2千年に1回の多発地震と大津波には臨海部におけるリスク対策は効果がなかったことである。公共投資事業は予算規模に限度があるので過去に起きた大きな災害を基準に従って行なわれているが、津波に対しても今回の様な大きな津波は想定していなかったと推定できる。今回の地震でこの想定を非難するのは簡単であり、現実的な点から犠牲者になった方々には気の毒だが、誰も責められない事でもある。しかし、津波に対して堤防だけでなく市街地内に幾つかの津波に対する対策を施していればと残念でならない。最近は公共レベルまで全て経済コストで考えられているので過去と比べてリスクが高まっているのは確かである。民間レベルは更に災害に弱い設備機器が導入されてきており、自然の怖さを忘れると災害が発生した時にはなす術がない。以前のblogで書いたが、建物の設備機器に無駄を省いたものがコスト面やデザイン面から採用されてきているが災害には極めて脆弱になっていることである。東京電力も福島原発に過度に依存したために電力供給で問題が生じている。集中投資は効率が良いが一旦何か起きれば痛い目にあうのである。大災害は効率一辺倒の社会に対する警告である。尤も、ソニー本社ビルは水対策を施していると思われる施設がビルの周りに配置されているとの情報もあり、もしそうであれば企業のリスク管理能力の高さが窺える。最近特にスマートと言う言葉やクールと言う言葉が流行しているが、この様なスタイルの設備機器は災害に弱いと推定できる。マンションの建築一つとっても屋上に給水タンクを持たずにポンプによる直接供給方式に代わって来ているが、計画停電で直ぐに供給が止まってしまう。トイレも然り。タンクを失くしたトイレが殆んどであるので、供給が止まれば直ぐに使えなくなる。環境面ばかり強調されるので二酸化炭素の排出が大きいガスは敬遠されてきているが、電力だけに頼る怖さが今回の災害で思い知らされた。災害に対しては全て効率が悪いかもしれないが分散化はリスクを下げる最大の方法である。幾ら技術が発達しても平時の備えでは災害に役に立たなく、天災は忘れたことに遣ってくるとは故人の教えである。何れは東京にも直下型地震が起きる可能性があり、建築技術が良くなってもライフラインが脆弱では意味がない。今後はどうすれば良いかを一人一人が考える事である。時には無駄も必要な事を知るべきであり、地球外探査衛生の「はやぶさ」がその教訓を与えてくれているのである。
中国歴史に生きる教え
科学技術が飛躍的に進歩した現代社会だが、人間の思想に関しては近代以前の時間にゆとりがあった時代を超えていないと言われている。勿論、最近はやたらと人間の行動などを分析してマーケティングに繋げる学問分野が隆盛となっており、自分の決断と思っていることでさえ、実際は情報ツールを通して動かされているので、人の考え方が進歩しているかどうかを議論するのは意味がないのかもしれない。しかし、中国の歴史における教訓を含んだ格言などは現代の社会でも十分に通用することであり、それらを理解すると特に競争社会においては自分を見失うことがないと思われる。先日、ある方の出版した本「昼マシは座って食べるな!」を贈呈されたのだが、その寄贈に際して「鴻鵠高飛不集汚池」の言葉が添えられていた。この熟語は正式には「呑舟之魚不泳枝流 鴻鵠高飛不集汚池」である。この熟語は大人物の心構えを意味しているが、著者が誰にも書いた言葉なのか、私に対して個人的に贈った言葉なのかは不明だが、私にとっては心すべき言葉と有り難く頂戴した。偶然であるが、本を寄贈される前に、塚本青史の「春申君」の本を購入した。この本の主人公は戦国四君のひとりと称される「春申君」で、楚の宰相まで登りつめ、強国秦と渡り合った英雄の書である。昔は戦に破れれば命まで失ったのである。このため、全知全能を駆使して考え抜いて事に当ったのであるから、その時代の教訓は現代でも十分に通用する重みのある言葉である。
錯覚の怖さ
