新聞報道も政治家も国民の預貯金を投資に振り向けないと日本の企業と国家は駄目になると喧しい。日本国民は堅実だから低金利でも投資は行わないと言う見方は否定しないが、預貯金が投資に行かない最大の原因は国民の政治不信・行政不信にあると言う事実である。20年前のバブル経済は企業や国民が引き起こした様に言われているが、プラザ合意による内需喚起などによる実際は政策の誤りであり、責任は行政と政治家に帰すべきものである。しかし、バブルの後始末の負担を企業や国民に転化して犠牲を強いたのである。バブル経済崩壊後の14年間の政策も国民を騙し続けている。規制緩和と言って上場企業を簡単に増やし、簡単に潰す政策を見ている国民が株式投資に積極的になる訳がない。外国投資がないと日本は潰れる様な大袈裟な評論家が多いが、日本における外国投資は発展途上国と違い日本国民のプラスになっているとは思えない。今回の株の暴落も企業業績と関係なく空売りを掛けて儲けている外資系証券会社の実態を見るとこの状況に株式投資を促している政治家などは国民に損を承知で勧める詐欺師と言わざるを得ない。日本経済の停滞は政治不信が背景にある。政治家は改革と言っているが国民に痛みを強いるだけで政治家と役人は何の痛みも受けていないのを国民が良く知っている。財政再建も本当に危機感があるなら政治家も役人も今の様な無責任な予算を組まない。実際は国民に煽っているほど心配事ではないのである。心配なのは財政再建を行わなければ利権が縮小するからである。言葉でなく真の改革として国会議員定数の半減や不要な行政組織の解体をすれば国民の信頼を取り戻せる。政治と行政が国民の信頼を得れば多くの問題は解決に向かうのである。本末転倒の議論はいらない。
人間不在の政治
読売新聞の「明日への話題」に掲載された作家「長部日出雄」氏の現在の経済に対する意見は説得力があった。世界経済を危機に陥れたサブプライムローンと言う問題に対して専門知識がないと言いながらこの様な金融商品を考え出した人も受け入れた人も、マックス・ヴェーバーが資本主義の発展の最終段階に登場すると予言した「精神のない専門人」であるとしか思えないと論じ、古典派経済学の学問の経済学は道徳哲学の一部であり、人間に関する科学として何より問題とするのは、経済的・社会的な生活条件によって育て上げられる人間の質だ、と言う認識をヴェーバーがフライブルト大学の教授就任講演において述べた事を指摘している。更に、ヴェーバーの経済学は財貨より先ず「人間」に関する学問だった述べ、翻ってサブプライムローンや日本の医療制度を崩壊に導きかけている政治家と官僚に共通するのは専ら数字上の計算に終始し、最も本質的な人間の姿を完全に無視していることであると指弾している。確かに、長部氏の指摘している通り今の日本の政治には人間と言う存在はない。最も、近年の経済学は複雑化した社会に対応するために学問的には社会科学の分野の範疇で研究が強化されてきたが、政治に関しては相変わらず人間不在である。今回の選挙に関しても党利党略で国民を考えた動きではない。福田総理の辞任は、公明党の圧力で遅くても来年1月に選挙を実施しなければならなくなり、支持率の低い福田では選挙を戦えないためである。今回の衆議院の選挙は自民党に不利だが、民主党の代表選で「小沢一郎」の他候補を認めない手法に対し、自民党は開かれた政党と差別化できる千載一遇のチャンスが巡ってきた事に活路を見出したことによる。世界政治経済情勢の最も重要な時に国内の党利党略で国益を失する両政党を支持する考えはないが、他に支持する政党が出てこない状況は嘆かわしい。コンピューターの発達が社会現象の分析を容易にし、人間より数字を重視するようになった事が悲劇を生んでいる。特に、若い世代はPCを通して安易に情報を得られたり伝達できるためにあやふやな人間の記憶に頼る経験を軽視しがちだが、コンピュータを万能視するととんでもない間違いに気が付かないで事故を起こす可能性は高い。また、重要な情報は人と人との交流から得られということも忘れてはならない。人を大事にしない組織は未来がないことに気付くべきである。我々の生きている世の中はやり直し出来るバーチャルではないのだから。
