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33年の長きにわたり開催されて来た㈱ユーハイムの"ゲーテの詩の朗読コンテスト"が今年で閉幕することになった。閉幕の理由は27年間コンテストに使用してきた千駄ヶ谷の津田塾ホールが建て替えられることになったからとのことであった。1982年に始まったコンテストは第7回から津田塾ホールを利用することになったが、1階にはユーハイムのレストランもあり、コンテストの開催には便利であったのだろう。時間軸が早くなった現在で企業の文化貢献としては異例の長さであった。

私自身のコンテストとの出合いは、不確かな記憶では、ユーハイムの河本社長ご夫妻とゴルフを通して親しくなり、コンテストの一般審査員としてチケットが送られ来るようになった第13回か14回目であったと思われる。その後は毎年チケットを頂き、用事がない限りは夫婦で参加してきた。河本さんとは家が近いこともあり、時々路上や電車のホームなどでお会いする。今回の大会前にも偶然お会いして閉幕を事前にお聞きした。確か、閉幕は来年の予定だったが、津田塾ホール側の都合で今年の第33回で閉幕を余儀なくされた様だ。企業の文化活動としては、経済バブル崩壊のデフレ不況も乗り切り、永久に開催すると宣言していただけに今回の閉幕は突然の出来事だった。

若しかしたら、開幕からコンテスト委員長として協力してきた名物の宮下慶応義塾大学名誉教授が2年前に亡くなくなったことも影響があるかもしれないと考える。本当に故宮下名誉教授のコンテスト参加者に対する洒脱な評論はコンテストが長く続いた理由の一つとも思われる。私も早すぎる逝去を惜しんだ一人である。

河本社長は東京教育大学(現筑波大学)のご出身で、聞いたところでは若い時には企業家ではなく学者を目指していたそうだ。それを一転してご尊父が経営していたユーハイムに入社したとのことだが、経理部に配属されれば税理士の資格を取得し、お菓子作りとしてはドイツに留学してマイスターの資格を取得するなど経営者として実践的で質が高い人物である。何かの雑談の時に社員教育には、ルソーの"エミール"と言う教育論を利用していると聞き、一読することを勧められた記憶がある。また、ゲーテの詩の朗読コンテストの司会は入社2年目の社員を使うなどコンテストを社員教育にも活用していたのは参考になった。

河本社長を判断する限り、ゲーテの詩の朗読コンテストは形を変えて復活するのではないかと思われて仕方がない。私としては、美味しいユーハイムのバウムクーヘンを食したり、贈答品として使ったり位しか応援が出来ないのだが、今後も復活を願って手作りバウムクーヘンを使い続ける心算である。

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石破自民党幹事長が来年9月の総裁選を睨んで下野するニュースが流れているが、消費税アップ後の消費落ち込みやアナウンス効果による人件費や資材高騰でが裏目に出て企業倒産が増加してきている現況を捉えて勝機があると読んでの事だろう。確かに、安倍政権は金融政策以外に効果は出ていなく、次の一手も即効性のある施策は少なく、経済の政策に疑問が出てきた。実際に、人件費の高騰と人手不足、それに追い打ちを掛ける資材費の上昇で住宅関連の企業の倒産も目立ってきた。人件費アップは安倍政権の政策の一つだが、当初から懸念されていた様に、経済が動いている認識が少なく、机上の理論で決めたことが企業に負担を強いている。インフレを起こすことが日本経済再生の道かもしれないが、同時に勤労者の収入が増えないと消費が下がるのは自明の理だ。円安は輸出企業に恩恵をもたらすと言う一点で円安を決めているが、グローバル企業となった日本企業に昔の様な円安効果は生まれない。逆に、エネルギーや農産物の多くを輸入に頼っている現在では、円安政策は両刃の剣だ。況してや、部品を海外の工場で生産している現状では完成品が必ずしも安くはならない。東日本大地震の復興に関しても進んでいない無能な国家組織には、複雑化した経済などに有効な手が打たれるわけがない。東京オリンピック誘致で喜んでいるが、最初から絶対的な労働力が足りないことを考えない部分最適な思考の官僚組織には国難を乗り切る力はない。