人は色々な面で錯覚をする。現代社会は競争社会であり、競争社会では自信が裏づけとなる。しかし、この自信に対する見分け方に関して人は錯覚に陥る事が多い。特に、科学技術が進歩した社会では能力以上に見せる技術が出来た為に尚更である。当社の設計業務でも以前は図面は全て手書きで作成した。然し、今はCADが主流となり、幾ら優秀な設計士でもCADが使えなければ評価してもらえなくなった。実はこのCADが手書き時代と違い、設計における自信のなさを覆い隠している。面白いもので手書きの時には自身のなさが図面の線の強弱に出たものだが、CADになってからは消えてしまった。その他、手書きと違って細かい作業は用意されたものを当てはめる作業で良いので、経験の浅い設計士の場合には、実際の工事に必要な機器の納まりに不具合を生じてしまうケースが多い。これも錯覚の一例であろう。日常的な生活で詐欺師に騙されるのは詐欺師の自信に錯覚して信用した結果である。本来は詐欺師の様に自信たっぷりに言えないのが当たり前なのに、その事実を理解する人は少ない。今の時代はプレゼンテーションが仕事の受注に大きく影響される。このため、パワーポイントを駆使したプレゼンが多いが、このプレゼンにも錯覚が入り込む。尤も、能力の評価には実績を基にしていると言う反論もあると思われるが、実は過去の実績を見て判断すると言う作業は錯覚をしない一つの方法ではあるものの、新しい才能を否定するので良い選択にはほど遠い。何かの本で能力のない人ほど自信過剰になると書かれていた。技術の世界では自信過剰はリスクを隠してしまう事になるので怖い。競争社会では自信を持つ事が成功の道とまで言われ、誰もが自信を持った口調になる。これこそ正に錯覚の社会となり、大きなリスクを抱えることになる。
政治不在を考慮した行政機能の権限の問題点
厚生労働省が課長通達で処理した年金問題で世間を騒がしている。年金に関する事ばかりでなく行政側の国民に対する広報活動は受動的であるが、最近のトレンドの自己責任と言う考え方からすれば知る努力を怠った者が悪いとなる。しかし、行政サービスと言うことからすればサラリーマンから自営業に変わった時点で役所から専業主婦に対して年金加入の通知を出す位の親切があっても良いとは考える。前長妻大臣もその様に考えたかどうかは知らないが、行政側の落ち度として救済措置を講じたのである。しかし、その措置が不公平であるとの声が出たために急遽取り扱いを中止したのだが、今回はこの議論ではないので取り敢えずその問題を横において、本題の通達で処理したことに言及したい。本来ならば国会で議論する必要がある問題を簡単に課長通達で処理できる制度が官僚の権限を大きくし、惹いては国会議員の存在を貶めていると言っても過言ではない。では何故この様な強力な権限を官僚に持たせているかと言うと、日本国会の与野党対立の中で政治不在が続いたからだと推定できる。また、国民生活などに大きく影響がでる問題に関しても政治家は政治闘争で国民を省みないことが多いので緊急避難措置的に与えた権限と考えられる。しかし、この権限は考え方によっては国会を軽視しすることになり、三権分立の考え方を根本から揺るがす問題でもある。先の年金問題も正式には法律を改正して対応するのが当然なのだが、すべての議論を政争の具にされると言う観点から、法律の改正を待っていたのでは遅すぎると言う理由で現場処理しており、その正当性を与えている。政治家が官僚から政治を取り戻すと言う声が最近頓に聞かれるが、政争ばかりで政策の議論をしない国会の存在が官僚に権限を持たせたことを知る必要である。民主党が政治主導を唄って政権に就いたが、行政の何たるかも知らないで民間のビジネスモデルを持ち込んでも行政は機能しないのである。国民は官僚を非難する前に如何に政治が機能していなかったかを知るべきであり、その上で官僚に持たせた権限の必要性を論じる必要がある。勿論、官僚組織は規制しないと増殖する習性があるのだが、これに関してもチェックするのは政治である。国民の一部には前原外務大臣の辞任に対して金額が小さい事を理由に庇う発言が聞かれたが、法律を守るということは金額の多寡ではないことを肝に銘じるべきである。今の政治には時間軸の速さを正当事由に「言葉の重み」など否定する風潮にあるが、政治家が「言葉の重み」を否定したら社会に欠かせない信頼がなくなくなる。最近のマスコミなどは平気でマニフェストを否定しても問題ないと書いているが、国民に対する約束を破るなら如何なる理由があろうとも議会を解散して国民に信を問うべきである。長期政権が出来ないために日本経済が低迷しているなどと言う幻想を国民に持たせているが、今の日本が駄目になった理由は正に「言葉の重み」を省みず、平気で約束を破る社会になったからである。それは政治とマスコミの責任である。官僚を悪者にしても何の解決にもならない。
日本政策投資銀行の職員のTV出演時のコメントに唖然