地価暴落説のインチキと下落期待者の勘違い
最近、不動産業界を取り巻く環境が著しく悪化したためマスコミを始めとして地価大暴落の合唱で五月蝿い。銀座など一部の高騰した土地についての地価に限定しての話ならば間違いとはいえないが、土地全体の話ならばあり得ない事が誰でも分かる。しかも、バブル経済の崩壊時と異なり、不動産現物の取り扱いの市場以外に不動産証券化の市場や不動産ファンド市場も確立されていることと、今回の不動産会社の破綻は大部分が債務超過でなく、運転資金の不足による倒産であるので不動産の投売りが行われる可能性は少ない。しかし、今の購入希望者は地価暴落を期待しているので高い利回りの物件を追い求めているが、良い場所の物件はどの様な状況でも利回りは低いと言うことを理解するべきである。高利回りの物件を購入しても入居者の退出後に入居率が上がらないような物件では意味がないのである。良く掘り出し物件を求められるが、何らかの瑕疵がなければ不動産は必要以上に安くなることはないのである。もちろん、瑕疵といっても認識には個人差があり、自殺した家でも良いと言う人には良い場所を安く買える可能性はある。それ以外では、100年に1回の大洪水が起きれば家屋が水浸しになる場所とかである。自分の価値観を持って不動産投資を行うのが賢明である。マスコミも他者もそれぞれの思惑で動いているので、それに惑わされると投資機会を失う事を忘れない方が良い。
不動産会社の淘汰は建築構造偽造事件が始まり?
最近良く官製不況と言われる。確かにその通りと言えるが、その原因を深く追求したコメントにはお目にかかれない。日本の役人がバブル経済崩壊以降に財政再建を優先したり、最も悪い時期に会計基準を改正したりと現状を無視した政策を実施してきた事は周知の事実である。しかし、今回の不動産会社に対する融資規制(金融庁は否定しているが!)に関しては、ミニバブルやサブプライム問題を利用しての新興不動産会社の淘汰ではないかと最近思う様になった。今から20年以上前のバブル経済時の不動産に対する融資規制については、その時の事を言えば「全ての不動産会社を対象にした訳ではなかった」のである。当時の大蔵省銀行局の各銀行に対する指示は、「何の独自な技術も持たない会社や社会に貢献しない単なる地上げ業者」をターゲットにしたのであって「社会に貢献している不動産会社」に関しては支援するように指導していたのである。今回の不動産に対する融資規制は「雨後の竹の子」の様に増えた不動産会社に対して行われているが、その理由は「建築偽造事件」の様なモラル欠如の会社が増えたことと思われる。このため、金融機関側は、既に支援すべき不動産会社を選別しているものと思われ、支援されない不動産会社が全て破綻した段階で不動産に対する融資は正常に戻るものと推測される。勿論、この淘汰には依然として需要より多いと思われる建設会社も不動産会社の破綻を受けて倒産することも承知の上であろう。今回の倒産の多くが債務超過でなく運転資金の不足なのが全てを語っていると思われる。今後も新興不動産会社の破綻が続くと思われるが、破綻した会社を分析すると「裏社会との関係」、「モラルの欠如」、「土地転売屋」、「何のスキルも持たない会社」などである。この範疇に入っていなくても担保不動産がない会社は生き残れないであろう。オフバランスは一時流行ったが、非常時の資金調達には固定資産が必要なのである。何事も極端に走るとリスクを招くことになる。
政治・社会が戦前と似てきた?