然し、小選挙区制にしたツケが回ってきたと思われて仕方がない。官僚組織は結果責任を取らない無責任組織ゆえに政治の働きが重要なのであった。中選挙区制度の時には、選挙民に媚を売らない政治家がいたが、小選挙区制度に変わった途端に天下国家を考える国会議員はいなくなった。選挙に落ちることを心配するだけの政治家は官僚の頭脳に頼り切っているが、優秀な日本官僚は死語に近い位に絵に描いた餅ばかりの経済政策の連発だ。それ以上に酷いのがマスコミだ。思考する頭がないくらいに大衆に迎合し、国民を間違った方向に導こうとしている。

単なる批判だけしても意味がないので、何が今の日本経済に必要かを考えてみると、国民の安心感だ。安倍経済が成功しないと思われる最大の理由は、社会医療の不足に使うと言って消費税を値上げしたにもかかわらず、簡単に反故していることがひとつだ。20年前に日本経済が失速した以降、バブル経済の責任は企業と個人に課せられ、官僚や政治家は何らの責任を取らなかった。然も、その後は不良債権の処理の過程で不条理な社会が出現し、約束を平気で破る連中が勝ち組と称して跳梁跋扈した。国家や企業に対する不信が消費の停滞を招き、国民を自己防衛に走らせている現実を考えないと日本再生など出来るわけがない。扶養手当を減らさないと主婦が必要以上に働かないと言った考えを持つ官僚や政治家がいる安倍内閣の周りにはいる様なので、それだけでも既にダメだ。しかも、共稼ぎは必要だと言いながら保育士の増加に消極的な官僚がいるなど政治の機能が働いていない。一事が万時なのが、安倍政権の経済政策が。日本再生の切り札にカジノ誘致と言った時点で利権しか匂いわない。IRを標榜した観光立国には別にカジノがなくても良いのである。家族旅行にカジノは不要だ。日本の観光に必要なのは、土日祝日に偏った観光客の分散と地域に適ったコストの考え方だ。中央基準のコストの考え方を改めない限り地方再生は出来ない。

なお、地方再生にコンパクトシティなど打ち出しているが、机上の理論で作った街づくりでは成功しない。赤字国債の解消が必要な時にコンパクトシティで新たなインフレを造るなど愚の骨頂だ。一事が万事であり、過去の手法を変えなければ何も変わらないのだが、これ規制緩和の問題とは別次元の話だ。

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会社案内の表紙に「いつも"日本一の豚肉"をめざして」を掲げているグローバルピッグファーム株式会社を訪問した。本社は群馬県渋川市北橘町上箱田800に所在し、立地的には赤城山の麓の山林の中にあり、羨ましい程の環境の良い所にあった。

訪問の理由は、伊香保カントリー倶楽部で弊社が主催するゴルフコンペに対して同社が協賛会社に応じてくれたからである。訪問前から伊香保CCの田中社長は車の中で美味しい豚肉を絶賛していたが、私は車外の風景を見ながら聞き流していた。協賛してくれた会社に対して失礼と思われるかもしれないが、会社自体ではなく、同社がクラブ側の主催するオープンコンペのスポンサーなのを知っていたので、田中社長の得意の宣伝と穿った見方をしたからである。

しかし、会社の立地や敷地内に併設したショップを見てゆくうちに、会社の特異性を感じる様になった。この様に書くと、お前も田中社長と同じかと言われそうだが、その後本社家屋に入り、取締役副社長の樋田さんから会社について説明を受けて独特の経営哲学を持った企業なのが分かった。会社設立が昭和58年(1983年)であり、この社歴で無借金経営と聞いて驚いた。私も経営者の端くれであり、無借金経営は何代もに渡って経営が上手くいった会社にだけもたらされる恩典と理解していたからである。ちなみに、私事で恐縮だが、昭和58年は私が結婚して所帯を持った年である。その年に生まれた会社という事で親近感が増した。