日曜日の午前中にTBSの番組でサンデーモーニングと言う番組がある。6日にはゲストとして日本政策投資銀行職員の藻谷と言う者がゲスト出演していた。司会の関口宏が当日の多彩なゲストに対して色々な出来事に関してコメントを求めるのだが、藻谷ゲストも幾つかのコメントを述べていた。この藻谷ゲストは日本のデフレ経済は人口減少で起きていると言う見解の本を出版した話題の人物であった。幾つかのコメントのうちに日本経済の景気回復に言及したときであるが、彼は政府の対策には限界があるので、景気を良くするには国民一人一人と企業が持てる資金を景気回復のために使うことを考える必要があると発言した。この発言は正論の様に思えるが、実はこの発言では日本経済が低迷から脱しきれない重要な点を取り上げていないのである。何故企業や国民が前向きにお金を使わないかは政治不信があるからである。将来に増税や年金支給の時期や金額に不安がある社会で国民はお金を使わないし、政治家が国家のグランドデザインを示さなければ企業は投資できないのである。国民誰もが景気回復にはお金を使う事くらい知っているのだが、政府系金融機関に勤務している藻谷ゲストには理解できないらしい。藻谷ゲストの発言の裏には企業と国民の"おねだり"先入観が根底にあると考えられる。赤字国債が増加するにつれ増発の責任を国民に転嫁する様な発言が出てきているが、国民は国家予算についての知識などないし、予算を動かす力もないのである。碌でもない政治家を選らんだ責任はあるとしても、実際の国家予算は国民などを無視して政治家と官僚が決めてきたのである。自分達の責任を回避した発言は言語道断である。先の藻谷ゲストの発言を聞く限り、彼が書いた本も偏った考え方に基づいたものと推定できる。
米国とアーミッシュ
私のblogを読んだ人は私を反米主義者と思うかもしれないが、別に米国が嫌いではない。元総理大臣の小泉純一郎みたいにプレスリーが好きだから米国全部が好きになる単細胞でもない。子供の頃はTVで米国の西部劇や豊かな社会のホームドラマを見て育ち、学生時代には勉強もしないで映画、特に米国映画に魅了されていた。当然に現代の様な情報化の時代ではないので世界とは米国の事であり、米国には想像も付かない豊かな社会があると憧れてもいた。しかし、米国に対する考え方が一変したのはベトナム戦争や沖縄出身の学生のパスポートを見せられて米国と言う国の現実を知ってからは、米国民の意思とは懸離れた産軍共同体の化け物の存在も理解した。更に、カークダグラスと言う俳優が演じた「アメリカの憂鬱」と言う映画を見て競争社会における厳しさを垣間見た。しかし、米国にはアーミッシュと呼ばれる近代を否定して生きる存在を知った時には驚きであった。日本の様に誰もが金太郎飴である社会ではなく、個性的に生きることが許される社会と言うのが本当の民主主義かもしれないと考えた。民主主義とは選挙を通して選んだ議員や首長による政治を行なっていることを指すのではなく、色々な主義主張の考え方を否定しないで受け入れることが本当の民主主義ではないかと考える。そういう意味では日本人は民主主義を真に理解した国民ではないと思われる。米国社会にアーミッシュが存在する限り、米国の国家は兎も角、少なくても米国民は嫌いにはならない。日本人の多くはリビアの紛争のことを知っているが、米国人の圧倒的多数は知らない。それは自分達の生活とは直接には無縁だからだ。最近思うのだが、日本の新聞は何故こんなに海外のニュースを流すのかと思う。真実なら未だしも情報操作された記事を日本国民に伝えている。海外のニュースを流すなら足で歩いた国内の記事を流せと言いたい。海外問題で騒いでいる間に重要な事が国民の知らない間に決定されていることを日本人は知る必要がある。金儲けしか考えず、他人の配慮を忘れた国民を作り出すのはマスコミの責任だ。
今起きている事と過去の出来事を検証すると見えてくるものがある
どの様な理由か不明だが、民主党の小沢と鳩山は米国と距離を置こうとした結果、権力から排除されようとしている。逆に、学生運動出身の菅と仙石は自民党の小泉純一郎と同じ米国追従に方向転換し、権力を維持にやっきだ。菅の強気の背景には米国の支援を感じ、正に菅を支援するために米国がマスメディを使って保護するかの動きが見られる。1970年代の過激な学生運動時代に書かれた米国のレポートでは、日本は発展途上国の様に反米政府が出来た時には軍事的な手段でなく、新聞報道などマスコミを通して倒せると言うことが書かれていた。このレポートも情報開示の制度の中で世に出てきたものである。日本はマスコミ操作で政権を倒せると言う実験は米国の日本占領政策で学んだものと考えられる。戦後に大規模な労働争議が行われた時に今でも謎とされる「下山事件」、「帝銀事件」、「三鷹事件」など新聞を賑わし、国民の目を別な方向に導いた事件が相次いだ。