格差社会、凶悪犯罪の増加、国会混乱で政権の短命など何処かで聞いた話だと思ったら戦前の日本の事でした。勿論、豊かさや、軍隊の強さ、天皇制度などから戦前とは全く違うのですが、「格差社会の拡大」、「凶悪犯罪の増加」、「国会混乱」については間違いなく戦前回帰です。尤も、戦前の格差社会は現代のような生易しいものではありませんでしたが、この格差社会は何百年も続いてきたものですから不条理ではあるものの社会から受け入れられてきた一面はあります。一方、昨今の格差社会は国民の80%の人が中流階級意識を持つに到った時点で起きたことですから、政治が余程ケアしないと社会システムの崩壊に繋がる危険性はありました。小泉改革派はこの様な視点に欠けた政策を実施したため、結果的に制度の改悪を招いてしまった。政治改革に関しては、小沢一郎と言う人物が時代錯誤を省みない2大政党論の小選挙区制度の導入で国会の混乱を引きこしている。価値観の多様化の流れの中で2大政党では民意を汲み取れなくなってきた時代に逆行した小選挙区制度の導入は、戦前の国会の混乱を再現した以外何等の価値も見出せない。戦後の中間選挙区制は戦前の小選挙区制の欠点を考えた上で導入したものであったと思料される。歴史を知らない政治家が簡単に制度を変えてしまう危険性が高まってきている。政治家もマスコミも今のような時間軸が早い時代では大連立が必要性を唱えているが、それなら何のための2大政党の実現のための小選挙区制度か言いたい。国民を嘗めた話である。福田総理の辞任で衆議院選挙が近づいているが、歴史を知らない政治家を選ぶのだけは止めにしたい。
浮利を追わず!
バブル経済が崩壊し平成大不況に陥っていた時に「浮利を追わず」と言う社訓が当社にあったのにバブルの流れに乗ってしまったと、当時の東洋信託銀行(現三菱UFJ信託銀行)の方から聞いたのを思い出した。後年、この言葉は住友グループの営業理念にもある事を知り、関西出身企業の営業理念なのかと思ったものである。渦中にあって「浮利を追わず」が難しいのは今回のミニバブルからも言えるが、新興不動産会社各社のホームページを見るにつけ、グローバル経済の影響か「浮利を追わず」の様な過去の教訓を肝に銘じる言葉はない。然も、某上場企業の入社面接においては「お金に執着すること」の必要性を求められた事を聞いて驚いた事を思い出した。確かに、欧米流では稼げるだけ稼いで若くしてリタイアする事が夢であると言われる。今の日本も人材の流動化は進み、成果主義が浸透したため、「浮利を追わず」は死語になった感がある。新興不動産の会社は一様に成果主義を採用しているが、この成果主義は正に「浮利を追わず」とは相容れないものである。日本の政治も悪いが、成果主義を取り入れて「浮利を追った」会社が"しっぺ返し"を受けている。今回のミニバブルを乗り越えるにはこの反省なくしてはあり得ない。
グルジア問題を深読みする
グルジア問題の本質が見えて来た様に思われる。ロシアが米国の陰謀だと言ってる事も見当違いではないかも知れない。グルジアが南オセチアに軍事攻撃を仕掛けたのは確かである。グルジア政府がこの攻撃に対してロシアが動かないと読んだとは到底思われない。この軍事衝突に対してフランスとドイツの動きも素早かった。イギリスでは中国の五輪報道以上にグルジア問題を大きく取り上げていた。欧米の政府にとっては軍事紛争を抱えることはサブプライム問題で経済不況に陥ろうとする国民の不満を転化させる効果はある。更に、穿った見方をするとロシアにグルジアの一部を渡すことでイラン攻撃を黙認させる意図もあるかも知れない。兎に角、権力者にとって経済不況に対する問題解決に軍事紛争は魅力的である。ロシアは米国大統領選挙で共和党のマケイン候補に有利な状況を作るために行った軍事衝突と指摘しているが、確かにグルジアに飛んだマケイン婦人の行動は素早かった。世界政治は複雑怪奇なのは今に始まった事ではない。サブプライム問題に直面している欧州の各国の政治家からすれば、何とか経済立ち直りの糸口を掴みたいと考えている筈である。それは局地紛争などの戦争行為を含めている事を日本人は考える必要がある。最近の日本の政治家の無策を見ると第二次世界大戦前の政治と同じ道を歩んでいるような気がする。