従業員の感染の可能性もあり、面倒なことになるので、資金の余裕があれば受けいれないのが本音だ。首都封鎖も放置した責任が問われることや補償などの金の問題で決断できないでいる。封鎖をすれば経済に打撃となると言っているが、既に経済に打撃となっている。今更打撃などふざけるなと言いたい。尤も、コロナ騒ぎに桜見の会を開く女を妻にした位の首相だから危機感はないのか。効果の少ない洗えるマスクの配布など時代錯誤の頭には呆れる。友人がメールで安倍政権の支持者だが、今回のコロナ対応を見て自分の家族は自分で守るしかないと言ってきた。政治家は経営者以上に決断が出来なければ最悪だ。その最悪を今見ていると思うと情けなくなる。
カミユの作品「ペスト」と新コロナウィルス
学生時代に読んだカミユの作品「ペスト」を今回のコロナウィルスのパンデミックで今度は電子書籍で読み直した。フィクションではあるが、欧州では何度も襲われたペストなので資料も豊富であるためかノンフィクションと思えるほどリアリティがあった。感染症と見做すまでの人間模様はいつの時でも同じで、その後に感染症と判断してからの人々の動きも今回のコロナウィルスと変わらない。カミユの作品は「異邦人」を読んだのが最初で映画も見た。異邦人を読んだ時には違和感のある作品であったが、それは不条理をテーマにした内容のための思われる。異邦人の不条理とペストの不条理とでは同じ不条理でも異なり、ペストは自然の摂理とは何かとまで考えさせられる。不条理は良く考えると身近な所にも存在し、人間社会も自然も不条理で構成されている感がある。ペストの中に「天災と戦争は多いのに人は何時も無用意に受け入れる」との一文には、進化するのに必要な忘れると言う人の本質の問題であるので避けられない宿命を感じさせる。尤も、多くの細菌やウィルスは少しずつ変異して出現するので、それに対応するのに時間が掛かり、その期間が大体1年位なのは何か自然のサイクルと関係があるのかと考えて仕舞う。感染症で何時も考えるのは私自身の家の歴史だ。私の実家は次男の家系だが、大正時代に本家として位置づけられた。その理由はスペイン風邪だ。一族の本家は大正時代のスペイン風邪で、祖父母、父親と子供達が死亡した。唯一生き残ったのが嫁の母親一人と言う悲惨な出来事であった。この家系の血脈のためか子供のころの私はインフルエンザに悉く罹り、風邪の休校で遊んだ記憶がない。尤も、私の母にとってはスペイン風邪で生き残った母親が伯母に当たるので、本来ならば私のDNAには感染症に強い部分もあると思われる。母の父親、私にとって外祖父は生き残った母親の弟であり、姉の子供のお墓を守って貰うために私の母を父に嫁がせたとも言われてる。墓守に来たためか私の母90代半ばで矍鑠としている。話が横道にそれたが、自然の摂理という不条理は善悪を選ばない。戦争でも同じだが、終戦間際や感染症終息前後に亡くなる人は如何なる星の下に生まれてきたのか。勿論、それ自体が不条理なのだが、戦争と感染症に共通なことは、危害から逃げようとする人に襲い掛かり、自棄になったなった訳ではないが、その状況を受け入れた人は危害から逃れられる現象が見受けられる。データ的に裏付けがあるわけではないので、科学的根拠を示せと言われたら困る。君子危うきに近寄らずも感染症には言える教訓でもある。この様に書いてくると何を言いたいのかと叱られそうだが、人の社会の感染症に対する対応はITなどの機器を使って感染者を追跡して感染経路を発見することは出来る様になったが、基本的なことでは何も変わっていなく、間違いを犯し続けて感染が拡大するということだ。
愚かな判断の論説
新聞の論説で日本がコロナウィルスの疫学調査にしたのは正当であり、その後の感染拡大で検査を保険適用にしたが、指定医療機関による承認による検査にしたのも治療薬がない状況では正しい選択だったと新聞の論説委員が書いている記事を目にした。この様な愚かな判断をする者が堂々と自説を展開しているのを目にすると新聞の将来はないと思われる。そもそも論だが、検査の意味は何かという視点が違っている。感染者を隔離して感染を広がるのを防ぐのが目的だ。水際対策も出来ていない状況下で何も情報がないのに検査もせずに何が分かるのか。中国が強制的に武漢を封鎖したことも理解できていないで政府の対策を擁護する馬鹿者の主張だ。有効な治療薬がないのに検査をしても意味がないとは暴論極まりない。現在の感染拡大は東京オリンピック開催と習近平来日のイベントを優先し、国民の健康を犠牲にした安倍政権の誤った決断だ。結果的に、習近平の来日が消え、東京オリンピック開催も風前の灯火だ。憲法にも政府は国民の健康を守る義務があると書かれてる。幾ら憲法改正論者とはいえ、現行憲法を無視した決断をする政府は憲法違反だ。今回のコロナウィルス騒動はWHOによる遅かりしパンデミック宣言により、日本にとっては東日本大震災とリーマンショック以上に経済的な影響は避けられない。安倍政権を天罰と言ってるくらいでは済まない経済的な低下が起きてくる。コロナウィルス倒産という標語も出てきており、その影響は計り知れない。危機に陥って初めて愚かな指導者を持った不運を国民は知ることになる。小選挙区制の導入により日本の政治家に人材が集まらなくなり、その政治家が官僚の人事を壟断して能力のある官僚が排除された。グローバル経済時代のリスク管理とは何かを問う時期に来た様だ。米国の友人のメールではNY慶応学院の校長が英国人で、今回のコロナウィルス騒動で早々と学院を休校にしたのを見て英国人の危機管理は大したものと言ってきたが、確かに英国は歴史的にコレラ対策で公衆衛生制度を確立した国だ。日本の対策など危険極まりないといった目で見ているのだろう。日本は情けない政府だ。