翻って、菅政権が発足してからを見ると、「相撲八百長事件」、「大学入試携帯事件」などが起きている。今後も国民の目を菅政権から離す事件が起きる可能性が高いと思われる。米国と言う国は人間の心理を研究しており、その研究をもとに経済分野などに応用しているので誰もが疑いもなく動かされてしまう。世界的な事件で分かりやすいのは、リビアの報道である。カダフィ親子がイラクのフセインの様に悪玉として報道されている。その報道には、カダフィが反政府勢力はイスラム過激派なので米国に手を組もうと言うのがある。リビアがイスラム過激派と対立していた形跡はないのが、急に浮上した。冷静に考えるとリビアの反政府勢力に政府の軍事力に対抗できる武器を提供したのは誰かと言う事である。アフガン紛争でも不思議なのだが、無尽蔵な武器が何処から現れるのかである。リビアで言える事は反政府勢力に武器を与えているのは間違いなく米国である。カダフィ一族の海外資産1兆円、エジプトのムバラク一族の海外資産1兆円などの報道は、イラク戦争時の大量破壊兵器の類と推定できる。中東から開始された騒乱は、宣戦布告なき情報戦争の開始であると思われる。その結果で起きる事を想定すれば、見えてくるものがある。
企業の遺伝子
遺伝子の継承は生き物だけでなく企業にもあることが良く分かった。新入社員として入った会社の社訓や理念、経営者の考え方が否応なしに遺伝子として継承されるから怖い。今更と思われるかもしれないが、本当に最初に入社した会社の選択が問われる時代だ。大分古い話、今から32年前の事だが、当社が実質的に行なっていた平河町のマンションプロジェクトで、大京に分譲部分を譲渡した時の出来事である。大成建設に工事を発注したプロジェクトだが、大京は当社の仕様を大京基準の仕様にグレードアップする追加工事を行ったのである。幾らインフレ時代とは言え、都心の高級マンションの需要は少なく、販売に関しても未知数であった。ひと言で言えば創業者の横山社長は「物づくりの心」を持った人であった。良いものを社会に提供することで会社が存続する事を理解している人でもあったと思われる。その大京も昭和バブル後には銀行管理に入り、更に大手リース会社の傘下に編入されたので、創業者の思いは既に企業の遺伝子として継承されなくなった様だ。過っては不動産業界に大京のOBが創った不動産会社が多く出現し、大京は不動産学校とまで言われた時があった。この時代は大京の「物づくりの心」を継承したOBが良い仕事をしていた。平成バブル崩壊後までは大京に変わり不動産学校として多くのOBが創った不動産会社としてはリクルートコスモスが存在感を示している。しかし、残念なことに求人広告会社出身の江副が創業したリクルートコスモスは、「物つくりの心」など当初から持っていなく、最初から「見た目重視」の進出であった。勿論、「見た目重視」を否定するわけでなく、現在の流れを見ると時代を先取りしていた事が分かるが、問題はプロジェクトの採算性を高める手法に問題があった。某会社のデューデリジェンスで建築診断した建物など行政への働きかけが失敗した結果が良く分かるものであった。リクルートの江副は不動産業界では政商として政治家に働きかけて容積割り増しを得ての手法であった。この手法には当然汚職が絡んでくるのであり、この事は新聞にも報道されたので承知の事実である。江副が政界を振動させた疑獄事件で失脚したが、江副の創り上げた不動産会社のOBが正に江副の遺伝子を継承して多くの不動産会社を社会に送り出したのである。勿論、江副の手法のうち、政治家に働きを掛ける不正な部分は継承していないが、「物つくりの心」から懸離れた「見た目重視」の仕事を継承したことは、本体及びそれらOBの創った会社の殆んどが平成ミニバブル後に破綻し他企業の傘下に置かれたことでわかる。住まいは人の夢の実現である。その夢に「物つくりの心」を持っていない会社が進出しても長く存在することは出来ない。近年はコスト削減の流れで「物つくりの心」を評価されない環境ではあるが、その心を失った会社の末路は破綻しかない。それと不動産業界に大切なのは「言葉の重み」だが、それも今は死語に近い。勿論、消費者がそれらを望まないのであれば一人相撲になるのだが。
中東問題からの深読み