樋田さんから提携している養豚農家の後継者を会社に預かって研修させるシステムや新卒獣医も現場で何年も働いた後に初めて評価されるシステムなど参考になった。同社の社員は一定の資格を持った専門家集団であり、一人前の専門家になって初めて評価されるシステムは正に品質を重視する会社と思われた。樋田さんの話を聞いているうちに私の頭の中にデジャビの様に浮かんだことがあった。それは未だ30才前後の頃に取引先の金融機関の子会社のコンサルタント会社の会員になった時の研修会でのことであった。新潟から参加した養鶏場経営の2代目の方が父親から言われた話であった。2代目の彼は養鶏場の将来を勉強するために東京に頻繁と出かけて経営セミナーに出ていた時に、父親から"鶏の事は鶏に聞け"と言うわれ、その後漸くその意味が分かったとの事だった。

昨今は情報化が進み、データ分析手法などが重視され、現場軽視の風潮があるが、現場を知らない経営者や社員は役に立たない。情報とは経験知と相まって初めて有意義なものが生まれるのである。久し振りに、本物の会社を見た思いであった。帰りに、ショップでしゃぶしゃぶ用のもちぶたなどを購入したが、協賛用の商品まで頂いているのに社員割引にしていただき恐縮してしまった。

田中社長から購入を大分勧められたのだが、ワイフがあまり肉を食べないので困った事は確かであった。しかし、会社で聞いた事を実際確認するには商品を賞味することなので、何種類かを購入したのである。早速、帰宅した翌日に豚しゃぶにして食べたのだが、肉を余り食べないワイフまで絶賛するほど美味しかった。肉の事など余りわからない彼女が、今まで食べていた豚肉はもう食べられないと言い出す始末だ。確かに、本当に掛け値なしで美味しかった。ゴルフコンペの協賛会社だから称賛するのではなく、立派な経営哲学を持った会社が地方に存在したことに驚き、更に言葉に違わぬ品質の良い豚肉を提供している姿勢に学ぶべき点が多いからである。この様な会社に勤務する社員は幸せであり、翻って経営者の責任の重さを痛感した次第だ。

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NCM_0255.JPGハンナ・アーレント生誕100年だそうだが、彼女ほど人間が思考しなくなる危険性を説いた人はいない。ユダヤ人として生まれ、第二次世界大戦時はフランスで収容所に入れられた経験を持っている。また、哲学を専攻し、師と仰いだ哲学者のハイディガーは、戦時中にナチスに対し共鳴するなど複雑な人生を歩んでいる。ハンナを有名にしたのは"全体主義の起源"の著作であるが、最も人口に膾炙したのはイスラエルで行われたナチスの親衛隊であったアドルフ・アイヒマン裁判を取材して書いた「イェルサレムのアイヒマン」である。この本ではアイヒマンの死刑判決に対しては当然との受け止め方であったが、多くのユダヤ人を収容所に送った張本人である裁判中のアイヒマンを見て愕然としてのである。悪の確信犯と呼べる男は、実際は結果など考えない命令を単に実行する忠実な役人であった事実に気が付かされた。この様な小市民的な男が大それた歴史に刻む大量殺人の当事者になったのかをハンナは考え続けた。一方、イスラエルの国に対しては、アイヒマン裁判をショーとして一個人の裁判でなく世界中に大量虐殺の悲劇を宣伝する事に対しても、亡くなったユダヤ人に対する冒涜と批判したために、イスラエルの国家からの反発と同胞のユダヤ人からも攻撃された。ハンナは同胞の悲劇を蔑にしたのではなく、人間が思考しなくなることの恐ろしさをアイヒマンから見せられ、大量虐殺が命令に忠実な多くの行政的な思考しない人間を介して行われた事実を喚起したかったからである。

現代社会においてもその危険性は内在しており、思考しない人間が増加すれば全体主義が出現し、悪が出現することになる。情報化社会だから過去と異なり、一人一人が多くの情報によって判断できると言われているが果たしてそうなのだろうか。逆に、情報量の過多が情報量の少なかった時代より多くの人の思考を奪っているのではないかと最近の社会の動向を見る限り思われてならない。一人の平凡な人間が歴史に残る大犯罪の片棒を担う姿は、IT社会になり、人々の判断が不確かな情報や偽造された情報の真偽が確認できなくなりつつある時代には、思考しない人達が増え、他者を攻撃する存在が顕著になり、正に政治と考えていることが少しも政治でないと言うことを理解しないと間違った方向に行ってしまう恐れがある。ハンナは大衆社会を批判し多様性を擁護しているが、IT社会のグローバル化による多様性の出現がハンナが期待したものであることを願うばかりだ。

