日本の新聞が記者クラブと言う情報談合の制度を壊さないで何を言っているのかと思うのは私一人ではないだろう。その上、露骨に意図的な世論調査や似非学者の意見を掲載して情報操作している姿を見ると新聞の断末魔の声が聞こえてくる。インターネット以前の時代なら兎も角、現代の情報化時代に記者クラブの発表記事など掲載していたのでは購読者など減少する一方だろう。私が住んでいるマンションでも新聞配達は急激に減少しており、特に若い人たちは新聞を取っていない。私が若い頃に韓国関係の情報収集を担当していた当時、日本経済新聞の一面の記事が韓国の経済紙に掲載された記事と全く同じであった事に驚いた。企業で海外勤務を経験した人達には分かっていた日本の新聞の海外新聞丸写しの記事の掲載であった。記者クラブ制度で育った記者は取材する能力が鍛えられないので、海外に出たときには翻訳記事やインタビュー記事しか本社に遅れないのだと理解した。夜討ち朝駆けによる取材などと言われるが、実態は親しくなった政治家や企業人からリークされた記事を掲載して一方の暴露に組しているだけの話である。尤も、毎日新聞の記者の様に男女関係になった女性から寝物語で聞いた沖縄返還密約を記事を書いた者もいた。この記者が特ダネをとるために女性を利用したかの様に書かれているが、本当の話は男女の中になった偶然から拾った特ダネだろうと思料する。言論の自由などと大袈裟な事をマスコミは唱えるが、記者クラブや企業広報、更に意図的に流された情報を鵜呑みにして記事にする日本のマスコミ関係者がその背景にある信用を失くしたのでは、意味がない。最近の新聞は特に政治や外交に対して目に余る干渉を世論調査や学者などを利用して行なっている。米国のCIAや財務官僚の手先と思える記事を掲載していたのでは日本の新聞は風前の灯火であろう。先ず、新聞が生き残るには記者クラブ制度を否定し、企業広報の代理店を否定することしかないと考える。しかし、自らが出来ない事を書いているから信用を失っていることに気付くべきと思われるが、先ず無理と考えた方が正解であり、遅かれ早かれ日本の新聞は消え去る運命だろう。
司馬遼太郎の作家原点が今尚続く日本の悲劇
司馬遼太郎は昭和20年(1945年)8月15日に陸軍少尉で終戦を迎えた時に「なぜ、こんな愚かな指導者ばかりの国にうまれたのか。昔はそうでなかったのではないか。」と言う思いがあり、その疑問の答えを見つけるために歴史小説を書き続けたと言う。この愚かな指導者の言葉は正に現代の日本にも当て嵌まり、太平洋戦争の責任を問わなかった日本国民の未だに続く悲劇かもしれない。今は平成の時代だが、愚かな指導者を産んだ時代は昭和であった。私も昭和生まれだが終戦を大分過ぎ朝鮮戦争特需に沸いた世代であるので、子供時代に戦争の話は聞いたが実感の湧かない事であった。しかし、無謀な戦争に導いたのは日本陸軍参謀本部の作戦参謀と言われた陸軍大学卒のエリート官僚と聞いて今は、東大卒の財務省主計局のエリート官僚がオーバーラップする。昭和の時代にはテストの成績が良いものが要職に就き、次第に実務知らずの机上の妄想に走り、国家を破滅に導いてしまった。現代の霞ヶ関の官僚なども同様であろう。政治家や地方首長などに言葉遊びで翻弄して頭の良さを得意がっている姿は亡国以外の何物でもない。特に、官僚の問題点は、失敗の責任を取らないと言う正に致命的なシステムに国家の運命を委ねている点である。民主党の代表戦が始まったが、管にしても小沢にしても経済など何も分かっていないので期待は出来ないが、2人とも間違いなく司馬遼太郎の嘆いた「愚かな指導者」の範疇には入る。世の中は人脈で動くので仕方ないが、致命的な失敗をした輩が昔の陸軍参謀と同じ様に直ぐに要職に返り咲く。敗者復活戦をなくせと言うのではない。問題は失敗の原因を解明して責任を取った上での復帰なら問題が無いが、当の本人が反省も無いのに復活させている現代のエリートと呼ばれている連中の互助会組織が日本国家の崩壊に導く恐れがある。尤も、日本崩壊など既に始まっており、沈む船と運命を共にするのは何時も庶民である。しかし、平成の愚かな指導者に対しては断じて看過しないで責任を追求する必要があり、愚かな政治家、官僚、学者の氏名を挙げて責任を取らせる必要がある。