意図的か偶然かは分からないが、先のリーマンショック後の世界経済の金融の過剰流動性が安定的に推移してきた中東の長期政権国家を揺るがしている。中東諸国は宗教と部族の二つのキーワードが存在し、今回の民主化の先を読む事は難しい。然し、ひとつ言える事は中東はイスラム教であるので欧米型のキリスト教民主主義の国家に生まれ変わる可能性は低いと考えられる。このため、短期的には欧米が喜ぶ民主化が進むように見えるかもしれないが、その後は欧米に対立する政権が出現する確立は高い。一方、中東の民主化の波及を中国に期待する欧米諸国であるが、もし中国で混乱が起きると日本経済は中東の混乱によって引き起こされる原油高の影響どころではない。日本人は能天気に考えているが、日本企業が中国に投資している規模や中国の景気による恩恵は計り知れない。キリスト教民主主義の国にとってはイスラム教の繁栄は悪夢である。同時に黄色い人種の繁栄も又脅威である。しかし、米国はこれ等の悪夢や脅威に対して情報の独占化による優位性による支配を試みている。グローバル経済はその前提にあるのは平和である。平和でなければITによる自由な商業が損なわれてしまい、21世紀型経済の効率性とコスト削減の魅力を失ってしまう。オバマ大統領が情報産業の経営者と緊密な関係を維持するのは、正に21世紀では情報を征服した者が覇者になることを見通しているからと思われる。イランの原子力などが外部からシステムを攻撃されたが、今後は宣告なき情報戦争が行なわれる可能性は高い。クラウドは確かにコスト面から考えたら利用価値は高いが、反面情報が集中して読みと取られるリスクも少なくない。何れにしても米国は独占化した情報産業を武器に世界に君臨する野望は捨てていないと考えられ、今後は中国に対してどのようなアクションを起こしてくるかである。歴史的に中国は半ば植民地化した苦い過去を忘れてはいないので、米国が中国に情報戦争を仕掛けたりすると日本に大きな被害をもたらす可能性がある。この様な展開を見ると、円は徐々に下がり円安に向かうと推定され、資源高・食糧高の影響により日本国民の生活に悪影響が起きるかもしれない。しかし、一番懸念されるのは、日本が中国と対立するように仕掛けられ、両国に緊張が起きる事である。尖閣諸島事件などは正に将来を暗示する出来事である。このため、アジア人同士が争わないために、岡倉天心の「アジアは一つなり」の精神でアジア諸国との平和的な共同体の構築を目指すことが日本の役割であると思料する。
地方分権は情報化時代の必然
グローバル化がローカルに関心を向けさせるのは必要条件であり、十分条件は情報化時代の地方分権の必然性であろう。情報化時代には中央集権政治システムでは機能しないことは歴然である。勿論、中央政治の全てを否定するつもりはないが、時間軸が速く、距離感をなくした情報化の時代に全てに対して中央で指令を出す政治は弊害が出てきたと思われる。今、地方から政治・行政の改革の動きが出てきたが、この動きの最終目標が単なる中央集権政治を温存する動きならば意味がない。地方の再生には権限と資金を与えて活性化を図る以外に方法はない。今の中央集権政治は金太郎飴的な遣り方であり、情報化以前には有効であったかもしれないが、情報化の時代になり、地方が直接海外と繋がれることになり、過去と大きく状況は変わった。国の縛りで身動きが出来ない現体制ではグローバル化に追いついてゆけないし、成果を得ることは出来ない。ネットワーク社会には地方分権の強化によって国同士の取り決めでなくローカル同士の取り決めで動けるシステムが必要であり、そのモデルは古代の都市国家にあるかもしれない。現在の国という存在が宗教的、民族的な範囲を超えて形成されているために一方の勢力によって弾圧される悲劇が起きている。宗教的民族的な小単位で集団が結成され、その集団がネットワークで結ばれる社会が情報化に合ったシステムと考えられる。そういう意味では、米国の中央政府と州との関係は規模的には大きすぎるが、基本的な考え方では参考に出来る。地方がどの程度国との独立関係を有するかが機動性のある政治が行なわれる目安であると思料する。地方からの改革が過渡期の動きであるために国会議員との連携を模索しているが、この模索は百害合って一利なしである。況してや小沢一郎などと連携を模索するならば日本を金権主義に陥らせた田中角栄の亡霊を呼び起こすことになり、改革の先が見えている。政治は力であり数であると言う論理に縛られている間は過去の政治から脱却できない。東国原前宮崎知事の無能で危機管理能力も無い輩を人気取りだけで引き入れる考え方も賛成できない。小さな政府と大きな地方が情報化時代に対応した政治システムと理解した人が多く出てくれば期待が持てる。真の政治家とはグランドデザインを考える人であり、官僚をその実現に向けて動かせる人である。官僚から政治を取り戻すと言う標語自体が間違いであるのを早く気が付かなければならない。