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オオカミ協会会員証.pdf

知人から一般社団法人日本オオカミ協会への加入依頼があり快諾した。日本オオカミ協会とは絶滅した日本オオカミを研究する会かと思ったら、
想像と異なりオオカミ復活運動であった。会の趣旨は明治時代に絶滅させたオオカミの復活によって食物連鎖を修復し自然生態系を守ることだった。

弊社もゴルフ場のコース管理の業務を行っており、増えすぎたシカ、イノシシなどの被害で現場が対応に苦慮しているのでオオカミ復活には賛成の立場だ。しかし、増えすぎたシカやイノシシに責任はなく、生態系を壊す原因となった日本オオカミの絶滅は人間が関与しているのでその反省なくしてオオカミの復活はないとも考える。会員になって協会から送られてきたフォレスト・コールと言う会報(NO.19)の冒頭に足尾銅山の公害に対して一生を捧げた田中正造翁の「真の文明は   、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」の言葉が掲載されていた。明治以降の欧米を模倣した近代化が自然破壊を進め、日本オオカミなどを絶滅に追い込んだ。日本は地方が疲弊し人口の流失と減少に歯止めが掛らない。又、猟友会も少子高齢化社会の到来で若い人が少なく先細りの状況である。この為、増え続けるシカなどの被害に対してはますます対応が困難となってきている。

弊社も管理しているゴルフ場に関しては多くの鳥獣の被害に悩まされているが、シカやイノシシに関しては被害が大きい上に強力な対策が取れないので困っている。確かに、オオカミの復活には賛否両論があるのだろうが、現状を考えると復活後の懸念より、復活させた方が自然にとってはメリットがあると思われる。話は変わるが、故郷の実家の氏神様の守り本尊はオオカミだと曾祖母に聞いたことがある。その為か、私の実家と犬と相性が悪く、犬を飼っても事故(私が幼き頃に顔を飼い犬に噛まれた)が起きたり、短命(事故死など)で終わることが多かった。しかし、父が亡くなった後に母が飼ったハスキーは長生であった。ハスキーはオオカミと似ている面もあり、当家の氏神様も勘違いしたのかもしれない。(笑)

自然の均衡を壊したツケが回ってきているのかもしれないが、シカが増えすぎて森を破壊する現状を放置するのは昨今の天候不順に際して更に大きな被害をもたらす原因にもなる。同様にイノシシの増加も看過できないほどであり、従来はそれほど大きくないイノシシであるが、先日狩猟で獲れたイノシシは250kgもあり、大人4人で漸く車に乗せたとのことであった。それを聞いて、スタジオ・ジブリの"もののけ姫"の映画で森を守る精霊として大きなイノシシが描かれていたのを思い出した。

ゴルフ場のコース管理でイノシシ対策に悩まされていた時に知人から日本オオカミ協会の誘いを受けたのも何かの縁と思うが、実家の氏神様はオオカミであると曾祖母が言った事まで思い出した。ゴルフ場のコース管理をする上で鳥獣類と如何に共棲するか、又コース内の草木も自然の恵みとして感謝の気持ちを持って行きたいと思っている。自然の感謝には、管理棟に神棚を設置して祀っている。自然の神々に感謝である。

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中小企業の末席、と言うより零細企業の経営者の私が、過去だけでなく現在進行中もあるが、多くの経営者を見てきた中で大企業のサラリーマンとして長年勤務してきた方が中小企業の経営者や役員になった場合には、考えさせるられケースが多い。一流大学を出て大手企業に勤務したホワイトカラーの人達は、中小企業の経営者を馬鹿にする傾向が強く、特に従業員に関しては能力の低さを指摘して不満が多い。ここでホワイトカラーと言ったのには理由がある。同じ様なサラリーマン人生でも理工学部出身のブルーカラーは工場勤務などで現場経験が豊富な為か中小企業の実情に融け込めるのか、不満より前に現状の戦力で前に進む工夫をする傾向が強いと思われることだ。勿論、全てに当てはまる訳ではなく、飽く迄も私の経験の範囲と独善的な見方である。

