BT油田の爆発事故で原油の流失が起きており、フロリダ沿岸は原油で自然が破壊される危険性が大きくなった。原油流失事故で思い出すのは30年以上前のオランダのハーグで起きた原油流失事故である。この時には日本の関係者も多数視察に行き、その後の原油流失における被害と事後処理を研究する切っ掛けとなった。日本でも十数年前に日本海で沈没したロシアの小型タンカーの原油が流失し、島根県などの沿岸の市町村は押し寄せた原油を始末するのに大変であった。油田の事故での原油流失はアラビア海で起きた事故と北海油田の事故が記憶される。しかし、今回のフロリダ沖のBTの事故は現在に到っても原油の流失が止まらずにいるので、今後の被害は想定外の被害となり可能性が高い。特に、フロリダ沖の潮流は米国本土の気候にも多大な影響を及ぼすと言われているので、海洋自然の破壊だけでなく、米国本土にも何かしらの影響が出ると考えられる。特に、カオス理論のバタフライエフェクトによって地球規模的に影響が出てくる可能性も否定できず、今年から来年に掛けては世界中の農業生産などに影響が出てくるかもしれない。金融危機の後にはギリシャなどの国家破綻不安が起き、更にアイスランドの様な数百年に一度の火山爆発や大規模な油田事故による原油流失による自然破壊の出来事が続くと何かが地球のバランスを壊したとしか思えない。この様な時代には人間の脳も狂わせるので為政者には気をつける必要がある。
情報化社会がもたらしたデザイナーズマンションなど外見重視偏重の問題点
その時代その時代に起きた革命的な変化は人間の脳にも大きな影響を与えて新しい考え方が生まれるが、その様な視点で情報化社会を見ると、不動産業界などには"見た目重視"に大きな影響を与えたと思われる。もちろん、何も見た目重視は情報化社会だけが生み出したものではないが、今回の見た目重視の問題には極端なハード軽視に繋がっている怖さを指摘したいのである。グローバル経済が物の価格を引き下げているが、短期間で消費されるIT機器と建築物は基本的には異なるので、見た目も大切だが自然災害に対する配慮も重要となる。今日的な問題ではないのだが、建築士に設計を依頼するとデザイン重視の人と機能重視の人に分かれる。前者は使い勝手が悪く、後者は野暮ったいので発注者としてはこの中間の人を常に探している。この様に書くと躯体等ハード面の事に触れていないと思われるかもしれないが、地震災害の多い日本ではハード面で手抜きをすることは想定外のことであった。もっとも、阪神大震災で分かった事だが、関西は大地震が起きないと言う間違った考え方が浸透して関西の建築物の多くは許容範囲を下回っていたために地震規模以上に被害が大きくなったと言われている。少なくても、東京を中心としたエリアでは許容範囲を下回る手抜き工事はなかったと思われる。しかし、情報化社会やグローバル経済の浸透に相俟ってハード軽視の考え方は建築業界にも波及し、「物造り」を重視しない人達が不動産業界に進出し大きな利益を挙げるようになり、何時の間にか極端な見た目重視に変わり、ハード面のチェックは二の次になってしまった。その結果は耐震偽装事件に繋がっているのだが、この耐震偽装の様な犯罪は極端な例だが、問題は工事費の削減要請から生じたハード軽視の不良建物が2000年以降多く出現している事実である。外観や設備的には古い建物より優れているが、建物の基礎の部分や建築物の内部、更には工事費削減を目的とした材料は時間が経過しないと判断できないので怖い。不動産業界に関わる人の多くが、家電などの例を挙げて日本の家電はフル装備で価格が高く競争力が弱くなっている例を引き出して装備の簡素化に対する考え方を建築業界にも波及させていることが問題と思える。もちろん、経済力のない国々の人に対する物販の考え方を幾らグロバル経済だからと言って日本にも適用すること自体が考え方に間違いがあると思われる。ひとつの大きな変革をもたらす技術的な思想は多くの分野に波及するが、それは必要条件であって十分条件ではないことを理解して取り入れるべきと思える。不動産業界は、ipodとウォークマンとの競争結果とは違うのである。
今の政治・経済界に武藤山治はいるか!
連休中は自宅周辺の散歩に終始したが、その間に何冊かの本を読んだ。書店の売り場に行っても読みたい本がなかったので、過去に購入して読んでいなかった本を探し出して紐解いたのが、鐘紡の中興の祖と言われた「武藤山治」の伝記であった。読むに連れて武藤が活躍した大正・昭和初期の時代が現代と共通する場面が多いことに気づかされた。何の事はない、大正・昭和初期は正に弱肉強食の資本主義経済下にあったのだが、現代の規制緩和そして市場経済と同様の姿が逆先祖がえりの如く描かれているのには驚いた。その上、政治の混乱も現代の政治の混乱と本質的には同じであったので、人間が進歩しないのには愕然とした。その中で実業家の武藤山治の生き方は晩年に政治家に転身したとは言え、経営者としては株主に高配当を続け、従業員にはその時代の先を行く福利厚生施設と高額の給与を支払い続けた姿勢にはM&Aに怯える今の経営者達とは人間のレベルが違う事を思い知らされた。もちろん、武藤山治と同世代の多くが現代人と変わらない私欲で動いている輩なので、尚更に人の成長には何が大事なのかを考えさせられる。14歳で岐阜の田舎から上京し、福沢諭吉の慶応義塾で学び、更に17歳で米国に渡り3年間仕事を遣りながら大学に通っている。武藤山治は地主の息子に生まれたので生活には困らなかったのだが、最初の挫折は英国留学を株の暴落の煽りで断念し米国に苦学生として渡米したことだが、この挫折が武藤山治には人間的成長を遂げさせたと思われる。帰国してからも最初は必ずしも恵まれた境遇ではなかったが、時代は武藤山治を見捨てておかなかった。紆余曲折を経て鐘紡の支配人に就いてから当時誰もがなし得なかった企業経営を行って鐘紡の中興の祖と呼ばれる存在になった訳である。読んだ本には恐慌に打ち勝った男として描かれているのだが、政治家に転身した後は必ずしも成功者とは言いがたいものの、当時の政府が収入以上に予算を拡大し、その財源として郵便貯金を財投資金として活用する危険性を議会で指摘するなどその先見性には驚くべきものがある。正に、今の日本に必要な人材であるが、何処を見渡しても武藤山治の様な存在は見当たらないのが悲劇かもしれないと思う。