零細企業の経営者は先ず人を大事に考える。大企業や有名企業の様な生活が安定する会社ではないから必要な人材の確保には年中苦労しているからである。翻って、大手企業出身者の人達は優秀な人材が揃っているのは当たり前の感覚であり、指示すれば従業員はそれなりの答えを出すのに慣れているので、期待に応えない従業員に対しては冷たくなる。ブルーカラーも同様だが、ホワイトカラーと違う点は、ブルーカラーの場合には工場を動かすのには最低限の人数が必要な事を知っているので、従業員が反感を持って辞めてしまう愚は犯さない。

尤も、ホワイトカラーでも労務を経験していたり、多くの部署を経験している者は組織を動かすには何が必要なのかを理解していると思われ、従業員に無茶な要求はしない様だ。何れにしても、大企業出身者が請われて中小企業経営者に就任すると、現場の状況を理解せずに机上で人事を考えてリストラを断行し、、目先の収益改善を目指す傾向が強い。これが何をもたらすかは一目瞭然だ。中小企業や赤字体質の会社の従業員は給与などの待遇に恵まれていないケースが多いので、不条理な経営者が現れたら簡単に会社を去ってしまうことだ。この事は何も従業員に限ったことではなく、取引先も同様だ。将来性があるなら我慢して取引先として残るが、将来性もないうえに、経費節減でコスとカットを強いられたら取引を止める選択をする。

兎に角滑稽なくらい判で押した様な結果が出ているのに、それを大企業出身の中小企業経営者は理解できないのを良く見る。大企業出身者が中小企業の経営を任されるのは、その企業が不振である場合が多い。その為に無駄な費用の削減は必要だが、長く不振である場合は遣れることは既にやっている場合が多い。この様な会社の経営を引き受けるには、経費節減より前にやる気を失っている従業員の士気を高め、業務を超えた協力関係を構築するのが先決だ。後先を間違えると一時的には成功したかの様に見えても先行きは失敗することになる。会社はやる気のある従業員がいなければ成り立たない。どの様な時代になっても本質は変わらない。勿論、人間に変わってロボットが登場すれば別だが、私が経営者の時代には考えなくても良いことだろう。

経営が厳しい会社を引き受けるには単身で乗り込んでも難しいと思われる。以前聞いた話だが、三井住友銀行の元頭取の西川さんが日本郵政会社で思う様に経営の改善が出来なかったのは、連れて行った部下が少なかったとのことだった。あれ位の規模の会社だと100人を引き連れて行かないと指示が行き渡らないとのことであった。この話は真実思われる。幾ら優秀な人でも中小企業の経営を任されたら信頼できる部下や知人が何人かは必要になる筈だ。上に立つ人物は頭が良いだけではないのである。上に立つ器量と言うものが必要なのである。特に、中小企業の経営者になるには、カリスマ的な要素が必要な場合もある。振り返ると、亡父が若い時に田舎で経営していた事業の従業員は亡父の事を親分と言っていた。親分が世間から評価されると子分の従業員も喜ぶと同時に誇りに思っていたのが分かった。私は二代目の経営者だが、先代の社長が作った社是には「会社の経営理念を家族主義を最良とする」が最初に書かれている。二代目の無能さゆえに理念を全うする力はないが、出来るだけ理念には近づきたいと思っている。"事業は人なりである" 幾ら能力の低い集団の零細企業でも皆が力を合わせれば能力以上の力を発揮できるのである。

最近の中小企業に請われた大手企業出身の経営者は自己利益だけしか考えない者が多くなり、経営のリスクも負わなく、ダメなら何時でも逃げ出すと従業員に思われているケースが目立つ。零細企業の経営者として従業員が、私をどの様に思っているのかその様な会社を見るにつけて気を引き締める。特に、新規事業所の開設で中途採用の従業員も多くなり、初心忘れずの必要性を考える。

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安倍内閣が集団的自衛権の成立を憲法解釈を曲解してでも急ぐ理由は中国の台頭と国民は思わされている。確かに、民主党政権時代に起きた石原元東京都知事の尖閣諸島取得問題に始まった中国との領有権争いが偶発的に戦争を引き起こす可能性もあるとのことで、国民の多くは安倍政権が日米同盟の強化を目的とする集団的自衛権成立を図っていると単純に思い込んでいる。しかし、今回の集団的自衛権の成立を図る目的は単なる中国との領有権争いだけではないと見た方が正しいのではないかと思われる。一つには、憲法解釈を曲解するのに法制局長官を外務官僚から登用したことである。二つには、今回の集団的自衛権の成立には防衛官僚の姿は見えず外務官僚と経済官僚の動きが突出していると思われるからである。

結論から言えば、集団的自衛権はグローバル経済に必要な道具と言えるからである。何故なら、グローバル経済は旧ソ連が崩壊し、世界経済が情報化と相まって急速に繋がったことから起きた現象であるからである。それではグローバル経済が必要ととする最大の条件が平和と言えるからである。

1990年以降に米国で勃興したITの発展が将来を食う形で進み、実体経済との不整合により破たんした後に起きたのは9.11であり、その後米国はテロの総本山としてアフガニスタンに介入し、更に独裁国のイラクに対して戦争を仕掛けたのである。尤も、グローバル化以前は、旧ソ連の崩壊で東側の諸国が次々と資本主義国家となり、又独立していったが、その過程では宗教的民族的対立によって紛争が起きた為に、国連は欧米諸国を核として軍隊を派遣して鎮静化を図った。しかし、アフガニスタン、イラクは9.11と言うテロ事件を理由に米国が単独乃至は友好国の支援を得て起こした戦争である。これ以降は国連が決議して国際紛争を鎮静化するシステムが徐々に壊れていったと思われる。特に、リーマンショック後のリビアに対する民主化運動による独裁国の転覆は今日のグローバル経済の障害を取り除くと言うエポック的なものであった。民主化と言う言葉は資本主義経済とは違うのだが、何時のまにか民主主義イコール資本主義国家となり、更には新自由主義なる言葉も出てきた。正に、新自由主義がグローバル経済をけん引する言葉であり、此処に集団的自衛権が必要とされる理由である。

新自由主義とは、企業を中心とした考え方であり、逆に言えばグローバル化した経済が国家を超えた存在となり、国家は企業と自由な経済活動を守る為には軍隊を海外に展開する必要があるからである。安倍内閣は何故集団的自衛権の本当の意味を国民に伝えないのかと言うと、新自由主義者の企業中心の考え方は、格差社会の元凶であり、一部の企業や人達に富を偏在させるものだからだ。冷戦時代や情報化時代以前の日本経済は分かち合うシステムであったので、大企業を中心として中小企業がそれを支える構造であった。それが、グローバル経済では、大企業は国内の中小企業と利益を分かち合う関係は必要なくなり、大企業も国内に投資や従業員に利益を還元しないで内部留保金を蓄えるだけになった。この様な状況では、海外に展開する日本企業を守るために自衛隊を派遣するなどとは言えないからである。

集団的自衛権は隣国の中国の台頭を上手に利用したものであり、正に戦前の財閥企業中心とした社会の出現であり、軍隊が企業活動を守る為に海外侵略した図式と内容的には同じである。グローバル経済が民主化と言う美名のもとに企業の経済活動のエリアを拡大し、進出企業が現地で反対運動に遭遇するとテロ集団として自国の軍隊を派遣できるものになりつつある。当然に一カ国だけでは対処しきれないので、利益を享受する国同士が連携して反対勢力(全てテロになる)に対応することになるが、これが集団的自衛権の目的である。国内で分かち合う経済があり、格差社会で国民の大半を切り捨てなければ集団的自衛権も意味のあることであるかもしれないが、今後予測される様な格差社会の助長と大企業だけが繁栄する経済構造では国民の命を犠牲にする集団的自衛権など無意味である。有識者が指摘するように日本を守るだけなら現憲法でも十分であり、集団的自衛権など必要がないのである。

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社員の訃報を聞くほど辛いことはない。特に、会社に尽くしてくれた社員との別れは身内との別れと同じくらい悲しい。午前中に1本の電話が入った。闘病生活をしている社員の奥様からだった。受話器の向こうから、今朝、主人が亡くなりましたと告げられ、言葉も出なかった。家族も想定しなかった突然の別れとのことであった。又、奥様から生前のご主人の遺言で直葬を執り行うと告げられた。故人らしい遺言ではあるが、会社としてはお別れに際して見送れないのは寂しいものである。故人は私と同い年であった。一級建築士として長く設計事務所に勤務し、50才前に早期退職した。当社には建物管理の技術要員の募集に応じてきたのが縁であった。都内の準大手の設計事務所の設計部長職まで務めあげて多くの設計作品と現場監理の実績を持った方なのと、出身地が私の故郷の隣の栃木県であったのでその場で採用を決めた経緯がある。

振り返ると、故人の入社が建物のデューデリジェンス業務の本格的な進出となり、故人とは都内を始め仙台、名古屋、大阪などに所在するビル、マンション、商業施設などを見て回った記憶が昨日の様に思い出される。

故人は1年数か月前に病が見つかり会社の近くにある虎の門病院で大手術を行った。3ヶ月の休みで現場に復帰した時には心配したのだが、本人は病院の先生も働いてた方が回復しやすいとの見解なので大丈夫との事であった。一度現場に復帰すると従来と変わらない勤務振りなので何時しか心配することもなく日時が過ぎて行った。そして昨年末から今年に掛けて世田谷のマンションの防水工事関係の監理業務を行い、更に昨年末には港区青山に所在する小さなビルの建物診断の仕事が入ったので、故人に同行を依頼した。今思うと食事が余り取れずに痩せ細った身体を鞭打って会社の為に一生懸命働いてくれたのだった。企業戦士と言われた最後の世代が我々であった。今年2月に同僚の進言もあり、体力の回復の為に休養を勧めた。本人も同意し、体力の回復後に職場に復帰することとなり、半年後の復帰を目途にリハビリに入った。しかし、再度、2ヶ月前に虎の門病院に入院し、先週の金曜日に自宅近くのリハビリ施設に転院した矢先の逝去の知らせには言葉が出なかった。せめてもの救いは、役員室の女性に誘われて退院日に故人を見舞い実質的にお別れが出来たことであった。故人(藤田 中 氏)には生前の精勤に感謝し、本文を弔辞とする。合掌。

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標題の様に書くとグローバル経済なので当たり前と言われそうだが、新自由主義と言えば何か前進的な考え方と勘違いする者が多いのではないかと思われる。歴史を見ると、戦前の日本の財閥企業の経営者は正に新自由主義者の考え方と同じ発想であることが分かる。この為に、5.15事件を起こした軍人である三上卓の「昭和維新の歌」の一節に「財閥富に栄えども社稷を憂える心なし」の言葉がある。この言葉を現代風に置き換えると、「グローバル企業利益を増やせども国家を考える心なし」と言えるであろう。

安倍政権の経済政策を支える新自由主義者とは経済産業省の官僚などである。確かに、高度経済成長を推進した時代の頃は経済産業省の役割を評価できなくもないが、円高になって以降の経済産業省は多くのミスを犯し日本にとっては害になってきたと思われる。東日本大震災の原発事故の背景には、間違ったエネルギー政策と電気料金に関する部分最適の自由化があったことに気が付くべきだ。経済産業省の官僚は高度経済成長以降に海外のモデルがなくなり目先の政策立案で誤魔化していた。1985年のプラザ合意後の円高に対して従来の経済成長路線推進するエネルギー政策を変えることが出来ずに電力設備の過剰を生み出した。経済官僚は電力会社が政治家を使って過剰の電力立地を推進したと反論するが、全くの自己弁護に過ぎない。単に円高でこれ程までの企業の海外移転が行われることを予想できなかっただけだ。

経済産業省は同じ様な誤りを繰り返してきているにも拘らず、国家観を喪失した馬鹿の一つ覚えのグローバル経済を念仏のように唱えている。非正規雇用者を大量に生み出し、少子高齢化と逆方向の政策を推進している経済官僚やOBを見ると亡国の輩としか見えない。そう言えば、定年前に退官して民間企業に再就職した経済産業省のOBと偶然話をする機会があり、非正規雇用者の出現を憂いたら「アンタの様な社会主義者がいるから日本はダメになるんだ」と言われた。国家の豊かさとはなにか。消費は誰が作るのかを知らない経済官僚がいたのには驚いた。新自由主義とは少数の金持ちを作り、多くの低所得者層を作ることと今では理解しているが、その結果消費が落ち込み経済の回復がなされないどころか、結婚できない多くの者を生み出し、国家が衰退して行くことなのだが、正に「企業が栄えて国家を憂いない」新自由主義者が増えている様だ。安倍政権の周りに新自由主義を信奉する経済官僚がいる限り、日本の将来に期待は出来ない。国家観がないのに集団自衛権で国家を守れる訳がない。戦前の軍事国家であった時でも、敗戦直後に多くの将兵は国民を置き去りにして自分たちが先に逃げたのである。現代の日本社会の弱者切り捨て競争社会で戦争など出来る訳がないことが知らないのは安倍政権を取り巻く政治家連中だ。国民が繁栄してこそ国家があるのである。何が新自由主義だ。

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安倍ノミクスの政策の一つに法人税率引き下げがある。各国と比較して法人税が高いので日本企業の投資意欲や外資系企業が進出しないと言った議論から生まれた政策と思われる。確かに、20年前の政策なら効果があったかもしれないが、情報化技術の発達や企業活動の考え方が以前と大きく違ってきたことを考えると余り効果が生まれないのではないかと思われる。特に、国内企業に限れば、大手企業の内部留保が過去にない金額となっている。法人税を安くしても国内に投資魅力がない状況が続いている環境では意味がない。逆に、財政赤字が膨大なのに法人税引き下げが失敗に終われば、消費税増税による赤字財政削減も後退してしまう。少子高齢化社会の到来は30年以上前から指摘されてきたことだ。日本の農業と同様に何も抜本対策が打ち出せずに今日を迎え、労働力不足に周章狼狽している。日本企業や国民は保護されてきたので競争力や競争心がないとかの議論となり、インチキな規制緩和や安定した労働市場を壊したツケが来ている状況の中で、机上の空論を打ち出しても意味がない。非正規雇用制度は成人男女が結婚して子供を作ると言うシステムを壊したのである。同制度の悪影響は現状より、未来に大きな負債となるのは自明だ。経済を良くするのは無機な企業ではない。企業を運営する人である。人造りが国家の使命なのに、今の日本社会は人を殺す社会となっている。正に、ソニーと言う企業が見本を示している。人を大事にしない企業に未来はない。同時に、国家にも言えることだ。国民を大事にしない国は亡びる。国民が安心して生活できる国家が繁栄するのである。今の日本で国が考えなければならないのは、年収250万円で結婚が出来て子供の教育が図れる国づくりだ。安倍ノミクスは絶対的な労働力不足に対して既婚女性を職場に出させることを目論んでおり、NHKもその宣伝番組を流し続けているが、主婦を職場に出すマイナス効果は一切考慮していない。公務員は共働きが多いが、それは民間と比べて待遇が恵まれているからに他ならない。民間企業が公務員と同様なシステムを持ち込めるはずもなく、持ち込んだら会社経営が不安になる。しかし、共稼ぎ構想を提案して主婦の扶養控除の廃止を企んでいるのは恵まれている公務員たる官僚なので、ふざけるなと言いたい。

過去45年を振り返り、日本の農業をぶっ壊した政治家と農政官僚を考えると憤りを感じるが、教育にも国民の生活を圧迫する要因が起きているのには驚いた。今から40年以上前の大学の年間授業料と大卒の初任給(月額)と比較すると、記憶では国立大学の年間授業料が1.5万円位で、私立大学が同7万~13万円(理系が高かった)であった。しかし、現在で比較すると、国立大学の年間授業料は45万円、私立大学が同110万円~140万円である。此処で大学卒の初任給(月額)で比較すると、40年前は初任給は月額6.5万円~8.5万円(金融機関が高かった)で、現在の初任給は月額19万円~24万円と推定される。驚くべきことだが、教育費が何故ここまで高くなったのだろうかと疑問が湧いてくる。

何れにしても、国は日本の国民などを考えないで単に財政や机上の空論などで長年政策を進めてきたツケが今になって回ってきたと思わざるを得ない。一事が万事と言うからおそらくあらゆる面で同様な現象がおきているのもと推定される。日本の良さを欠いた経済成長など今更望むべくもなく、解決する緊急の課題は、国民に負荷を掛けない安心して住める社会作りである。禅問答の様に聞こえるかもしれないが、正にそれ程の難問を解かないと日本に未来はないという事だ。